日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

報恩寺の仁王像 大分県豊後高田市 応利山

国東半島の石造美術 (1972年)酒井冨蔵著 を読んで、昔 写真に撮った国東半島の石造物の復習をしています。写真を撮った当時は何の知識もないのでなんとなしに撮っていたのですが、こういった書籍を拝読すると以下のような情報が入ります。石造物に対してまたちょっと違う見かたができるようになるし、今後の楽しみも増えます。

 

・造られた年代

・どんな分類が為され どの分類にあてはまるか

・著者の石造物を観た際の感想

・まだ拝観していない石造物

 

今回アップするのは豊後高田市の応利山という山にある仁王像です。

場所:大分県豊後高田市来縄 報恩寺 奥の院 参道

座標値:33.534412,131.451336

筋骨隆々で表情が険しいイメージの仁王像とはちょっと違う印象を、国東半島の仁王像の多くからは受けとれます。

 

大分県豊後高田市の応利山。その中腹にある廃寺となった報恩寺。地元の80歳代のかたから聞いた話によると「小学生ぐらいのとき、報恩寺の祭りの際は応利山に登っていた。祭りは毎年楽しみにしていた。今では報恩寺は無人になり寂しくなったけど、管理をするひとはふもとにいる」と聞いたことがあります。

 

80歳代のかたが小学生ということは今から約70年前でしょうか。そんな応利山 報恩寺の参道にある仁王像。

国東半島の石造美術 (1972年)では以下のように紹介されています。

円顔で、物凄い忿怒相は感ぜられず愛ぐるしい。裳裾は膝で終わっているが何だか短かい感じがして、現代のミニスカートを思はせられる。あるいは像容よりくる錯覚かも知れない。(P253)

 

 国東半島独特のずんぐりむっくりの造形が愛らしい仁王像、享保14(1729)年造です。

天瀬にあるアクセス良好な滝 大分県日田市

場所:大分県日田市天瀬町合田

座標値:33.273610,131.004896

 

天瀬(あまがせ)に「桜滝」、「慈恩の滝」以外にこのような立派な滝があるとは。知りませんでした。

大分県の玖珠から日田へ国道210号線を進んでいくと、左側に見えてきます。樹々に囲まれ国道沿いからは一部しか見えません。そのためか、何度かこの場所を通っているにもかかわらず、その存在を認識していませんでした。

 

国道沿いで、この滝の周囲には駐車場はないのですが、ふきんは道幅が一部広くなっているので、そのスペースに駐車が可能です。車が1~2台は停められます。

 

滝の前には展望所があり、展望所までは石段を数段上っていきます。人がいなかったのでこの展望所で三脚を立てて、ゆっくり写真を撮ることができました。

集落の神楽を見学させていただきました 2018年4月29日

大分県竹田市直入町 須郷(すごう)にある萬神社。少人数の神楽で地元のかたのなかに混じり、見学させていただきました。
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写真を撮っていいですか?と聞くと、遠慮せずにどうぞとのありがたい返答をいただきました。実際に目の前で神楽を観るのは小学生のとき以来。忘れられない体験となりました。
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神仏習合の先駆けとなったのが応神天皇 メモ

山の神さま・仏さま (ヤマケイ新書)を読んでいて「大菩薩嶺」という項で応神天皇の話がでてきました。福岡県には各所に神功皇后伝承の残る地が各所にあり、その神功皇后の子どもにあたるのが応神天皇です。そこで応神天皇とはどんな天皇なのかメモを残しておきます。 

 

応神天皇は、実在が証明できる最初の天皇といわれている方で、筑紫国(福岡県)の生まれ。天皇に即位してから中国 百済の渡来人を日本に受け入れ、中国の文化をどんどん取り入れていったといわれます。その実績が徳となり神格化され、宇佐神宮のご祭神である八幡神と結びついたとされます。

つまり宇佐神宮のご祭神は応神天皇応神天皇は571年にはじめて宇佐に現れたとされています(参照)。今では宇佐神宮の一之御殿に祀られています。

 

応神天皇が生まれたのが「仲哀天皇9年」そして没したのが「応神天皇41年」(参照)。西暦になおすとどのあたりなのでしょう?仲哀天皇9年がおよそ200年、応神天皇41年が310年となっています(参照)。

 

でもそうなると応神天皇は110年も生きていたことになります。応神天皇 - Wikipediaの他の記述を読んでみると、はっきりとした生存年がわかっているわけではないようです。

 

宇佐神宮神道。ではその神道仏道と融合する神仏習合に、応神天皇がどうかかわったのか?『山の神さま・仏さま』に戻ります。

 

