苅田町の西側、平尾台方向へ上っていくと山口という名前の地区があります。標高約300mの場所に白山多賀神社が鎮座します。神社は集落から離れ、周囲は木々に覆われています。境内には大きなクスノキが何本も立ち、薄暗く、荘厳な雰囲気です。写真は参道脇に立つクスノキの一本です。うねる幹が、巨大な軟体動物を連想させます。
場所:福岡県京都郡苅田町大字山口
座標値:33.767685,130.928586
苅田町の西側、平尾台方向へ上っていくと山口という名前の地区があります。標高約300mの場所に白山多賀神社が鎮座します。神社は集落から離れ、周囲は木々に覆われています。境内には大きなクスノキが何本も立ち、薄暗く、荘厳な雰囲気です。写真は参道脇に立つクスノキの一本です。うねる幹が、巨大な軟体動物を連想させます。
場所:福岡県京都郡苅田町大字山口
座標値:33.767685,130.928586
苅田町の山奥、本谷という地区に小さな集落があります。集落の北端部道端に庚申塔が一基祀られていました。南北約200mほどの長さの集落で、数件の家しかありません。その数件のうちのひとつが天台宗「東伝寺」という寺院です。
場所:福岡県京都郡苅田町山口
座標値:33.766331,130.927630
庚申塔の正面に梵字と「青面金剛」という文字が刻まれています。
青面金剛は、中国の道教に由来した仏様です参照。
青面金剛が庚申待の際に祀られるようになったのは、天台宗の影響です。庚申のご利益が青面金剛のご利益に似ていたためです参照。
青面金剛がもともと、結核などの感染症を指す”伝尸(でんし)”から人々を守ってくれるといわれていました。この”伝尸(でんし)”という言葉が、庚申信仰にでてくる”三尸(さんし)”と結びついたため、青面金剛と庚申信仰が結び付いたといわれています参照。
福岡県内は猿田彦大神の神道系の庚申塔がまつられることがほとんどです。しかしここでは仏道系の庚申塔である青面金剛が祀られています。「本谷」集落に天台宗の寺院があることが、この庚申塔が祀られていることと何か関連があるように感じられます。
「明治九丙子八月吉日」と刻まれています。明治九年は西暦1875年で、干支は丙子(ひのえね)です。
苅田(かんだ)町立「白川小学校 山口分校」跡地にたてられている碑です。跡地は現在、さら地となっています。
場所:福岡県京都郡苅田町山口
座標値:33.769629,130.927463
小学校の北側には、広大な棚田が広がっています。2023年現在では、その棚田もほとんど使用されなくなっており、一部でかろうじて稲やコスモスが植えられているようです。「等(と)覚寺の棚田」としてGoogle mapにも登録されています。Google mapに、稲と彼岸花の美しい写真が投稿されています。
以下、碑に刻まれている白川小学校 山口分校の沿革を記述します。
明治二十九年(1896年)
山口尋常小学校を等覚寺観音堂に設置
明治三十六年(1903年)
山口尋常小学校校舎を等覚寺辻ノ山に移転
明治四十一年(1908年)
山口尋常小学校5年生以上は白川尋常小学校へ
昭和五年(1930年)
山口尋常小学校が白川尋常小学校山口分校となる
昭和三十年(1955年)
町村合併により苅田町立白川小学校分校と改称
昭和五十三年(1978年)
創立百周年記念式典を開催
之を機に当地に沿革碑を建てる
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碑に刻まれた文字は、かすれてしまってわかりにくくなっています。こちらのサイトを参照しながら、情報を補完してみました。
長いあいだ、探し続けていた庚申塔を「三里松原(さんりまつばら)」という場所で、見つけることができました。三里松原は岡垣町の北端に広がる、とても広い松林です。下の地図に示したように、南北幅が一番ひろいところで約1.3㎞、東西幅は約6.7㎞にもなります。この松林は、もともと海風と風によっておきる飛砂害を防ぐために、植林されつくられました。残っている一番古い資料は1655年のものです参照。江戸時代から徐々につくりあげられてきた防風林という印象です。
もう十年以上も前、この三里松原を散歩していたとき、たまたま見つけた石塔を写真に収めていました。その当時は「庚申塔」という存在をしりませんでした。庚申塔というものがあることを後に知り、当時の写真を見返していると、松原のどこかで撮った庚申塔の写真をみつけることができました。
この写真を撮った正確な場所がわからなかったので、三里松原の中を探し回っていましたが、やっと見つけることができました↓ 庚申塔のそばにある松は枯れてしまっています。また、隣にあるもう一基の石塔は消失しています。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.87149810,130.6116333
以前は庚申塔の上にのせられていた丸い石は、すぐそばにある台座とおぼしき石のうえにのせられています。
