日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

手光(てびか)波切不動古墳 福岡県福津市手光

福津市を訪れたとき、目的地の近くにあった手光波切不動古墳(てびかなみきりふどうこふん)を訪ねました。Google mapで史跡というキーワードで検索すると、こちらの古墳が結果にあがり、古墳内部にまで入れることが紹介されていたため、訪れてみることにしました。

場所:福岡県福津市手光

座標値:33.770278,130.497960

 

入口付近の案内板によると、古墳内部の玄室(げんしつ)…つまり遺骸や副葬品をおさめている部屋…の高さが2mあるとのことです。古墳の入口である玄門(げんもん)から玄室のいちばん奥までの長さが10.8mの「横穴式石室」。横断面図を下に示します▼

羨道(せんどう)部分を写した写真です▼ 床面はコンクリートでできているのではないかと思うような平らな石(床石)が埋め込まれているようです。

玄室には江戸時代の終わりごろ…おそらく西暦1850年~1860年ごろ…に安置された波切不動尊がまつられています▼ 写真で確認してもわかりますが、玄室の奥側の幅が狭くなっています。このような構造の古墳は九州ではめずらしいそうです。

 

床石を備え玄室奥の幅が狭まる石室構造は、九州では通常みられな いものです。他地域の石室と比較検討した結果、畿内(大阪府など)の有力者の古墳に 採用された横口式石棉という埋葬施設の影響を受けたと考えられます。(参照:案内板)

▼波切不動尊

玄室(げんしつ)や羨道(せんどう)の壁を見てみると、巨大な直方体の石で構成されています。巨大な岩が、丁寧に積み重ねられて古墳がつくられているようです。岩はきれいに整えられているので、四角く加工されているようにみえます。

この岩は玄武岩(げんぶがん)という、火山から吹き出てきたマグマが固まった岩石で、黒っぽい色をしているものです。

案内板によると、この玄武岩は、手光波切不動古墳の西側約11km地点に浮かぶ「相島(あいのしま)」から運ばれてきたということです。

 

石室の石材は大部分が玄武岩で、天然で板状のものを利用しています。個々の重量は 約0.5~7tと推定できます。岩石学的調査の結果、これらの玄武岩石材は沖合10km にある相島(新宮町)から運んできたことがわかっています。(参照:案内板)

相島(あいのしま)を、地質図naviで確認してみると、たしかにアルカリ玄武岩・粗面玄武岩で構成されていることがわかります。古墳周辺(半径1~2km)には玄武岩が露出している場所はないようですが、古墳の北西約5kmの地点に「大峰山」という、これも玄武岩が含まれている山があります。大峰山(おおみねやま)は福津市の渡という地区にあります。

さらに大峰山の北東部にも2つ小山(丸山、森山)があり、これも山頂付近が玄武岩質となっています。こちらの福津市渡地区から、古墳の石材をもってきたと考えるのが自然な感じがしますが、厳密な検査では相島の玄武岩と、古墳の石材となっている玄武岩とが同一のものであるということで、整合性がとれたのだと考えられます。そうすると、相島から何トンもある岩を船で運んできたことになります。相当な労力であったと考えられます。

案内板では、古墳の築造年代は7世紀前半(西暦600年~650年)とされています。

絹干神社の境内にまつられる四基の庚申塔群 福岡県鞍手郡小竹町新多

小竹町の新多(にいだ)という地区に絹干神社(きぬぼしじんじゃ)が鎮座します。境内に四基の庚申塔がまつられていました。

拝殿にむかって左側に屋根付きで、六基の石塔がまつられています▼ おそらくそのうち四基が庚申塔です。「おそらく」というのは、四基のうち一基は風化により刻まれていた文字がまったく判読できなかったためです。下の写真だと一番右側の石塔が「おそらく」庚申塔です。その形状や、他の庚申塔とともに一箇所に祀られていることから、庚申塔だと考えます。

場所:福岡県鞍手郡小竹町新多

座標値:33.693314,130.681157

 

庚申塔の概略図・配置図を下に示します▼

①から順番にご紹介します。

 

①(記銘・建立年不明)

 

②庚申尊天、□□二天、□月□。元号の部分がみえなくなっています。建立年は不明です。

 

 

③庚申尊天、享保十五、六月廿五(三?)。享保十五年は西暦1730年、干支は庚戌(かのえいぬ)です。

 

 

④□□□庚申尊、□□五(三?)、二月(三月?)。ほとんどの文字がみえなくなっています。建立年はわかりません。かろうじて「庚申」という文字が確認できるという状態です。台座の部分に庚申講メンバーの名前が刻まれているようです。

 

亀山神社の境内にまつられる四基の庚申塔群 福岡県鞍手郡小竹町勝野

福岡県鞍手郡(くらてぐん)の小竹町(こたけまち)勝野に亀山神社が鎮座します。境内に四基の庚申塔群がまつられていました。

四基の庚申塔群の配置概略図は以下のとおりです▼

 

