宇佐平野を見下ろす小高い山、647mの御許山(おもとさん)。宇佐神宮の元宮がある場所です。
山頂には3つの巨石があり、日本書紀では、これを目印として御許山には女神が舞い降りたとされています。古くから山が信仰の対象であり、縄文・弥生時代から人々はこの山を崇拝してきたといわれています。
↓google mapでみると、宇佐神宮の南東に御許山がそびえているのがわかります。
御許山(おもとさん)は宇佐神宮の場合、「奥院」、「本社(もとやしろ)」、「元宮」という名前で呼ばれています。
宗教的な呼び名は御許山、そして歴史的呼び名では馬城峯(まきのみね)とされる。
山頂には3つの巨石があると前記しましたが、この石の周囲一帯は足を踏み入れてはいけない場所になっています。
この一帯に足を踏み入れると体調が悪くなると言い伝えられ、巨石を直接礼拝できるのは、大宮司と33年に一度ずつ行なわれた六郷満山峯入り行者だけです。
だから、山頂にある大元神社は、こんなふうに(↓)拝殿があるだけで本殿はありません。
拝殿のうしろは鉄条網で仕切りがされてて、容易にはいれないようになってます。
↓ここから先は、比賣(ひめ)大神が鎮座される宇佐神宮の「奥宮」です。
ここ、大元神社では毎年4月29日に春祭りが開催されます。毎年、多くの人がこの祭りに参加し、餅まきや直会(なおらい;神事の最後に、神事に参加したもの一同で神酒をいただき神饌を食する行事)を楽しみます。
ちなみに、大元神社までは車でもいけますが、道が悪いのでタクシーをたのむと通常の倍の値段がかかるそうです。健脚のかたは歩いて登ってみるのも楽しいと思いますよ。
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前置きがながくなってしまいましたが、御許山(馬城峯)には、むかし霊山寺と正覚寺というふたつのお寺があったそうなんです。霊山寺は、鎌倉時代にはもうすでにその建立時期がわからなくなっているほど、そうとうな昔に建立された寺だそうです。
一方、正覚寺は山頂から14~15町(1.5㎞~1.6㎞)下にくだったところにあり、いまでも正覚寺という地名を残しているとのこと【宇佐宮 中野幡能著(日本歴史叢書)】。実際、地形図をみてみると…正覚寺という地名が何か所かありました(↓)
でも、どこに正覚寺があったのか、はっきりしたことはわかりません。
御許山という神道の色濃い地でも、仏教のお寺があり珍しいですね。国東半島でもこういった神仏習合(しんぶつしゅうごう)がみられる場所があります。
↑霊仙寺のすぐそばにある今夷社(いまえびすしゃ)
神社のとなりにお寺があったり…。歴史をみると、神が仏教に救いを求めた…とあり、ここから神仏習合がはじまったのだそうですね。
奈良時代のわが国は、中国の唐(とう)にならって、律令国家の建設を進めていました。しかし、東北の蝦夷(えみし)と南九州の隼人(はやと)はその中に組み込まれることに強く抵抗しました。『八幡宇佐宮御託宣集』(以後『託宣集』という)には、8世紀のはじめころに起きた隼人の反乱を制圧するため、八幡神を神輿(みこし)に乗せ、宇佐の人々も参加されたことが記しています。
その歴史は、宇佐神宮の重要な祭礼(さいれい)である「放生会(ほうじょうえ)」として今日に伝えられており、隼人との戦いで殺生の罪を悔(く)いた八幡神が、仏教に救いを求めたことに起因しています。これを契機に、宇佐での神と仏が習合した先進的な思想が成立しました。神仏習合 │ 八幡総本宮 宇佐神宮
身近な場所で、よく知っている場所だと思っていた宇佐神宮も、昔の書物を掘り起こせば、まだまだ知らないことがたくさんでてきますね。史跡めぐりはこれだから楽しくてやめられません。