福岡県と大分県にまたがる英彦山(ひこさん)。標高約800m地点に高住神社が鎮座します。高住神社ちかくに苔むした巨石が存在感をもって鎮座しています。
場所:福岡県田川郡添田町英彦山
座標値:33.4850311,130.9311371
この巨石には注連縄こそつけられてはいないものの、その存在感をながめると巨石や樹齢の高い樹が、神さまの依代となってきたというのは、うなずける気がします。
福岡県と大分県にまたがる英彦山(ひこさん)。標高約800m地点に高住神社が鎮座します。高住神社ちかくに苔むした巨石が存在感をもって鎮座しています。
場所:福岡県田川郡添田町英彦山
座標値:33.4850311,130.9311371
この巨石には注連縄こそつけられてはいないものの、その存在感をながめると巨石や樹齢の高い樹が、神さまの依代となってきたというのは、うなずける気がします。
福岡県嘉麻市にある射手引神社に「大田神」という神様の名前が刻まれる庚申塔が祀られています。その情報が得られたのは『庚申信仰 (小花波平六著)』P.219で、ここでは”大田神の庚申塔”が列挙されています。
こちらの写真が射手引神社の正面参道です。参道の階段をあがっていくと、すぐ右側に上山田公会堂と呼ばれる集会所があり、この集会所の脇に本殿へとつづくスロープがのびています。
そのスロープ脇に自然石の庚申塔がまつられています。庚申塔が祀られている場所は、参道階段の脇でもあるので目のつく場所です。
場所:福岡県嘉麻市上山田
座標値:33.555594,130.767277
庚申塔正面には「大田神」と刻まれています。そして裏側には「天明三癸卯 春三月吉日」とあります。天明三年は1783年、干支は癸卯(みずのとう)で記銘されている文字と整合します。
この大田神というのは、どのような神様なのでしょう。『石の宗教 (五来重著)』Kindle位置番号2451には、大田神は猿田彦大神の別名であることが紹介されています。
少し長くなりますが、その箇所をぬきだしてみます。
庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申(さる)と猿の相通からきたことはもちろんのことであるが、天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとかんがえたことによるであろう。したがってこの神は「道の神」として道祖神ともなる。
しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることである。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を庚申講の本尊として拝んだのであって、三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰であった。そして「田の神」というものは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神である。
時代のながれとともに、猿田彦大神は庚申信仰のもともとの神様の役割をはなれて、「田の神」様としての役割をになうこととなったようです。
今回ご紹介した大田神の庚申塔が、「田の神」として祀られたのかどうかは不明です。
福岡県北九州市小倉南区の多賀神社に二基の庚申塔がまつられていました。ふたつとも一ノ鳥居のすぐちかくにまつられています。
↓ひとつは「猿田彦太神」の両側に「天保十五年」「辰六月」の文字が刻まれます。天保十五年は1844年。
場所:福岡県北九州市小倉南区大字志井
座標値:33.813046,130.874558
もうひとつの庚申塔にも「猿田彦大神」が刻まれ、向かって左側面に「文化十四丑?五月」と刻まれています。文化十四年は1817年です。
座標値:33.813138,130.874601
どちらの庚申塔にも頭に〇が刻まれています。青面金剛などの像がきざまれる庚申塔では月と雲が刻まれることをよく目にしますが、この庚申塔の場合は、文字塔なので丸い形の月が刻まれているとは考えにくいです。円のなかには梵字らしきものが刻まれた痕跡はみられません。この丸、単独でなにかを意味しているのでしょう。
福岡県嘉麻市上臼井にある日吉神社。日吉神社、一の鳥居をくぐるとすぐ左側の参道脇に二基の庚申塔が祀られています。
場所:福岡県嘉麻市上臼井
座標値:33.563855,130.707931
ふたつのうち一基は珍しく、庚申尊天でも猿田彦大神でも青面金剛でもなく「穂日命」と刻まれる庚申塔です。「穂日命」とは天穂日命(アマノホヒノミコト)のことで、なぜこの名を刻むのかは不明とのこと(参照:『庚申信仰 (小花波平六著)』P.219)
ただ天穂日命は農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神でもあるため、この産業に関わる人が祀ったのではないかと考えられます。
日吉神社周囲は田園でかこわれているので、農業の神さまとしてこの庚申塔を祀り、農業神として「穂日命」の名前がきざまれたのではないかと想像されます。「穂日命」の庚申塔に向かって右側面に正徳二壬辰天(1712年)と刻まれます。
