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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

福岡県宗像市の貴重な考古遺跡:鐘崎貝塚 福岡県宗像市上八

福岡県道502号線を車で走っていると、「鐘崎貝塚(かねざきかいづか)」の看板が立っている場所があり、その先にこんもりとした丘があるのが目にはいっていました。気になっていた場所だったので2024年1月25日にいってみました。

場所:福岡県宗像市上八

座標値:33.871569,130.529521

国土地理院地図で鐘崎貝塚の場所を確認すると、「さつき松原」の北端部に位置しています。地質図naviでは貝塚がみつかったあたりは「海岸・砂丘堆積物」でできていることが確認できます。「さつき松原」の松林がある地域は、新生代・第四紀 後期更新世前期…258万年前~77万4000年前…に堆積した砂の土地だということがわかります。

鐘崎貝塚は、上八(こうじょう)という地区にあるために上八貝塚ともよばれます。現地は案内板がたっているのみで、なにか遺跡らしいものがあるわけではありません。

丘の上から貝塚を眺める

鐘崎貝塚について調べてみると、この遺跡からは磨消縄文土器(すりけしじょうもんどき)と呼ばれる特殊な土器が発見されたとのことです。

 

磨消縄文土器というのは、下図のような方法で縄文文様(じょうもんもんよう)がつくられるものだと考えられます。

磨消縄文土器のつくられかた

①撚紐(よりひも)を回転させて縄文様をつける

②沈線(ちんせん)*1などの文様を描く

③区画内の縄文を工具などで磨り消して文様を完成させる

 

参照:磨消縄文 - Wikipedia

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このようにつくられる磨消縄文土器は、特徴的なので九州では初めて、ここ鐘崎貝塚で発見されました。そのため考古学者の三森定男氏が「鐘が崎式土器(かねがさきどき)」と名付けました。

 

他の論文などを調べてみると、その多くが「鐘崎式土器」と書かれているので、以下「鐘崎式土器」と書いていきます。

 

鐘崎式土器は、今から約4400年前~3200年前の縄文時代後期に使用されていた土器なので、この時代を象徴するものとして九州北部の標識土器となりました。

 

長崎県の壱岐(いき)や対馬(つしま)でも、この鐘崎式土器が発見されています。

対馬の鐘崎式土器がみつかった場所

志多留貝塚(したるかいづか)

場所:対馬市上県町大字志多留守茂

 

越高・越高尾崎遺跡

場所:対馬市上県町大字越高字ハヤコ

 

夫婦石遺跡

場所:対馬市上県町大字久原字夫婦石

 

佐賀貝塚

場所:対馬市峰町大字佐賀

 

西加藤遺跡

場所:対馬市豊玉町嵯峨字加藤

 

鐘崎式土器がみつかったおおよその場所を下地図に黄色で示す↓

壱岐の鐘崎式土器がみつかった場所

松崎遺跡

場所:壱岐市勝本町本宮南触字松崎地先海岸

 

鐘崎海岸遺跡・名切遺跡

場所:壱岐市勝本町本宮南触字名切山

 

参照:玄界灘島嶼域を中心にみた縄文時代日韓土器文化交流の性格(PDF)

 

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縄文時代の「後期中葉」という時期に、対馬の佐賀貝塚、志多留貝塚、夫婦石遺跡、ヌカシⅡ層上部などで鐘崎式土器が多量に出土しています。縄文時代の後期中葉は、いまから4000年前~3600年前ということになります。

つまり、いまから4000年前~3600年前には対馬の東海岸地域にも人がすんでいたということがわかってきます。

 

沖ノ島でも縄文時代の遺跡がみつかった

沖ノ島でも、鐘崎式土器と同じような標識土器が出土しており、縄文時代に人がすんでいたことがわかっています。

 

・沖ノ島4号遺跡…洞穴遺跡

この遺跡からは縄文時代前期(いまから7000年前~5500年前)につくられていた曽畑式土器や、中期(いまから5500年前~4400年前)につくられていた阿高式土器*2や、晩期(いまから3200年前~2400年前)につくられていた黒川式土器が出土しています。

 

・沖ノ島社務所前遺跡

縄文時代、前期中期晩期の土器が出土しています。

 

ということは、沖ノ島にもいまから7000年前ほどから人が居住していたことが想像されます。居住といっても、一時的なもので長期にわたってずっと住んでいたというわけではないようです。沖ノ島には丸太船でわたって、ワンシーズンだけ過ごすといった居住のしかたをしていたと考えられています。

