壱岐の島の東側、内海湾(うちめわん)の入口ふきんに有名な六基の地蔵菩薩像がまつられています。海のすぐそばです。満潮のときは水につかり、干潮のときは写真のように海からでてきます。「はらほげ地蔵」と呼ばれています。
場所:長崎県壱岐市芦辺町諸吉本村触
座標値:33.784080,129.787458
以下のyoutubeチャンネルで、満潮になった状態での、はらほげ地蔵が紹介されています。満潮時には地蔵菩薩の胸あたりまで海水がくるそうです。
『はらほげ」…はら(腹)がほげている(穴があいている)ということなので、地蔵菩薩のおなかの部分に穴があいているのかな、とおもって観察してみました。しかし、大きな穴が開いているようではなさそうです。
正面側から観察しても…
うしろ側から観察しても、穴はあいていません。
民俗学者 宮本常一氏の著書である『私の日本地図〈15〉 壱岐・対馬紀行』P.113では、これらの地蔵尊のことが紹介されています。
村の西のはずれのところの海中に地蔵さんがある。かえりに見ると潮がひいて浜になっていた。もと陸にあったのを埋めたてをしたとき、地蔵様だけ沖へ出したのだという。年一回、盆に坊さんをまねいて供養をし、施餓鬼の旗をたてるが、潮がみちると一晩で紙はちぎれて竹だけのこる。
お盆のとき、施餓鬼(せがき)の供養をするということが書かれています。この6基の地蔵菩薩像は、生前の行いによって餓鬼道に落ちた魂を供養する際に、祈りの対象とされていたようです。施餓鬼は、無縁仏など供養されない死者に施しを行うためにおこなわれる法要で、特定のだれかを供養する…ということではないようです。
参照:施餓鬼とは何をする法要?
参照:wiki 施餓鬼
宮本氏の文によれば、施餓鬼のためにたてられた紙製の旗は、一晩のうちに波にさらわれると書かれています。そうすると、そんなに背の高い旗ではなく、地蔵菩薩像とおなじくらい…もしかしたらもっと背の低い旗がたてられていたのかもしれません。
宮本氏の文書のなかには「はらほげ」という言葉はでてきていません。
現在たてられている「はらほげ地蔵」の案内板には"干潮時にお腹の部分にお供え物を入れ、再び干潮になる時、お腹に入れたお供え物が"海中に運ばれる際に祈りを捧げたのが始まり”と紹介されています。
おなかの部分には、みたところお供えできるような空間はなさそうです。どうして「はらほげ」と呼ばれるようになったのか不思議です。施餓鬼の旗を供える風習が変わって伝わってきたのか…
地蔵菩薩は胸の前で手をあわせていますが、もしかしたら、その箇所がくぼんでいるので、そのくぼみにお供えをしていたのかもしれません。いずれにせよ、地蔵尊が祀られる場所からながめる内海湾の景色は美しかったです。