日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

遠賀川 川西四国 第七十二番札所よこの庚申塔 福岡県遠賀郡糠塚(ぬかづか)

福岡県遠賀郡 岡垣町糠塚(ぬかづか)にある須賀神社へ庚申塔が祀られていないか、探しにいってみました。この場所に探しに行こうと思ったのは、『岡垣町誌』P948の”岡垣の庚申塔”一覧を拝読したためです。

↑須賀神社(岡垣町糠塚)境内の様子

 

『岡垣町誌』P948には糠塚の須賀神社に庚申塔があるとは記載されていませんでしたが、別の地区である野間という地区にある須賀神社ふきんに庚申塔があるという情報がありました。

 

しかし、Google mapで「岡垣町野間 須賀神社」というキーワードで検索しても、野間という地区では須賀神社をさがすことはできませんでした。

 

代わりに糠塚の須賀神社がヒットしました。そういうわけで、もしかしたら糠塚の須賀神社に庚申塔があるのではないかと考え、足を運ぶことにしたわけです。古い記録をさがしていると、多々、このように”情報が古い”状態となっていることがあります。

 

そういう場合は、可能性のある場所へ実際に赴き、自身の目で確かめるしかありません。

須賀神社(岡垣町糠塚)の境内には庚申塔はなかったものの、ふきんを探していると、神社の拝殿とは別に、小さなお堂が境内の東側のすこしさがった場所にありました↓

このお堂は「遠賀川 川西四国 第七十二番札所」であることがわかりました↑

 

お堂のすぐ横には、弘法大師と思われる石仏と、そのとなりに庚申塔が祀られていました↓

↓庚申塔には「奉敬庚申塔」と刻まれています。庚申塔の側面と背面にはなにも銘は確認できませんでした。

場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字糠塚

座標値:33.865257,130.636360

 

「奉敬庚申塔」の文字の横に、さらに小さな文字が確認できます↓ 拡大してみます。

どうも「享保」という文字が認められますが、それ以下は石塔の表面が剥がれ落ち文字は確認できません。この庚申塔について『岡垣町誌』には記載はないか確かめてみました。すると、P948に「糠塚 字町 七十二番札所境内」の庚申塔として記載がありました。

 

この記載によると「□保□□(天保カ)」と紹介されています。しかし、再度、目視で確認すると「享保」と刻まれているようなので、享保年間である1716年~1736年に建立されたものと予想されます。

【須賀神社(野間)←正しい】と【須賀神社(糠塚)←誤り】とで、須賀神社ちがいではありましたが、思わぬところで「遠賀川西四国七十二番札所」がみつかり、結果、庚申塔もみつかりました。ありがたいことでした。

厳島神社の庚申塔 福岡県遠賀郡 新松原

福岡県遠賀郡岡垣町の新松原という集落。この集落のほぼ中央部に、厳島神社という小さな神社が祀られています。厳島神社は集落の中央部にあり、こんもりとした杜に囲まれています。

 

厳島神社へと続く参道は、民家と民家との間にある↓このような細い路地です。

路地の先には数段の石段と、その上に鳥居があります。

鳥居をくぐると小さな拝殿と、拝殿の左側に祠。祠の前に目的とする庚申塔があります。

場所:福岡県遠賀郡岡垣町 新松原

座標値:33.872736,130.591843

 

庚申塔には「猿田彦大神」と刻まれ、庚申塔に向かって右側面に「明和元年」、左側面に「申 十二月吉日」と刻まれます。明和元年は西暦1764年です。

サイの形をした駅舎 福岡県京都郡犀川本庄

『九州の鉄道おもしろ史』P434-437に、「面白い駅名や面白い形の駅がいっぱいの平成筑豊鉄道」という項があります。この項では6つの駅が紹介されていて、そのひとつに福岡県京都郡(みやこぐん)の犀川(さいがわ)駅が紹介されています。

 

