日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

石仏 大分県豊後高田市田染真中

真木大堂(まきおおどう)のとなりにつくられている「古代公園」。ここには大分県豊後高田市の各所に祀られていた石造物が30数点集められ、保存されています。そのなかのひとつである名もない石仏です。

 

案内板によると、江口識右衛門の所有で豊後高田市の森という地区に祀られていたそうです。趺坐(ふざ)された、おそらく阿弥陀如来は、3つの上品(じょうぼん)のいずれかの印相を結んでいます。丸い台座石のうえに絶妙なバランスで配されています。

場所:大分県豊後高田市田染真中

座標値:33.5013351,131.517395(概ね)

 

長い風雨にさらされた表面は苔むし、全体的に丸みをおびています。ヒビが入り、欠損した頭部には如来の表情は、もう見えません。

 

個人的に、とても惹きつけられる石仏です。

天神社の裏側にまつられる三基の庚申塔③ 大分県国東市国東町綱井

前回までの記事で、大分県国東(くにさき)町の天神社に祀られている庚申塔、三基のうち二基をご紹介してきました。

 

天神社の裏側に祀られる三基の庚申塔①

https://www.ku-hibino.com/entry/2022/05/31/203930

 

 

天神社の裏側に祀られる三基の庚申塔②

https://www.ku-hibino.com/entry/2022/06/02/215706

 

今回は、さいご三基目の庚申塔をご紹介します。天神社参道を写したものです↓

↑天神社の前には、比較的、車通りの多い国道213号線がはしっています。

 

三基の庚申塔は、天神社の拝殿から西へ約30mの地点に祀られています。

これらの庚申塔にむかって一番左側の庚申塔を、今回はご紹介します。今回で天神社に祀られる庚申塔のご紹介は終わりです。

場所:大分県国東市国東町綱井

座標値:33.527127,131.732354

一面四臂の青面金剛が主尊で、その両側には二童子がひかえています。青面金剛の足元には三猿と、「下村講中四人」という文字が確認できます。

庚申塔に向かって左側面に、建立年が刻まれています。「正徳二辰」という文字がかろうじて見えます。しかし、さらにその下側に刻まれているらしき文字は判読できません。正徳二年は1712年で、干支は壬辰(みずのえたつ)です。

庚申塔に向かって右側面には、文字らしきものは確認できませんでした。

天神社の裏側にまつられる三基の庚申塔② 大分県国東市国東町綱井

大分県の国東(くにさき)半島、国東町にある綱井(つない)という地区に祀られる庚申塔をご紹介します。天神社の本殿裏側に三基の庚申塔が祀られていました。前回の記事『天神社の裏側にまつられる三基の庚申塔① 大分県国東市国東町綱井』では、そのうちの一基をご紹介しました。

 

今回の記事では二基目の庚申塔をご紹介します。

↑上の写真のうち中央の庚申塔をご紹介します。

 

場所:大分県国東市国東町綱井

座標値:33.527127,131.732354

 

像容は比較的はっきりと残っています。一面六臂の青面金剛が主尊で、その両脇に二童子がひかえます。

さらに、その足元には見ざる聞かざる言わざるの恰好をした三猿がはっきりと確認できます。三猿の両側には二鶏も見えます。

庚申塔に向かって右側面に「寛政二年」、左側面に「戌七月吉日」の文字が確認できます。

寛政二年は西暦1790年、干支は庚戌(かのえいぬ)です。

 

ここで、電子書籍kindle版の『国東半島の庚申塔(小林幸弘著)』のP.115…kindle位置番号は117/246です…を拝読し、今回の庚申塔の詳細を確認してみます。すると青面金剛は「ショケラ」を把持しているようです。

 

写真をよくよく確認してみると、たしかにショケラらしき像が、青面金剛の左手に把持されています。

次回は、三基の庚申塔のうち、最後の一基をご紹介したいと思います。

天神社の裏側にまつられる三基の庚申塔① 大分県国東市国東町綱井

大分県の国東(くにさき)半島、国東町にある綱井(つない)という地区に祀られる庚申塔をご紹介します。天神社の本殿裏側に三基の庚申塔が祀られていました。下の写真が天神社の拝殿と本殿です。

この天神社が国東半島の、どのあたりにあるかを地図で示すと以下のようになります。国東半島の東側にあたります。赤丸で示している地点は三基の庚申塔が祀られている場所です。

神社本殿脇の道路を西側に歩いていくと…

民家と神社との境目に、石灯籠と石祠、そして庚申塔群が祀られていることが確認できます。

場所:大分県国東市国東町綱井

座標値:33.527127,131.732354

 

