福岡県の北九州市八幡西区と遠賀郡、中間市には、手で掘られた川が通っているということを聞いたので、その名残を探しにいってみました。その名も「堀川(ほりかわ)」という川なのだそうです。
人が手で造った川ってどんな形の川なんでしょう。今もちゃんと機能しているんでしょうか?そもそも、どうしてそんな手間をかけて川を造る必要があったでしょうか?…などなど想像がふくらみます。
どうして手で掘ってまで川を作る必要があったのか?
昔…江戸時代までの遠賀川は、いまのような立派な堤防がなく、川の流域はたびたび洪水がおきていました。そこで、1621年から遠賀川から洞海湾へ水を流して、洪水を防ぐために川が掘られたのだそうです。
赤い線で表したのが堀川です。北九州市八幡西区の楠橋(くすばし)という地区から、中間市、折尾を経由し洞海湾まで約12㎞も続いてます。
↓これが実際の堀川。上の地図でいえば「吉田車返」という場所ちかくの写真です。
ノミで掘った跡が残る 折尾高校付近の堀川
堀川というくらいだから、実際に手で掘ったのですが、その堀跡が吉田という地区に残っているそうです。折尾高校を目標にいくとわかりやすかったです。
吉田付近はゴツゴツとした岩山を切り開いて川を通したそう。
川の両岸の壁をよく見ると、たしかにノミで削った跡がみえました↓
ここの工事が行われたのが1751年…つまり今から265年も前です。そんな前のノミ跡が残ってるなんて、吉田付近の岩盤がどれだけ固いのかがわかります。当時は郷夫(ごうふ)と呼ばれる石工の専門家が工事にあたったそうです。
「吉田車返(よしだくるまがえし)」という地名の由来は、なんとなく「車が通れないほど固くて引き返すほどの岩山だった」ことから来ているのが想像されます。
なんども壊れた中間の唐戸
昨日にご紹介した「中間唐戸(なかまからと)」です。遠賀川と堀川の境界部分に建てられた、いわゆる水門です。遠賀川からの水流を調整するものなのですが、なんども強い水流に押されて水門が壊れてしまいました。
悩んだ当時の建設責任者が、壊れない水門はどうしたら造れるのか、岡山県吉井川に架かる石唐戸の構造を参考にしたそうです。その後、唐戸は再建設され、壊れないこの唐戸が完成されたのだそうです。完成は1762年のことです。
追加して造られた寿命(じめ)唐戸
こちらは堀川の発起点にある水門、寿命(じめ)の唐戸です。遠賀川の水の取り込み口は中間の唐戸で、ここに水を集中させるために遠賀川をせき止めていました。そのため遠賀川の上流では水が溜まってしまい、湿田化してしまいました。そこで遠賀川の水の取り込み口を、さらに上流へ移動させることになったそうです。
↓地図でいうと「寿命の唐戸」と示したあたり。楠橋(くすばし)という地区です。
川の上に覆いかぶさるように、瓦屋根の木造建造物がある景色は珍しいですね。寿命唐戸が完成したのは1804年です。
180年間かけてじっくりと完成された堀川
堀川の工事が開始されてから、寿命唐戸が完成(1804年)するまでかかった時間は183年。なんとも長い時間をかけて造られたのですね。
工事開始が1621年。土砂崩れなどの事故がたびたびおこって、一度工事が中止されたのが、時間がかかった原因のようです。
堀川が完成されてからは、北九州の産業を支えた石炭を運ぶ船が往来していました。↓これらの写真は、「吉田車返」にある河守神社に掲載されている昔の写真です。
五平太舟(ごへいたぶね)という、舟の底が平たくなっている舟。あまり深くない川を進むので舟底を平たくした舟なんだそうです。
写真を見ると、唐戸では舟一隻がやっと通るほどの幅だったようですね。
まとめ
遠賀川両岸には、いまでは立派な堤防が建てられ、工業のエネルギー源として石炭は使われなくなりました。石炭を運ぶための運河とか、洪水を防ぐとか…堀川は昔ほどの機能は担ってはいないようです。
堀川の工事跡をたどっていくことは、福岡の歴史の一端を知るいいきっかけになりました。