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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

若戸渡船の歴史についてのまとめ 福岡県北九州市若松区・戸畑区

福岡県北九州市の若松区と戸畑区との間には、洞海湾(どうかいわん)と呼ばれる細長い湾があります。湾の入口から湾のいちばん奥までを地形図で計測すると、およそ10㎞のながさになります。この洞海湾には、若松区-戸畑区間で「若戸渡船」が運航されています。

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『北九州市史(民俗)』P.170を読むと、この若戸渡船について記されています。若戸渡船がどんな経緯をたどって現在のかたちになったのか興味がわいたので、洞海湾で運航されてきた渡船の歴史について調べてみました。

少なくとも渡船は1800年代から続いていた

若戸渡船がいつごろから運航されていたかについて詳細は不明ですが、1867年頃の明治維新前から、若松の地主である山本喜七郎一家が代々渡船経営にあたっていたと伝えられています。


山本喜七郎が運営していたころ、若戸渡船は「大渡(おおわたり)川渡船」と呼ばれていました。大渡川というのは、古い時代につかわれていた洞海湾(どうかいわん)の別名のようです参照


この時代で使用されていた船は小さな伝馬船(てんません)でした。伝馬船とは、近世から近代にかけての日本で用いられた小型の船のことです。伝馬船は、人や荷物、郵便等を運ぶ程度のおおきさで、車馬はもちろん運べず、風雨の激しい時は欠航したといいます。

 

個人経営から町経営へ

渡船を経営していた山本喜七郎は、若松港同盟石炭問屋組合の組合員にもなりました。1885年(明治18年)には福岡県が同業組合準則を発布し、若松港同盟石炭問屋組合が組織されました。組合には、三井物産会社、三菱鉱業会社、安川松本商店、古河鉱業会社の名前があり、中央や地元の有力な資本が入ってきていることがわかります。


山本喜七郎は若松の地主だけあって、若松港同盟石炭問屋組合に加入するほどの財力をもっていたのでしょう。戸畑の伊崎伊勢松も一時期、渡船業をおこなったともいわれます。1889年(明治22年)頃、山本喜七郎は渡船の収入の全部を恵比寿神社に奉納しました。それから渡船経営は若松村に移しました。渡船は村有の財産になりましたが、経営はまだ個人名義、つまり山本名義で行われていました参照

 

1891年(明治24年)、若松村は若松町となりました。1903年(明治36年)12月に、山本氏が、個人名義の渡船経営を町長名義に変更する願いを出しました。このときの若松町は、石炭積出港として全盛だった時代をむかえていました。

 

1892年(明治25年)~1897年(明治30年)、若松は築港と筑豊興業鉄道の開設により石炭輸送基地となり、若松港は全国第一位の石炭積出港となりました。この当時、絶えず港には帆船(はんせん)がぎっしりと碇泊していました*1

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1904年(明治37年)4月に、渡船の名義が町長名義へと変更されました。そして若松町と戸畑町に渡船事業が移譲されました。このとき渡船の名前が、「大渡川渡船」から「若戸共同渡船」へと改称されました。


1904年当時も渡船の事業は、まだ伝馬船(てんません)によるものでした。若戸共同渡船の伝馬船は、両側に腰掛け用の板がはられていました。立客を含めると20人くらいがのれたそうです。屋根も覆いもないので、雨がふると傘をささないといけませんでした。しかし傘をさすと船の重心がくるうので、船頭がいやがり、結局乗客はずぶぬれになったということです。


1911年(明治44年)4月、蒸気船「第一河と丸」が就航し、その後、「第二河と丸」「第三河と丸」が建造されました。1914年(大正3年)4月に若松町が若松市となりました。

 

若松と戸畑の共同経営へ

渡船経営が若松市と戸畑町との共同管理で行なわれるようになりました。1919年(大正8年)3月に、若松市長と戸畑町長は渡船の共同経営に関する協定書を取り交わしました。そして1919年4月から共同経営が実施されるようになりました。協定書の内容としては、協同経営に要する費用はその年の当番市町の予算に計上するなど、が主な内容です。共同経営になってから『大渡川渡船』の名は『若戸共同渡船』と改められました。


同1919年(大正8年)には船の名前が「わかと丸」に改称されました。「わかと丸」は前後に推進器と舵をそなえ、Uターンの必要のない特殊なもので、貨客混載でした。
1924年(大正13年)に戸畑町が戸畑市となりました。1930年(昭和5年)4月2日若戸渡船沈没事故(乗客179名中72名が死亡)が発生しました参照

 

若松恵比寿神社の春季大祭の初日に、若松側渡船桟橋を出た第一わかと丸が、桟橋から40mも離れていない場所で沈没しました。この事故がきっかけとなり、若戸大橋建設の話がもちあがったそうです参照

 

1934年(昭和9年)、車力(しゃりき)*2などの重量物を運ぶため貨物渡船が導入されました。洞海湾に浮かぶ中ノ島と戸畑間にも伝馬船による渡船がありました。これも民営で、定期的なものではなく客があれば随時運航でした。船が対岸にいる場合は、大声で呼び寄せる風景も見られたといいます。

 

貨物渡船の廃止と民間経営への移行


洞海湾における大型船航行が活発になるにつれ、中ノ島は削られることになりました。1939年(昭和14年)10月から(1940年)昭和15年12月の工事で、島は完全になくなりました。1962年(昭和37年)9月26日の若戸大橋の開通にともない、9月27日から貨物渡船が廃止されました。旅客部門も廃止の予定でしたが、利用者の強い要望により存続することになりました。


1963年(昭和38年)2月10日の五市合併*3に伴い渡船の運営が北九州市に移行されました。職員60名が経済局事業部、若戸渡船事務所に所属することとなりました。


若戸渡船事務所は小倉航路事業(小倉~馬島~藍島航路)を所管することとなり、名称は1965年(昭和40年)9月10日より渡船事業所となりました。1971年(昭和46年)6月26日に、渡船事業所は経済局商工部*4の所属となりました。


2005年(平成17年)4月より鶴丸海運に運行業務が委託されました参照


2014年(平成26年)4月より関門汽船に運行業務が委託されました参照

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現在の若戸渡船 港に停まった若戸渡船に乗客がのりこんでいる

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若戸渡船 料金表

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若戸大橋の下を通り戸畑渡場に着こうとする渡船



*1:参照:『北九州の歴史』小田富士雄・米津三郎・有川宜博・神崎義夫共著P.173

*2:車力とは荷物をのせて人が引いたり押したりする車のことです。

*3:五市合併とは、門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の五市が合併したこと。九州初の政令指定都市として北九州市が誕生しました。また、1974年に小倉区が小倉北区と小倉南区に、八幡区が八幡東区と八幡西区を分区し、現在は7つの行政区で構成されています参照

*4:後の経済文化局総務観光部