これら、三基の庚申塔を一記事につき一基ずつご紹介してゆきます。

 

今回の記事では、三基の庚申塔にむかって、一番右側の庚申塔をご紹介します。

青面金剛が主尊であることはわかりますが、だいぶ風化が進んでおり、そのシルエットだけが確認できます。頭は一つだけだと予想されますが、腕が何本あるのかはっきりとはわかりません。

 

庚申塔の両側を確認してみても、建立年などの銘が確認できません。

青面金剛の両脇に二童子、足元に三猿と二鶏が刻まれていることはわかります。

 

本当に建立年の銘は残っていないのか、小林幸弘氏のHP『国東半島の庚申塔‐24037‐』で確認させていただきます。HPには以下のように紹介されています。

 

三基のうちこの塔だけが無銘のため造立年を特定することができない。
残念ながら劣化した青面金剛の姿が痛ましい。

 

やはり建立年は残っていないようです。

 

残り二基の庚申塔については、次の投稿でご紹介してゆきます。

小敷集落を守ってもらうために祀った汐分地蔵 福岡県北九州市若松区小敷

汐分(しおわけ)地蔵について、はじめて知ったのは『北九州歴史散歩〔筑前編〕』(北九州市の文化財を守る会編)P.39ですが、いくつかの史料にも、この汐分地蔵のことが記載されています。

 

汐分地蔵は、福岡県北九州市若松区の小敷(こしき)という地区に祀られている、お地蔵様です。

場所:福岡県北九州市若松区小敷

座標値:33.897453,130.704003

 

「汐分(しおわけ)」という名前のとおり、”汐を分ける”、つまり”海水と真水とを分ける”という意味を示すお地蔵さまのようです。

 

汐分地蔵が祀られている場所を地図で確認してみますと、下の図のようになります。汐分地蔵は、江川という川のそばに祀られています。洞海湾(どうかいわん)から満ちてくる潮と、遠賀川から流れてくる真水とが、ちょうどこのあたりでぶつかるそうです。

下の図で赤く示した地区は、昔、「庄の江(しょうのえ)」と呼ばれていました。庄の江は「潮の会(しおのえ)」…つまり潮がぶつかる場所という意味の呼び名が転化したものと考えられています。

 

参照:『北九州歴史散歩〔筑前編〕』(北九州市の文化財を守る会編)P.39

この汐分地蔵。もともとは小敷地区の鬼門除けのために祀られたものとも伝えられています。大正11年に測定された小敷地区の地形図を『今昔マップ』で確認してみます。小敷地区は、山間につくられた小さな集落であったことがわかり、汐分地蔵があったと思われる場所は、集落の入口であったことが確認できます。

 

参照:今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷謙二(人文地理学研究室)

疫病や害悪が集落内に来ないよう守っていただくために地蔵尊をお祀りした、と自然に想像できます。

 

この汐分地蔵は、実際にはいつごろに祀られたのでしょう。その年代を示す証拠が汐分地蔵が祀られている敷地内に残っています。こちらの石塔です。

「嘉永七年寅七月」と刻まれています。嘉永七年は西暦1854年で、この年の干支は甲寅(きのえとら)です。おそらく、汐分地蔵がこの地に祀られた年なのではないかと想像されます。

 

現在の汐分地蔵は、このような立派なお堂のなかに祀られています。『若松史 令和3年改訂』(若松に玄関をつくる会)P.68によると、このお堂は2012年6月に新築された、とあります。

非常に立派なお堂で、室内の清掃がいきとどいています。お供えもののお花も美しいです。私がこのお堂を訪れたときも、どなたかが供えた線香から、まだ煙がたっていました。

 

汐分地蔵の祀られる、このお堂は現在、「地蔵菩薩 中央四国大詣り第三十九番札所」、「観音菩薩像 中央四国大詣り第八十七番札所」となっています。

↓こちらはお堂から眺めた景色です。前を江川(えがわ)が流れています。

↓江川の東側(洞海湾方向)を眺めた写真です。この先に汐分橋(しおわけばし)が架かっています。汐分という名前が残っている貴重な橋です。

↓江川の西側(遠賀川方面)を眺めた写真です。かつて、江戸時代は、この方向には小さな集落があっただけなのですが、現在では多数の飲食店や新興住宅街がつくられています。

ずいぶん景色が変わったのでしょう。

北野神社 本殿の横に祀られる庚申塔 大分県豊後高田市玉津中町

大分県の国東半島(くにさきはんとう)には、青面金剛像が刻まれた庚申塔が主にあります。いっぽうで、福岡県で主な猿田彦大神の名前だけが刻まれた文字塔は、国東半島においては、比較的少ないようです。