犀川駅の駅舎は動物のサイの形をしているという情報を得て、実際にいってみることにしました。

場所:福岡県京都郡みやこ町犀川本庄

座標値:33.650947,130.939675

 

犀川(さいがわ)という地名にちなんで、駅舎をサイの形にしたということで(P435)、この駅舎になったのは1993(平成5)年。もともとは木造瓦葺の古風な駅舎だったそうです。竹下登氏が首相だったとき、「ふるさと創生事業」の一環として交付された1億円を、みやこ町は駅舎新築のために使用しました。

 

よくよく調べてみると、駅舎だけの建物を新築したわけではないようで、この建物は喫茶店、多目的ホール、タクシー会社、商工会、会議室、列車乗務員宿泊所などが、併設されています(参照:『九州の鉄道おもしろ史』P436)。この建物全体が、正式には「ユータウン犀川」といい、犀川地域の方々の憩いの場としての機能も持っているようです。

 

この、サイの角にあたる塔部分が特徴的で、空にむかってピンと直立しています。この塔内には樹齢400年、高さ約16メートルのヒノキがそびえ立つ…のだそうです(参照:日本経済新聞 サイの駅舎は集いの場 2019/1/20

この”角”と隣あわせになっている建物のなかで、列車の乗務員が宿泊できる施設もあります。

平成筑豊鉄道の列車は夜中になると1両を除いて全部金田駅構内の車両基地に戻るが、戻らない1両は犀川駅に停泊して、翌朝4時台に犀川発、行橋行きの列車となる。早朝の発車だから乗務員は犀の頭の中の1室に泊まり込む。(参照:『九州の鉄道おもしろ史』P436)

↑”角”と隣り合わせとなっている”サイの頭と胴”部分の建物。1F部分よりも、2F部分のほうが幅が広くなっていて、”サイの胴だ”という主張がじんわりと感じられます。

 

建物内(1F)は、ベンチやテーブル、壁にいたるまで木造で温かみがある第一印象を受けました。訪れた日にも地元の方々がベンチに座ってお話をされていました。訪れた日が日曜日だったため休業でしたが、喫茶店や多目的ホールがあり、たしかに駅の待合室というよりも、コミュニティ施設という印象が強くありました。

待合室の壁には、巨大な杉の根が立てて飾られています。これは、蔵持山の山頂にあった樹齢450年の杉だといいます。

 

↓駅前のロータリー。駅前の商店街には、2件のスーパーがあるのみで、他の店は確認したかぎりでは閉まっていました。スーパーでアイスクリームを買い、親子3人で犀川駅の待合室で食べました。待合室はクーラーはついていないものの、ホールを吹き抜けていく風のおかげで、外気温35℃ちかい日中でも涼しかったです。

犀川駅ちかくの庚申塔 福岡県京都郡犀川(さいがわ)

福岡県京都郡(みやこぐん)にある犀川(さいがわ)駅へ行く途中でみつけた庚申塔です。大小2基の庚申塔があるようですが、左側の大きな庚申塔は、右側の小さな古い庚申塔を、新しくつくりかえたもののようです。三叉路の一画で、小さな公園の前に祀られていました。

場所:福岡県京都郡みやこ町犀川本庄

座標値:33.652234,130.939562

 

大きい方の庚申塔の背面には、「平成四年六月建之」と刻まれています。刻まれた文字は黒い墨で着色されています。

一方、小さい方の庚申塔の文字は、ほとんど読み取れません。かろうじて「田彦大神」と読めます。「猿」の文字が刻まれていた箇所から上の部分は折られてしまっているようにも見えます↓

建立年月は不明です。

廃寺の裏手にあったお不動様 福岡県遠賀郡岡垣町黒山

福岡県遠賀郡岡垣町の西黒山という地区に、春日神社というお宮があります。ここに、下の写真のような、大きな石塔が祀られています(写真の一番右側)。石塔は風化し、表面の文字にはなにも刻まれていないようにも見えます。しかし、この石塔は不動明王様として、むかしこの地区の別の場所で祀られていたものです。