もう一基の庚申塔には「猿田彦大明神」と刻まれ、この文字に向かって右側に「享保三天」、左側に「戊戌 四月吉日」と刻まれているようです。「戊戌」の部分はほとんどみえなくなっており、半分は憶測がまじっています。
享保三年は1718年です。となりの「穂日命」の庚申塔と、ほぼ同時期に建てられたものであることがわかります。
『庚申信仰 (小花波平六著)』P.219では、「天穂日命(アマノホヒノミコト)」の名が刻まれる庚申塔は、福岡県では今回のを除いてあと3例紹介されています。
①遠賀郡遠賀町上別府 今泉神社
②嘉穂郡穂波町高松
③飯塚市菰田 三嶋神社
このうち①のものは、2018年に訪ねたことがあります参照。②③も訪ねてみたいと思います。③のものは三嶋神社…と具体的な場所が記されているのでみつけやすいのではないかと思います。
日本三大カルストと呼ばれる福岡県にある平尾台(ひらおだい)。平尾台は大部分が石灰岩でできている標高300~700mの”カルスト台地”です。そんな珍しい台地のうえに小さな集落があります。
この平尾台の集落にも庚申塔をみつけることができました↓
場所:福岡県北九州市小倉南区平尾台
座標値:33.758727,130.896387
民家の一角、大きな樹の下に庚申塔が祀られていました。「猿田彦大神」と中央に刻まれ、その両側に「天保五 午」「二月下旬」という文字が確認できます。天保五年は1834年です。
周囲は牧歌的な風景がひろがっています。草原では山羊が草を食んでいました。
この場所から東へ500mほど進むと↓下のような石灰岩がむきだしの絶景がひろがります。平尾台集落は山の上の小さな集落なので、まさかここで庚申塔にであえるとは思いませんでした。
大分県玖珠郡九重町から熊本県阿蘇郡小国町までつづいていた路線がありました。宮原(みやのはる)線と呼ばれる、いまは廃線となってしまった路線です。
撮影場所座標値:33.145448,131.109760
この宮原線について『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331-333に、まだ私の知らなかった歴史が紹介されていたので、まとめてみたいと思います。それは…宮原線が全線開通する1954年(昭和29年)の前に、一度、宮原線は線路のいちぶを長崎県へともっていかれていた…という歴史です。
宮原線がはじめに開通したのが「豊後森駅」-「宝泉寺駅」間でした。1937年(昭和12年)のことです。宝泉寺には温泉がわいており、おそらくこの温泉街へひとを運ぶためにつくられた路線だと考えられます参照-宝泉寺温泉-九重町温泉協会。
しかし戦時中には”温泉街へ行くための路線”は優先度としては低くなり、路線の運営を休止させられることとなりました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.331)。
さらに、鉄が必要であったこともあり、使われなくなった線路ははがされ、転用されることとなりました。
長崎県佐世保には戦時中軍港ができ1902年(明治35年)に市となりました。急激な人口増加に対応するため、石炭輸送の効率化が急務となりました。その石炭輸送を主に担ったのが「世知原(せちばる)線」という軽便鉄道でした参照。
この世知原線へ、宮原線の線路が転用されました。
戦争がおわり、鉄の供給が十分にいきわたるようになると、はがされていた宮原線の恵良駅-宝泉寺駅間の線路が、ふたたび敷設されました。敷設後、1948年(昭和23年)に列車の運行が再開されました(参照:『九州の鉄道おもしろ史(弓削信夫著)』P.332)
宮原線のふたつめの駅である恵良駅は現在もJR九州 久大本線のひとつの駅として機能しています。恵良駅ホームのすぐ隣には、昔、宮原線が営業されていたころに使われていた線路が残されています。
さらにはじめから計画されていた熊本県阿蘇郡小国町までの線路延長も達成されました。1954年(昭和29年)に恵良駅から肥後小国駅が開通し、宮原線全線が開通することとなりました。
宝泉寺駅から肥後小国駅までの区間にも、たくさんの廃線跡がのこされています。
そのなかでも代表的なものがこちらの幸野川橋梁(こうのがわきょうりょう)です。この橋梁は鉄がまだ不足していた時代に建てられたもので、なんと竹を橋の骨組みとしてくみたて、その竹筋にコンクリートをぬって建てられた珍しい橋です。
撮影場所座標値:33.136437,131.077556
↓こちらは大分県側に残されているトンネルです。宝泉寺駅と麻生釣駅との間の区間にあります(座標値:33.186034,131.156029)。現在は農道として使用されています。
↓こちらは1番はじめにご紹介した堂山橋梁のすぐ近く(堂山橋梁から北西へ約370m地点)にある堀田橋梁です。
↑撮影座標値:33.147457,131.108337
コンクリートでできているのですが、湿気の多い場所に建てられているためか、表面に苔が生え赤茶色に変色しています。なんだか鉄でつくられた橋のようにみえます。
宮原線は熊本県側にはいってからのほうが、比較的おおくの見どころのある建造物が残っているように感じます。
宮原線に関する史跡は過去にたどったことがありますが、今回は…戦時中に宮原線の線路が長崎へもっていかれた…という新しい知識を得られました。