 

今回は、国東半島では比較的少ない、猿田彦大神の文字塔をご紹介します。

 

祀られている場所は、豊後高田市の町のなかにある神社で、北野神社です。以前にも、この神社へ庚申塔を探しに訪れたのですが、見つけられていませんでした。その理由は、「国東半島では青面金剛像の刻まれている庚申塔がある」と思い込んでいたためです。

 

HP『国東半島の庚申塔』を運営されている小林幸弘氏からいただいたデータから、北野神社ふきんに庚申塔があることがわかっていたのですが、青面金剛の庚申塔があると思い込んでいたため、猿田彦大神の文字だけが刻まれている小さな文字塔を、見落としていました。

 

その小さな庚申塔がこちらです↓

場所:大分県豊後高田市玉津中町

座標値:33.561268,131.443344

 

この庚申塔が神社境内の北側の端に、他の石祠とともに祀られています。

見た目は、福岡県にたくさん祀られている庚申塔のような印象を持ちました。前回、北野神社に訪れたときは、思い込みと、”ざっと”しか境内を探していなかったため、見落としてしまいました。

 

庚申塔には、見たところ建立年などの銘は確認できません。念のためHP『国東半島の庚申塔』でも確認してみます参照。HPでも”「猿田彦大神」という文字だけが刻まれている”ということが紹介されています。

 

◆◆◆◆◆

 

こちらが北野神社の外観です↓

神社は、住宅が密集している玉津の町のなかに鎮座しています。神社の由緒を読むと、菅原道真公を祭神とし、大永年間(1521年~1528年の間)に創建されたとあります。

拝殿のすぐ隣には稲荷大明神が祀られています。

 

稲荷大明神の脇を通り、境内の奥へと歩を進めると、今回ご紹介した庚申塔が祀られている場所へとつくことができます。

三柱神社に祀られる二基の庚申塔 大分県杵築市大田波多方

大分県杵築(きつき)市の、波多方(はだかた)という地区に、三柱(みはしら)神社が鎮座しています。↓下の写真だと左側です。三柱神社境内に二基の庚申塔が祀られていました。

三柱神社鳥居にむかって、左側に斜面があり、ここに庚申塔や他石造物が祀られています。

 

一基ずつ庚申塔をご紹介してゆきたいと思います。

 

塔の上1/3あたりが折れていた庚申塔

二基の庚申塔のうち一基は、塔の上、1/3ほどの場所が折れていた痕が残っています。風化がとても進んでおり、像容が見えにくくなっています。

場所:大分県杵築市大田波多方

座標値:33.500376,131.575589

主尊の青面金剛像は、ひとつの顔に腕は六本あるようにも、四本であるようにも見えます。かろうじて腕の一本に弓を把持しているのと、青面金剛の頭上には月雲が刻まれているのが確認できます。

青面金剛像の両脇には二童子が見えます。

 

青面金剛の足元に目を移してみます。

正面を向いて合掌しているように見える猿が二匹、その両側に鶏とおぼしき像が、かろうじて確認できます。

塔の両側面、裏側を見ても建立年らしき銘は、確認することができませんでした。

ここで、小林幸弘氏が運営されているホームページ『国東半島の庚申塔』を参照させていただきます。「解説」の箇所に、以下のような説明がなされています。

 

塔身が二つに割れ、諸像の姿も摩滅が進んでいるため詳細がわかりにくい。
造立年も「享保卯」だけが判読でき、確定できない。

 

享保年間に建立された庚申塔で、干支に「卯」がある年…つまり1723年か、1735年につくられたものだということが推測されています。


1759年建立の庚申塔

もう一基の笠付きの庚申塔には、像容も建立年の銘も、比較的はっきりと残っています。

一面四臂(いちめんよんぴ)…つまり、ひとつの顔に四本の腕がある青面金剛が主尊で、その両側に二童子がひかえています。

青面金剛の足元には、うずくまるように座っている三猿が見え、さらにその下側に二鶏が確認できます。

庚申塔にむかって右側面に「宝暦九年 卯九月吉日」という銘がはっきりと見えます。宝暦九年は1759年、干支は己卯(つちのとう)です。

 

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以上、ご紹介した庚申塔二基が、一枚の写真におさまるよう撮ったものが下の写真です。中央の庚申塔の向こう側に、もう一基の庚申塔がみえます。

斜面の雑草は刈り取られて、神社境内が丁寧に手入れされていることがわかります。