 

参照:『むなかた電子博物館 紀要 第2号(PDF)』P.44

 

鐘崎貝塚でみつかったもの

鐘崎貝塚は、1933年(昭和8年)頃に貝塚として認知され、その後、1934年(昭和9年)~1963年(昭和38年)にかけて、3回の発掘調査が行なわれました。

 

1936年(昭和11年)には学術雑誌で発表されました。

 

1952年(昭和27年)には、名和羊一郎氏をはじめとする郷土史家により、老年女性人骨一体が発見されました。この女性の頭には鹿角製の笄(こうがい,かんざし)*3、2点が装着されていました。


この他に、土器・石器あわせて320点ほどが出土しています。貝類では海産物のアサリ・牡蠣・バイ貝・アカ貝、淡水産のシジミ・カワニナがみつかっています。

 

1963年(昭和38年)には、人骨4体が発見。出土遺物にはサメ歯製の耳飾が含まれていました。

 

参照:鐘崎(上八)貝塚遺跡 | むなかた電子博物館

参照:案内板

鐘崎貝塚から南側を向き湯川山を眺める

 

*1:ヘラ、竹管などの道具で線をほった文様

*2:あたかしきどき

*3:髪をかきあげて、マゲを結う道具

大乗妙典一字一石塔 福岡県福岡市東区奈多

福岡市東区奈多に鎮座する志式神社から西側にある海岸方面へとつづく小道の脇に、「大乗妙典一字一石塔」と刻まれた石塔がまつられていました。法華経のひと文字ひと文字を小石に書いて、その小石を埋めた場所に建てられた石塔だと考えられます。

場所:福岡県福岡市東区奈多

座標値:33.691658,130.405734

 

福岡県古賀市 筵内(むしろうち)の医王寺にも一字一石塔があるようです参照。福岡県以外にも、埼玉県飯能市平松の円泉寺佐賀県藤津郡太良町糸岐などにもみられます。

志式神社に祀られる二基の庚申塔 福岡県福岡市東区奈多

福岡県福岡市東区の奈多という地区に鎮座する志式神社(ししきじんじゃ)。志式神社の境内に二基の庚申塔がまつられていました。

 

志式神社の本殿にむかって右側へ歩いていくと正一位稲荷大明神がまつられている場所があります。その場所の入口に庚申塔はまつられています。

 

場所:福岡県福岡市東区奈多

座標値:33.691329,130.407074

 

二基の庚申塔にむかって、右側の庚申塔には「青面金剛(しょうめんこんごう)」をあらわす「うん」と読まれる梵字が刻まれています。そして、その下には…

 

正徳六年

南無青面金剛

丙申六月吉日

 

…と刻まれています。

正徳六年は西暦1716年、干支は丙申(ひのえさる)です。

 

 

むかって左側の庚申塔には…

 

庚申尊天

天明三癸

八月吉日

 

…と刻まれています。

天明三年は西暦1783年、干支は癸卯(みずのとう)です。

福岡県北東部の海岸と砂浜の地形 福岡県福津市渡

福岡県 北東部の海岸には海流の関係なのか、砂がたまりやすい地形があつまっています。その一例を下の国土地理院地図に示してみます。下の図は国土地理院地図の「土地の成り立ち・土地利用‐海の作用による地形」機能を使用したものです。

 

福岡市東区の「海の中道(うみのなかみち)」あたりから、遠賀郡岡垣町の「三里松原」あたりまで、約40kmにわたって砂関連の地質をみることができます。

福津市の渡(わたり)という地区を訪れてみました。この地区の海岸では陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれる、島と本土とを結ぶ砂浜をみることができます。また砂岩・泥岩でつくられた岸壁もみることができます。

下の写真は砂岩・泥岩でできた渡地区の海岸の風景です。

場所:福岡県福津市渡

座標値:33.809426,130.459149

 

それぞれの岩を観察すると細かい粒で構成されていることがわかります。

岩の表面をこするとザラザラした触感で、細かい砂がこぼれおちます。

上の写真を撮った場所は、地質図naviで確認するとこのあたりになります。

上の図だと、「砂岩・泥岩でつくられた地区」「花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)」でつくられた小山がもともとあった地形で、のちの時代に砂が海流により流れてきて、「砂丘堆積物」がつくられていったと考えられます。