時代は奈良時代東大寺に大仏を建立する際に八幡神が大きな寄与をしたそうです。大仏が完成したあと、八幡神が神輿にのって大分県宇佐から奈良東大寺まで参拝されました。これ以来、八幡神は神でありながら大菩薩という称号も得たという話です。(参考;『山の神さま・仏さま』大菩薩嶺

剣神社の庚申塔 鞍手郡鞍手町新延

場所:福岡県鞍手郡鞍手町新延

座標値:33.788979,130.6646846

福岡県鞍手郡には「剣神社」が二か所あります。

・福岡県鞍手郡鞍手町木月(きづき)

・福岡県鞍手郡鞍手町新延(にのぶ)

今回は新延という地区にある剣神社に足を運んでみました。この神社に庚申塔を探しにきたのは、何かの情報があってのことではなく、「おそらく庚申塔があるのではないか?」という推測からです。

 

福岡県ではこのような古い神社には庚申塔がある傾向を感じられます。案の定、ありました。あったのは境内の南東端です。

↑上の写真は庚申塔を裏側から見たところです。裏側には記銘はなし。

 

↓表側にもしかしたら記銘があったかもしれませんが、確認はできませんでした。

 

庚申塔であるとわかったのは、↓向って右側側面にかろうじて「庚申」という文字が確認できたからです。

 

この庚申塔はいつ造られたか?

「△■□辰」という字が見えますが、「△■□」の部分が判別しにくいです。「□辰」となる干支を調べてみると、戊辰(つちのえたつ)・庚辰(かのえたつ)・壬辰(みずのえたつ)・甲辰(きのえたつ)・丙辰(ひのえたつ)の5種類がありました参照

 

字体から推測すると庚辰かな?庚申の「庚」の字と、「□辰」の「□」の字体が似ていることからも「□」は「庚」の可能性が高そうです。そうすると「△■庚辰」となります。

 

では「△■」の部分は?なんとなく「△」部分は「卯」と読み取れそうです。「■」は難儀ですが、これは「月」とも読み取れそうです。よって「卯月」か?

 

まとめてみると「庚申 卯月 庚辰」と刻まれていると推測されます。

卯月は旧暦の4月。現在でいう4月下旬から6月上旬ということになり、ちょうど今ぐらいの時期…春から初夏にかけての時期に、この庚申塔が造られたことがわかります。

 

では何年に造られたか?干支の組み合わせは60年周期で周ってくるので、「庚辰」だけでは年を特定することができません。周囲にある庚申塔の造られた年代から推測して、可能性としては1700年(元禄13年)、1760年(宝暦10年)、1820年(文政3年)、1880年明治13年)のあたりが適当なのでしょうか?

 

いづれにしても、これ以上詳細に建立年を特定できる手掛かりはありませんでした。

国東半島の板碑、種子、寺院の宗派 ひとつひとつ繋ぐ

庚申塔の研究」清水長輝著P27では、国東半島において文殊信仰が板碑に多く残されていることが書かれています。いままで国東半島には寺院がたくさんあるけど、その寺院がどの宗派であるか、あまり気にしていませんでした。

 

よく訪れていた文殊仙寺は天台宗なのか!と『庚申塔の研究」を拝読して、改めて認識できました。

 

国東半島では板碑を見かけることがありましたが、文殊菩薩の種子である「マン」が刻まれる板碑が、探せば国東半島のどこかにあるのかもしれません。

 

さらに、国東半島に根付いている六郷満山文化について気になり少し調べてみました。元来の山岳信仰と八幡信仰、そして天台宗が融合して生まれたのが六郷満山の文化なのだそう(参照)。そして天台宗の寺院として国東半島のなかで有名なのが文殊仙寺(もんじゅせんじ)。

 

板碑…これに刻まれる種子、そして寺院の宗派。ひとつひとつ丁寧に見ていくと、だんだんつながっていくことがおもしろいですね。

 

↓こちらは文殊仙寺に祀られる十五羅漢像。

三尊の種子が刻まれる大分県最古の板碑 国東市安岐町

場所:大分県国東市安岐町朝来 護聖寺
境内左手奥に祀られる二基の板碑。釈迦三尊の種子(しゅじ)が刻まれます。

向って右は大分県最古で1291年、左は1329年の造。刻まれる種子ははっきりとしててわかりやすいです。こちらのサイト(梵字と種子の一覧 | 古文書便覧)を参照して、板碑に刻まれる文字がどの種子なのか推測してみました。おそらく下図↓の三尊と思われます。