「奉謹庚申尊天」「享保十三」「十一月吉日」と刻まれているようです。享保十三年は西暦1728年、干支は戊申(つちのえさる)です。
十数年前に撮った写真には、この庚申塔のそばにもう一基石塔が祀られています。これも庚申塔だったのかもしれませんが、それは現在みあたりませんでした。
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庚申塔の西側20mほどの場所に疫神社があります。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.8714914,130.6115092
三基の石祠と木製の鳥居。木製の鳥居は、意外にも新しく、「令和二年四月吉日建立」の銘が確認できます。令和二年は2020年です。2023年現在から数えると、わずか3年前に建てられたものです。
鳥居は新しいですが、石祠は古そうです。
この疫神社はどういう理由で建てられたのでしょう?理由を考える前に、実は三里松原には、この疫神社のほかにも、もう一カ所、別の疫神社が建てられているのを2019年に確認しています。
参照:松原のなかの疫神社-日々の”楽しい”をみつけるブログ-
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字吉木
座標値:33.872691,130.604643
2つの疫神社の位置関係を、地形図に示すと以下のようになります。
2019年に確認した疫神社の石祠には「明治十八年 □□ 十一月」という文字が確認できました。明治18年は西暦1885年です。
『岡垣町史』P257に、1854年頃、「北条虫」という…どうも毛虫のような虫が大量発生し、農作物に害をもたらしたと記述されています。
自然現象的災害の外にも、疫病、流行病も庶民の生活をおびやかし、嘉永七年(1854年)の夏に発生した北条虫は蕎麦の葉を食い荒らし、農業生産を脅かしている。
疫病といっても人に感染・伝播した病だけではなく、農作物に対する疫病の可能性もあります。農作物の疫病に対して、このような祠を建てて、疫病の収まりを願っていた可能性も考慮する必要があるようです。
1854年(蕎麦の被害)と1885年(石祠の銘)では30年近くの差があります。「北条虫」のような被害から守ってほしいという願いのために疫神社は建てられたと考えるのは少し無理があるようです。
さらに調べてみると、松林は「松枯れ」という感染症が流行ることがあるそうです参照。マツノザイセンチュウという小さな虫が松の中に入りこみ悪さをすることで、松が枯れてしまいます。
三里松原では平成にはいってからも、たくさんの松が死んでしまっています。
もしかしたら、このような虫の害から守ってほしいという願いから、松原の中に疫神社が建てられてのかもしれません。令和2年になっても建てかえられている新しい鳥居から、その想いは現在も続いているようにも感じられます。
「福岡県遠賀郡岡垣町大字内浦」と「福岡県宗像市池田」との境にある垂見峠に、石でつくられた高さ2mほどの郡境石がたてられています。群境石のそばには石仏が二体おさめられたお堂もあります。
ここに群境石があるということは、人々が往来していた道が、ここには昔から通っていたのかもしれません。
場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字内浦
座標値:33.861510,130.566926
「従是 東遠賀郡 西宗像郡」という文字が、正面に刻まれています。”ここから東側は遠賀郡、西側は宗像郡”と刻まれたこの群境石について詳しく書かれた文献を見つけることができていません。ただ『岡垣町史』P.865,866に、群境石が建てられている”垂水峠(たるみとうげ)”についての記述をみつけることができました。
宗像と境をなす峠で、湯川山と弘大寺山との間にある。垂見峠、樽見峠とも書き、古代にはここを大宰官達が通っていたともいわれる。『平家物語』に、安徳天皇が大宰府から大里の行在所に向かわれてたときの峠の様子を、「垂見山鶉浜といふ峻嶮を凌がせたまひて渺々たる平沙へ赴きまゐりける」と書かれている。峠の途中には、駕籠据場という所がある。昔、ここで旅人が駕籠を据えて休憩した所といわれている。峠の頂上には花立地蔵がある。峠にちなんだ河童伝説がある。(『岡垣町史』P.865,866)
郡境石には建立年の銘は刻まれていません。江戸期につくられたものかもしれません。鎌倉時代に編まれた平家物語に、垂見峠を通る道について記述されているため、江戸時代よりさらに以前に道があったと想像されます。
この郡境石の南西1.4㎞付近に、「をんが道」と刻まれた石碑がたてられています。「をんが」は「遠賀」のことと思います。この道標から西南西へ約1㎞の場所で、赤間・田島・東郷・神湊方面へ道が分かれます。おそらくそれを示すための道標だと考えられます
垂見峠の郡境石と、この「をんが道」とを結ぶ道は、少なくとも鎌倉時代からある道だと想像されます。道の名前は付けられていませんが、この石碑に習うと「をんが道」というのでしょうか?