福津市 渡(わたり)で堆積している砂岩・泥岩は新生代の古第三紀につくられたものです。地質図naviを参照すると「海の中道(うみのなかみち)」の「大岳・小岳」と同時代につくられたことになります。

 

花崗閃緑岩の小山は中生代…つまり砂岩泥岩の地質部よりもさらに古い時代…につくられたものです。

もともと玄界灘に浮かぶ島々のまわりに砂が堆積していって、現在では陸続きになっていったと考えられます。

現在、砂州となっている地区を写真で撮ってみました↓ 北側…つまり遠賀郡(おんがぐん)方面を向いて撮ったものです。はるかかなたまで砂浜がつづいていることがわかります。とてもきれいな景色です。この砂浜は約5kmもつづいています。

砂岩・泥岩でつくられた地形と、砂丘堆積物でつくられた地形とではこんなにも対照的な景色となっています。

 

200万年前につくられた砂層【奈多砂層】 福岡県福岡市東区雁の巣

福岡市立博物館のホームページに『動く海の中道-消えゆく遺跡-』と題された記事が紹介されています。この記事を拝読して、福岡市東区にある奈多砂層を訪問しました。

場所:福岡県福岡市東区雁の巣

座標値:33.686284,130.398627

 

福岡県の北西部に志賀島(しかのしま)という島があります。島ですが、九州本土と島との間に砂や小石が堆積しており、地続きになっています。このような地形は陸繋砂州(りくけいさす)と呼ばれています参照

 

志賀島と九州とをむすぶ、この地続き部分が「海の中道(うみのなかみち)」です。志賀島(しかのしま)‐大岳(おおたけ)・小岳‐新宮(しんぐう)などの岩盤をつなぐ、規模の大きな砂丘です。


海の中道は二層の砂の層でできている

海の中道は、ほぼ全体が砂丘ですが、おおよそ二層に分かれているといいます。更新世…つまり氷河時代以前に形成された古い「奈多砂層(なたさそう)」と、その上に堆積した「海の中道砂層」です。


奈多砂層は現在、テラス状の崖となっています。この奈多砂層は氷河期時代以前…つまり更新世(こうしんせい)に堆積した古い砂層です。奈多砂層は、淡黄色をしていて細かい砂の粒が押し固められてできています。 押し固められているとはいえ、もともとは砂なので、とてももろく、簡単に崩れてしまいます。

 

 

 

よくよく観察してみると、淡黄色のなかに、黒っぽいものも含まれています。これは砂ではなく土壌の部分なのだと考えられます。

参照:福岡地域の地質 地域地質研究報告PDF

参照:福岡平野周辺で確認された広域テフラについてPDF


奈多砂層よりも古い時代につくられた小山

海の中道の西部には、更新世が含まれる「第四紀」よりも古い時代…「古第三紀」につくられた大岳(おおたけ)・小岳もあります。地質図naviでそれぞれつくられた年代を参照してみると、もともと溶岩の噴出でできた志賀島がつくられ、その後に大岳・小岳がつくられ、その後「海の中道」…つまり奈多砂層がつくられたということが予想されます。

 

今も南に移動し続ける砂丘

約1万5千年前の縄文時代から始まった温暖化がきっかけで、海面の上昇がはじまりました。海面が上昇すると、波の力により奈多砂層の浸食が始まりました。


海の中道の北側の海岸では、志賀島にぶつかった海流が分かれて志賀島の東側を回り込み、強い波が押し寄せています。この波によって削られた奈多砂層の砂が、浜に打ち上げられます。浜に打ち上げられた奈多砂層の砂は強い北風に運ばれ、新しい砂丘が作られます。こうして、奈多砂層の上に「海の中道砂層」がつみあがっていったと考えられています。


一方、海の中道の南側の海岸では、博多湾を反時計回りに流れる海流により砂が運ばれ、西戸崎(さいとざき)の東側を中心に海岸に堆積し続けています。


もともと「海の中道」は現在よりも約500m北側にあったと推定されています。このような侵食・堆積運動が繰り返され、「海の中道」は南側へと移動していきました。


温暖化による海面上昇で始まった侵食・堆積運動は、海面の高さが安定した現在も続いています。

 

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このしくみを、福岡市博物館のホームページでわかりやすく図式化してくれています。

https://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/582/index.html

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堆積して圧縮された砂は砂岩となって固くなったと考えられます。砂層の侵食により一部の岩がゴロゴロと砂浜に落ちてきているようです。これらの砂岩は削りやすいため、多くの人が絵や文字を刻んでいます。