①の庚申塔は鳥居のすぐそばにまつられていました。1枚めの写真にうつされた鳥居のすぐそばです。

場所:福岡県鞍手郡小竹町勝野

座標値:33.693996,130.707225

 

①猿田彦大神天、寛保三年、亥十二月十一日。寛保三年は西暦1743年、干支は癸亥(みずのとい)です。

②③④の三基の庚申塔は、社殿にむかって左側に、石祠とともにまつられていました▼

②③④と順番に、ご紹介してゆきます。

 

②庚申祭壇、明和三天、正月吉日。明和三年は西暦1766年、干支は丙戌(ひのえいぬ)です▼

 

 

③(不明)、宝暦十三年、未正月。宝暦十三年は西暦1763年、干支は癸未(みずのとひつじ)です▼

 

④庚神祭壇、宝暦十四天、三月吉日。宝暦十四年は西暦1764年、干支は甲申(きのえさる)です▼

 

潤野炭鉱慰霊碑 福岡県飯塚市潤野

場所:福岡県飯塚市潤野

座標値:33.633156,130.667331

 

「死者之碑」と刻まれた石碑。裏側には「明治三十六年一月十七日」の日付と、死者氏名がずらっと刻まれています。明治三十六年は西暦1903年です。1901年に、今の北九州市に創業された八幡製鐵所(やはたせいてつしょ)へ石炭を供給するための炭鉱のひとつでした。潤野炭鉱は、1899年に国に買い取られましたが、その4年後にガス爆発がおきました。このときのガス爆発の犠牲者は64名でした。64名の犠牲者名がここに刻まれています。

 

慰霊碑は墓地のいっかくにまつられています。墓地は福岡県立嘉穂高校のすぐ東側に位置します。墓地のさらに東側630m地点にはイオン穂波店があります。嘉穂高校がある場所は潤野炭鉱本鉱、イオン穂波店がある場所は潤野炭鉱中央坑があった場所です。

 

慰霊碑の土台部分。石垣がつまれている部分をよく観察してみると、石炭っぽい岩がまぎれていることがわかります。これはおそらく「松岩」と呼ばれる岩と考えられます。

松岩というのは、石炭層のなかにまじっている石炭になりきれなかった石(珪化木;けいかぼく)のことです。この石の特徴は、とても硬くて重いことです。

 

筑豊炭田で石炭を採るとき、なかなか機械化が進まなかったそうですが、この硬い松岩が多くて、石炭の採掘を邪魔してしまうからなのだそうです。そのため、松岩はやっかいもの扱いされ、ゲッテン(手に負えない)石とも呼ばれました。

 

この手に負えない石を逆に利用したのが、石垣、排水路、墓標、庭園の岩などです。

 

参照:書籍『筑豊の近代化遺産(弦書房)』P92、P93

濱生神社の境内にまつられる庚申塔群 福岡県飯塚市目尾

福岡県飯塚市(いいづかし)の目尾(しゃかのお)という地区に、濱生(はまお)神社が鎮座します。ここに6基の庚申塔群がまつられていました。

 

場所:福岡県飯塚市目尾

座標値:33.674997,130.698273

※庚申塔の数が多いため、座標値は社殿の場所を示しています。

 

濱生神社 境内の概略図は以下のようになっています。社殿にむかって左側に5基の庚申塔群、右側に1基の庚申塔と、そのほかの神様がまつられています。石祠も合わせると、13基の石塔や石祠がまつられています。

 

▼社殿にむかって左側にまつられる石祠と庚申塔群です。

①から⑥まで順番にご紹介します。

 

①道祖神、建立年などの文字はみられませんでした▼

 

②興玉神(おきたまのかみ)、安永四未年、十一月吉日。安永四年は西暦1775年、干支は乙未(きのとひつじ)です。

 

③猿田彦大神、□□三。元号部分が読み取れず、造立年は不明です。

④猿田彦大神、享保十乙巳年、十二月上浣。享保十年は西暦1725年、干支は乙巳(きのとみ)です。「上浣(じょうかん)」は、月の初めの10日間とか、上旬を意味します。「浣」は”すすぐ”という意味参照

 

⑤□□□大神、天明五巳年、一月吉日。神様の名前部分が風化し、読み取ることができません。しかし、横にまつられている庚申塔から考えると、「猿田彦大神」と刻まれていたと考えます。天明五年は西暦1785年、干支は乙巳(きのとみ)です。

 

 

今度は、社殿にむかって右側にまつられている庚申塔をご紹介します。

 

⑥猿田彦大神、明和九壬辰□年、正月吉日。明和九年は西暦1772年、干支は壬辰(みずのえたつ)です。

 