「をんが道」「遠賀宗像郡境石」などのキーワードを使って、図書館で文献を探してみると、これらの道に関する情報を見つけられるかもしれません。
レンガ造りの建造物は、独特の温かみと美しさがあります。これらのレンガひとつひとつが、人の手によって積み上げられていったと想像すると、その魅力がさらに引き出されるように感じます。こちらのレンガ製架道橋(かどうきょう)は、平成筑豊鉄道参照の一部で現役ものです。
場所:福岡県田川郡赤村内田
座標値:33.640665,130.862988
平成筑豊鉄道(へいせいちくほうてつどう)株式会社は、その名前のとおり平成にはいってから作られた会社です。設立は1989年4月26日です。福岡県と沿線の自治体が出資する第三セクター方式の鉄道会社です参照。鉄道は、福岡県の直方市、田川市、行橋市間を結んでおり、飯塚は含まれていませんが「筑豊地域」の大部分を結んでいる鉄道といえます。
参照:https://www.heichiku.net/tanoshimu/charm/
平成筑豊鉄道は、もともとは筑豊炭田の石炭や石灰石を運ぶために、筑豊興業鉄道により敷かれたものを継続して使用しています。鉄道がはじめに敷かれたのは1893年(明治26年)のことですPDF:参照。
そして、田川から周防灘方面へ石炭輸送をおこなうために、1895年(明治28年)豊州鉄道株式会社により伊田‐行橋間の路線が敷かれました。今回ご紹介する架道橋は、この時期につくられたと考えられます参照。
史跡巡りをしていると、明治時代につくられた建造物には、レンガ造りのものが多くみられます。赤村内田にある、この架道橋もレンガ造りです。どうして明治時代の建造物は、レンガ造りのものが多いのでしょう?
『材料からみた近代日本建築史 その4 日本における煉瓦建築の盛衰|積算資料アーカイブ|建設総合ポータルサイト けんせつPlaza』を参照すると、以下の3つ理由が考えられます。
明治時代は、西洋文化や技術の引き入れが進み、西洋からの新技術や新建築材料にも興味が高かった時代です。西洋においても、レンガは長期的な耐久性があり、建築材料としての信頼がありました。そのため、日本においても多くの人々に選ばれるようになりました。
明治時代には、国内での工業化が進み、レンガが大量生産されるようになりました。レンガを大量生産する工場が開設され、レンガの供給が保証されました。またレンガは、石や木などの材料に比べて手軽に入手できるという利点も、たくさん使用される要因となりました。
レンガは作りやすく、労働力や材料も比較的安価であったため、建設者にとって経済的なメリットがあったと考えられます。レンガ製造技術も発展しており、大量に生産されるようになっていました。レンガを使った建設技術は、繰り返し使える建築用のフォームや、レンガを積み重ねるための工具なども開発されており、建設効率も向上していました。さらに、レンガ造りの建物は長持ちするという特性があり、今後のメンテナンスや修繕の費用を考慮すると、経済的な観点からも有効だと評価されました。
◆◆◆◆◆
レンガ造りの建物は長持ちするという特性は、アーチを見ても実証されているように感じます。2023年時点で、130年近く経過しているにもかかわらず、この美しさを保っています↓
この「下駄歯」構造は、どういう意味をもっているのでしょう?将来、もし線路の幅を広げるとき、この凹凸にレンガをかみあわせます。そうすることで架道橋全体の強度を保つ目的があるといわれています参照。
『住宅建築に関わる各部材の耐用年数 | 不動産の教科書』では、”れんが・石・ブロック造建築物の耐用年数は38年と定められています”とありますが、内田の架道橋はどのくらいの期間、この先使われていくのでしょう?
福岡県宗像市と遠賀郡との間にある湯川山(ゆがわやま)。宗像山地の北端にあります。
場所:福岡県宗像市田野,福岡県遠賀郡岡垣町大字原