場所:福岡県遠賀郡岡垣町大字黒山 春日神社境内

座標値:33.8671819,130.6226692

 

このお不動様は、むかし千手寺というお寺の北側に祀られていて、その後、千手寺は廃寺となり、千手寺跡に建てられた岩崎真澄氏宅の北側に位置することとなりました。さらに、岩崎真澄氏宅が別の場所に移動したあと、このお不動様も春日神社境内へと移動されました。

 

参照:

『増補改訂版 岡垣小史』P218

 

参考する記事:

不思議な運命をたどった鐘はもともと どこにあった? ①/②

不思議な運命をたどった鐘はもともと どこにあった? ②/②

福岡県で625年前につくられた鐘が広島県にあるため訪ねた

不思議な運命をたどった鐘はもともと どこにあった? ②/② 福岡県遠賀郡岡垣町

広島県の教龍寺(広島県廿日市市吉和)に保管されているお寺の鐘が、もともと福岡県の千手寺にあった…という記事を前回、ご紹介しました(参照)。そのお寺の鐘というのが、「教龍寺銅鐘」です。

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教龍寺銅鐘

そして、その「教龍寺銅鐘」がもともとあった福岡県遠賀郡の千手寺が、いったい、むかしどこにあったのか?を調べるところまで、前回の記事にアップしました。

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教龍寺銅には「遠賀」「黒山」「千手寺」の文字が確認される

前回の記事では、福岡県遠賀郡岡垣町の黒山にある、岩崎真澄氏宅の裏に千手寺があった…というところまで行きつきました。

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千手寺跡ふきんの予想地形

↑この地形がある場所が、『増補改訂版 岡垣小史』P218によると、遠賀郡岡垣町の西黒山という地区だということです。図書館に保管されているゼンリン地図で西黒山付近を調べてみました。すると、このあたりであることがわかりました(地形図)↓

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遠賀郡岡垣町の西黒山ふきん

西黒山交差点の座標値:33.867123,130.621755(Google map)

 

調べてみると、この西黒山の集落では「岩崎」姓のかたがたがたくさんおられました。しかし、ゼンリンの地図では「岩崎しのぶ」という名前のお宅はみあたらなく、これ以上詳細な千手寺の場所を特定することができませんでした。

 

ただ、『岡垣小史』P218の情報のなかに、”岩崎しのぶさんの家の横に道をつけて砂採りがされている”とあります。砂採りがされている場所…というのは?Google mapの衛星写真をみると、西黒山地区の東側に土を採取している場所があるようです↓

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千手寺跡 推定地

この現場ふきんのお宅のなかに、岩崎しのぶ氏のお宅があると推定すると、破線の白丸で囲った場所に、千手寺があったと予想されます。

 

『岡垣小史』P218の情報を、確認のために箇条書きでまとめてみますと以下のようになります。

 

・岩崎しのぶ氏宅の西側 台地上に千手寺があった

・千手寺の南側に岩崎真澄氏宅があった

・千手寺の北側に不動様が祀られていた

・不動様は現在、春日神社に移動され祀られている

 

衛星写真「千手寺跡 推定値」をもういちど見ていただくと、春日神社というのが、白丸で囲った箇所の南側にあることがわかります。千手寺の北側に祀られていた不動様が、祀られる場所がなくなったため、すぐ近くの神社へ移動させられた…ということは合点がいきます。

 

千手寺があった場所を完全に特定できたわけではありませんが、おおよその場所を推定できたのでスッキリとしました。

 

広島県での「教龍寺銅鐘」との出会いからはじまり(参照)、今回の千手寺跡の推定まで、長い関わりとなりました。

620年以上も前に造られた鐘が、造られた場所から150㎞も離れた場所でひっそりと保管されているのは、なんとも不思議な感じをおこさせます。

不思議な運命をたどった鐘はもともと どこにあった? ①/② 福岡県遠賀郡岡垣町

2019年7月30日の記事で、もともと福岡県遠賀郡で使われていたお寺の鐘が、広島県の教龍寺に現在あるという内容を書かせていただきました。

 