 

 

弥生時代の遺跡「城の越貝塚(じょうのこしかいづか)」 福岡県遠賀郡遠賀町蓮角

福岡県遠賀郡(おんがぐん)遠賀町の蓮角(れんがく)という地区に、「城の越貝塚」と刻まれた石碑がたてられています。城の越貝塚は「じょうのこしかいづか」と読みます。

場所:福岡県遠賀郡遠賀町蓮角

座標値:33.837449,130.663464

石碑のある周辺をみてみても、住宅街が広がるのみで、貝塚らしきものはみあたりません。帰ってから地図を調べてみると、この石碑がたっている場所から、道路をはさんで反対側…つまり南側に貝塚らしき丘陵があることがわかりました。

丘陵地ふきんのGoogleストリートビューです↓

 

案内板の内容を読んでみると、海水産の貝類や動物骨が貝塚からみつかっているそうで、遠賀町の蓮角(れんがく)という地区にまで海水がはいりこんでいたことがわかります。

 

「城の越貝塚」の石碑がある場所を国土地理院の航空写真で確認してみると、ずいぶんと内陸部にあります。こんな場所にまで海水がはいりこんでいました。

大むかしの遠賀川がどんな形をしていたかを示す地図を確認してみます。「古遠賀湾」というキーワードで検索してみると、みつけることができます。「古代史マガジンKODAiZiNE.古遠賀湾」に掲載されている地図を参照してみると、古遠賀湾はおおきく入り組んだ湾であったことがわかります。古遠賀湾の東側にひろがる洞海湾もみえます。遠賀湾と古遠賀湾とで囲まれた地区が若松です。大むかし、若松は島のようになっていたということが、たしかに確認できます。

 

「城の越貝塚」があったおおよその場所を、上の地図に示してみます。上の地図には他の貝塚の場所も示されています。おそらく黄色い点も貝塚だと考えられます。貝塚を巡ると、遠賀湾の岸辺であった場所を確認できそうです。

 

以下は、案内板の内容です。

 

城の越貝塚(じょうのこしかいづか)

Jonokoshi Shell Mound

 

この遺跡は弥生時代の貝塚を中心とする。 遺物の分布範囲は低い丘裾に約400mにわたってひろがり、 丘の上には集落の存在も推定される。物は、 数層にわたってヤマトシジミを中心にして、多量の海水産貝類 動物骨が出土する。 また多量の土器、石鏃、 石斧、石剣、 石包丁が出土した。最下層の土器は弥生時代前期末に位置づけられ、これに接する弥生中期初頭の土器群は、 「城の越式土器」 と命名され、 九州北部の土器編年上、 重要な標識となっている。

 

城の越貝塚の土層断面図 杉原荘介編 「日本農耕文化の生成」より

 

宝満宮の境内にまつられる八基の庚申塔群 福岡県飯塚市相田

福岡県飯塚市、相田(あいだ)の上相田という地区に宝満宮が鎮座しています。宝満宮の境内に八基の庚申塔群をみつけることができました。その内、三基のものは文字がもう見えなくなっていましたが、おそらく庚申塔であるとしてご紹介します。

宝満宮の南西に上相田公民館がありましたので、その敷地内に駐車させていただきました。宝満宮の参道両脇に庚申塔群が祀られていました。参道の右側に七基の庚申塔が、そして左側に一基の庚申塔がみられます。

場所:福岡県飯塚市相田

座標値:33.667161,130.651638

 

庚申塔の数が多いので、おおよその座標値を一箇所だけ記載しています。

 

参道右側の庚申塔、七基です。一番古いものでは元文五年の造立ということが陰刻されています。元文五年は西暦1740年、干支は庚申(かのえさる)です。

 

参道左側の庚申塔、一基です↓

「奉請 庚申奠天」と刻まれています。「奉請」は「ぶじょう」とか「ほうぜい」と読むようです参照

「奉請 庚申奠天(ぶじょうこうしんそんてん)」の文字の右側には、造立年が刻まれているようですが、読み取れません。部分的に「旦」に似た文字や「享」のような文字が見えます。「四」という漢数字も見えます。江戸期にこのような文字をもつ元号はないか調べたところ、貞享(じょうきょう)という文字がひとつみあたりました。貞享は五年まであり、貞享四年は西暦1687年、干支は丁卯(ひのとう)です。