『北九州市史(民俗)』P.583に、以下のような地蔵尊が紹介されていました。
戸畑区銀座一丁目にある地蔵は、元この付近で石材商を営んでいた人が新庚申から昭和七年、日ごろ念願だった地蔵尊や不動明王で自分で刻んでまつったもので、光背の上部にツルを刻んであるのは四国の鶴林寺を表したものといわれている。「帆柱四国第二十番札所」となっており、今でも多くの信者の参拝者が見られる
まずはGoogle mapのストリートビューで戸畑区銀座一丁目付近を散策してみました。すると以下の地点にそれらしき場所をみつけることができました。
場所:福岡県北九州市戸畑区銀座1丁目
座標値:33.897819,130.817374
↓実際にいってみました。周囲は工場地帯のためリフトなどが行き来しています。そんな場所にたくさんの石仏がならべられているお堂があるとは、意外な感じがします。
↓反対方向からお堂をながめた写真です。となりには大きな倉庫があり、お堂には「廻向妙法院 飛幡大師堂」という看板がかかげられています。
お堂の前には、ふるい感じのする一石五輪塔と「帆柱山四国第二十番霊場」の石柱、そして「永岡鋼業株式会社」がこのお堂を寄進したという記念碑がたっています。しらべてみると永岡鋼業は、このお堂のすぐ西隣にある会社です。すぐ近くの会社がお堂を建ててくれたのですね。
目的とする不動明王様は、お堂の中央部にまつられていました。このお堂にはたくさんの石仏がまつられており、古いものがあったり、比較的あたらしいものがあったりと建立年代がさまざまなようです。
案内板をよんでみると、このお堂の歴史がやや複雑なので、ここで案内板情報を箇条書きに整理してみます。
・今から180年ほど前にはじめのお堂がつくられた
・お堂は今の場所とは別のところに建てられた
・お堂をつくったのは地元の有志のかたがた
・当時、このあたりでは水難事故がおおかった
・水難事故防止のために波切不動明王さまをまつった
・その後、帆柱四国第20番札所となった
・築地(ちくち)大師堂と名付けられた
・平成29年(2017年)現在の地に移築された
・飛幡(とびはた)大師堂と改名された
今から180年ほど前にはじめのお堂が別の場所につくられた…とあります。今から180年ほど前ということは西暦1840年前後となります。元号では天保10年前後で江戸時代のことです。この情報はお堂にたてられている案内板の情報です。
一方で、北九州市史(民俗)P.583には…昭和7年に石材商のかたが自分で不動明王像をつくった…と紹介されています。ということは江戸期につくられた不動明王像と、昭和につくられた不動明王像、すくなくとも2基の不動明王像があるということになります。
こちら↑の不動明王像はいつの時代につくられたものかは不明です。作りがしっかりとしていることと、不動明王像のまわりにまつられている石仏も状態が良好できれいなことから、近年つくられたものではないかと感じます。
不動明王様がまつられている左手方向に施錠されたお堂がありますが、こちらにもしかしたら古い時代の不動明王様がまつられているのかもしれません。施錠されたお堂の前には地蔵菩薩がまつられていました。
上記のようなお堂とはまた別の区画に、↓下の写真のような古い時代のものとおもわれる石仏群がまつられています。こちらのなかにも不動明王座像がまつられています。
この写真の石仏をみてみると、はじめにご紹介した不動明王立像よりも、石が古いことがはっきりとわかります。信仰心の篤いかたがたにより、徐々に石仏が奉納されていき現在のような、たくさんの石仏がまつられるお堂ができたと考えられます。
江戸期にまつられていた不動明王様は、風雨から守るために、もしかしたら↑上の写真の真ん中、クリーム色の施錠されたお堂のなかに祀られているのかもしれません。