参照:福岡県で625年前につくられた鐘が広島県にあるため訪ねた 広島県廿日市市吉和

 

この鐘は「教龍寺銅鐘」と呼ばれるものです。なぜこの鐘を、福岡県から遠く離れた広島県まで訪ねたかというと、もともと、この鐘が福岡県遠賀郡の岡垣町で使用されていたという情報を得たからです。

「筑前遠賀荘 黒山千手寺」の銘が刻まれる銅鐘↑

 

わたしは、「この鐘が福岡県遠賀郡の岡垣町で使用されていた」…と、ぼんやりとしか記憶に残っていませんでした。どこの資料でこの情報を得たのか覚えていませんでした。

 

どうして福岡県の梵鐘が、広島県に現在あるのか?

この鐘がもともとあったという千手寺は、遠賀郡のどこにあったのか?

この鐘は芦屋釜の製造とかかわりがあるのか?

…など疑問が、まだまだ解決していませんでした。

 

先日、図書館で『増補改訂版 岡垣小史』に目を通していると、その元情報となる文章がみつかりました。『増補改訂版 岡垣小史』P220-224に「教龍寺銅鐘」のことについて詳細な記載がされていました。

 

どうして福岡県の梵鐘が、広島県に現在あるのか?

はっきりとした記録は残っていないようですが、『岡垣小史』P220には以下のように紹介されています。

 

この寺(千手寺のこと)に洪鐘があったが、乱世の時代盗人が盗んで、この鐘今、西京太泰の興隆寺にある。

 

鐘は盗られたのか、興隆寺に献上されたのかは定かではない…と、同書P219に書かれています。いずれにしても、鐘は「西京太泰の興隆寺」に、まずは移動したようです。

 

西京太泰とは、京都市右京区の太秦(うずまき)という地区。その地区の興隆寺というお寺にあるとされています。興隆寺という文字は現在「広隆寺」という文字になおされているようです。

 

興隆寺(広隆寺;京都府京都市右京区太秦蜂岡町32)から、教龍寺(広島県廿日市市吉和2897)に移動した理由についても、詳細な記録が残っていないために不明です。

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教龍寺銅鐘の変遷

小史を読んでみても、教龍寺銅鐘が移動した、はっきりとした理由は不明でした。

 

この鐘がもともとあったという千手寺は、遠賀郡のどこにあったのか?

千手寺の場所については、あるていどの情報が『岡垣小史』P217-218にあります。それによると…

 

大字黒山の東村中にあって、黒山千手寺という大寺があったという。観音堂もあったが近年これも廃した。

 

…とあります。岡垣小史の筆者は、これをもとに地元のかたに千手寺の場所を聞いて回ったといいます。すると…

 

岩崎真澄氏の妻(岩崎静香氏)の家を、地元のかたは昔から”千手寺、千手寺”といっていた…という情報を得たとあります。岩崎真澄(岩崎静香)氏のお宅についての情報が複雑なので、岡垣小史の記述を以下に簡単にまとめてみます。

 

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100年以上前の岩崎家の配置

 

岩崎真澄氏のご自宅裏に千手寺があったと考えられており、上の図のような高台にあったと予想されます。岡垣小史P218には岩崎しのぶ氏宅よりも6.7mも高い場所にあったと記されています。岩崎真澄氏のご自宅は現在、別の場所(低い場所)にうつされており、もともとの家があった場所は、空き地となっていると考えられます。岡垣小史には元岩崎真澄氏のご自宅跡では「砂採りがされている」と書かれています。

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元 岩崎真澄氏宅の裏側が千手寺があった場所

つまり、千手寺跡は「岩崎しのぶ氏宅の近くにある、空き地(高台)」を探せばよいのではないかと予想されます。 

 

千手寺がどこにあったのか?…探索はまだまだ続きそうです。有力な情報が得られれば追記します。