 

社殿にむかって右側にまつられている石塔群のうち、庚申塔以外の石塔も以下、ご紹介します。

石塔①。「作□」と刻まれているようにみえます。それ以外の文字は確認できませんでした。



石塔②。稲荷大明神、宝暦十二年、壬午四月朔日立之。宝暦十二年は、西暦1762年、干支は壬午(みずのえうま)です。朔という字は「ついたち」と読み、その文字どおり「一日(ついたち)」を意味するそうです参照。「立之」は、”この塔を建てた”という意味をあらわすのだと考えられます。

 

石塔③。玉□大神、安永十□年。「玉」の下の文字が読み取れませんでした。頭に「玉」がつく名前の神様をしらべてみたところ、「玉姫大神」という可能性が考えられます。玉姫大神の別名は、宇迦御魂神(うかのみたまのかみ)。稲荷大明神とおなじように、五穀豊穣、商売繁盛のご利益もあるそうです参照。安永十年は西暦1781年、干支は辛丑(かのとうし)です。風化のため読み取れませんでしたが、「安永十□年」の部分は、「安永十丑年」と刻まれていたのかもしれません。

 

皇祖神社に祀られる庚申塔群 福岡県飯塚市鯰田

福岡県飯塚市の鯰田(なまずた)という地区に、皇祖神社(こうそじんじゃ)が鎮座します。

皇祖神社の境内に、複数の庚申塔がまつられていました。文字がみえなくなっているものが一部あり、庚申塔と判断できない石塔もあります。判断できない石塔もふくめて、境内に祀られている石塔群を記載してみたいと思います。今回、ご紹介する石塔は7基です。

 

場所:福岡県飯塚市鯰田

Google map

 

石塔群と神社本殿の、おおよその位置関係を示すと、以下のようになります。

①→⑦まで順番にご紹介します。まず①~⑤です。鳥居をくぐって、すぐ右側にまつられている庚申塔群です。



①猿田彦大神、という文字のみが確認できます▼

 

②「猿」らしき文字が、かろうじて確認できます。他の文字は見えません▼

 

③石塔正面の文字は風化してみえなくなっています▼ この石塔の左右には猿田彦大神の庚申塔と、庚申の文字が刻まれている庚申塔がまつられているので、状況から考えると、こちらの石塔も庚申塔なのではないかと予想されます。

石塔裏の下側に石塔を建てた講中の名前が刻まれているようです。

 

④庚申、という文字のみが刻まれています。側面・裏側には文字は確認できませんでした▼

 

⑤「□□□尊天」という文字が確認できますが、風化がはげしく何の神様なのか判読できません。

刻まれている文字をそのまま書き出してみます▼が、もとの文字を想像することができませんでした。



次は、⑥と⑦の石塔をご紹介します。⑥のすぐ背後に⑦の石塔が隠されるようにして祀られています。

 

⑥「庚申」という文字のみが確認できます▼

⑦表面が剥離しており、文字は確認できませんでした。

 

 

7基の石塔群のうち、確実に庚申塔であると確認できたのは、①猿田彦大神、④庚申、⑥庚申、と刻まれた3基のみでした。

大行事神社の境内にまつられる4基の庚申塔群 福岡県飯塚市鯰田

飯塚市(いいづかし)鯰田(なまずた)という地区に、大行事神社があります。この境内に4基の、おそらく庚申塔とおもわれる石塔がまつられていました。

 

場所:福岡県飯塚市鯰田

座標値:33.668240,130.701100

 

 

 



 

一番右側の庚申塔らしき石塔ですが、文字が風化して、みえなくなっています▼

庚申塔にむかって右側面に、元文五庚申年、□月十四日と刻まれています。元文五年は西暦1740年、干支は庚申(かのえさる)です。

左側面には、甲子(きのえね)十一月再興、と刻まれています。

 

右から2番目の庚申塔には、猿田彦大神とのみ刻まれています。造立年月は確認できませんでした▼

 

 

右から3番目の庚申塔らしき石塔にも文字は確認できませんでした▼

 

 

右から4番目…つまりいちばん左側の、小さめの庚申塔には、猿田彦、とだけ刻まれています。

裏側には、天明、という文字がかろうじて読み取れます。しかし何年であるかは確認できません。天明年間は1781年~1789年の9年間です。

 

大行事神社が鎮座する地域は、遠賀川のすぐそばで、川からながれてくる堆積物により地質が主に構成されています。またすぐ南側には砂岩・泥岩で構成されている地域が一部ひろがっています。

 

参照:地質図navi

 

大行事神社の境内にまつられる4基の庚申塔は、おそらく砂岩で1700年代に造立されたものなのではないかと想像されます。砂岩であるために、その大部分が剥落して文字がみえづらくなっていると考えられます。