先日、福岡県嘉麻市の千手(せんず)という場所に珍しい卒塔婆があるという情報を得て、その卒塔婆をさがしに行ってみました。結局、卒塔婆は見つけることができませんでしたが、新しいことを発見できました。この千手(せんず)という地域は昔、秋月街道の宿場町だったということです。これまで福岡県を通る街道は唐津街道、長崎街道を巡ったことがありますが、秋月街道はあまり通ったことがありません。
今回、秋月街道についても少し目を向けてみることにしました。
秋月街道はどこを通っているか?
↑上の図はこちらのサイト「松崎宿縁起」から引用させていただきました。秋月街道の通る位置がわかりやすく示されています。北九州市の小倉からはじまり、長崎街道の田代という宿場町まで伸びる茶色で示された道が秋月街道です。その街道のおおよそ半分ほどに千手宿があったようです。
ここからは、秋月街道をゆくと、こちらのサイト「千手宿[秋月街道]-お寺めぐりの友」を参照しながら千手宿について調べてみたいと思います。
千手の名前の由来は千手寺(せんじゅじ)があったからだそうで、実は私が探していた卒塔婆はこの千手寺の敷地内に祀られていたことが後にわかりました。
秋月街道をゆくによると、千手(せんず)宿は↑こんな感じになっていたそう。前記した千手寺は、この地図の東側…標高130mほどの山手にありました。
↑千手寺
千手宿の起こり
「秋月街道をゆく」で以下のように紹介されていました。
明治初期に編纂された『福岡県地理全誌』を見ると、「旧秋月県管轄七十一の村の一なり。東千手村の支村なりしが慶長七年寅。分て別村とす。同十七年壬子。駅舎を立て、千手新町と呼べり。其後千手村と称す」とあり、千手宿の設立は、母里但馬守が大隈城主となって六年後となる。
”秋月県”とは聞きなれない言葉です。秋月は昔、「県」だったのでしょうか。福岡藩 - Wikipediaで調べてみると、明治時代の廃藩置県以来、一時的に秋月藩から秋月県になったようですね。
福岡藩の支藩として秋月藩があって、その秋月藩が管轄する村のひとつが千手村でした。秋月藩ができたのが1623年。それから1871年(明治4年)の廃藩置県で秋月藩から秋月県となり、その後、福岡県に編入されました。
庚申塔
そんな千手宿でもやはり街道の宿場町なので庚申塔と猿田彦大神がありました。
場所:福岡県嘉麻市千手(せんず)
地図:Google マップ
宿場町の地図でいうと↓千手小学校となりの西楽寺があった場所にこれら三つの庚申塔、猿田彦大神が祀られていました。
一番左側の笠付の庚申塔は「謹慎 庚申尊天」
↓真ん中は「猿田彦大神」と「天明四年」…つまり1784年の銘が刻まれます。私は見落としていましたがどうも「林田彦太郎 」という銘も刻まれているようです(参照)。
↓一番右側にも「猿田彦大神」が刻まれます。
↓これら石塔の前の通りは昔のメインストリートだったのでしょう。共同浴場やお菓子屋さん、旅館、飲食店が立ち並んでいたそうです。
↓こちらは千手寺へと向かう参道で見つけた神様。
石垣の上に祠が祀られているので、小川の中に四本の竹と小さく切った竹で櫓を組み、そこにお供え物をしていました。