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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

不思議な運命をたどった鐘はもともと どこにあった? ①/② 福岡県遠賀郡岡垣町

2019年7月30日の記事で、もともと福岡県遠賀郡で使われていたお寺の鐘が、広島県の教龍寺に現在あるという内容を書かせていただきました。

 

参照:福岡県で625年前につくられた鐘が広島県にあるため訪ねた 広島県廿日市市吉和

 

この鐘は「教龍寺銅鐘」と呼ばれるものです。なぜこの鐘を、福岡県から遠く離れた広島県まで訪ねたかというと、もともと、この鐘が福岡県遠賀郡の岡垣町で使用されていたという情報を得たからです。

「筑前遠賀荘 黒山千手寺」の銘が刻まれる銅鐘↑

 

わたしは、「この鐘が福岡県遠賀郡の岡垣町で使用されていた」…と、ぼんやりとしか記憶に残っていませんでした。どこの資料でこの情報を得たのか覚えていませんでした。

 

どうして福岡県の梵鐘が、広島県に現在あるのか?

この鐘がもともとあったという千手寺は、遠賀郡のどこにあったのか?

この鐘は芦屋釜の製造とかかわりがあるのか?

…など疑問が、まだまだ解決していませんでした。

 

先日、図書館で『増補改訂版 岡垣小史』に目を通していると、その元情報となる文章がみつかりました。『増補改訂版 岡垣小史』P220-224に「教龍寺銅鐘」のことについて詳細な記載がされていました。

 

どうして福岡県の梵鐘が、広島県に現在あるのか?

はっきりとした記録は残っていないようですが、『岡垣小史』P220には以下のように紹介されています。

 

この寺(千手寺のこと)に洪鐘があったが、乱世の時代盗人が盗んで、この鐘今、西京太泰の興隆寺にある。

 

鐘は盗られたのか、興隆寺に献上されたのかは定かではない…と、同書P219に書かれています。いずれにしても、鐘は「西京太泰の興隆寺」に、まずは移動したようです。

 

西京太泰とは、京都市右京区の太秦(うずまき)という地区。その地区の興隆寺というお寺にあるとされています。興隆寺という文字は現在「広隆寺」という文字になおされているようです。

 

興隆寺(広隆寺;京都府京都市右京区太秦蜂岡町32)から、教龍寺(広島県廿日市市吉和2897)に移動した理由についても、詳細な記録が残っていないために不明です。

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教龍寺銅鐘の変遷

小史を読んでみても、教龍寺銅鐘が移動した、はっきりとした理由は不明でした。

 

この鐘がもともとあったという千手寺は、遠賀郡のどこにあったのか?

千手寺の場所については、あるていどの情報が『岡垣小史』P217-218にあります。それによると…

 

大字黒山の東村中にあって、黒山千手寺という大寺があったという。観音堂もあったが近年これも廃した。

 

…とあります。岡垣小史の筆者は、これをもとに地元のかたに千手寺の場所を聞いて回ったといいます。すると…

 

岩崎真澄氏の妻(岩崎静香氏)の家を、地元のかたは昔から”千手寺、千手寺”といっていた…という情報を得たとあります。岩崎真澄(岩崎静香)氏のお宅についての情報が複雑なので、岡垣小史の記述を以下に簡単にまとめてみます。

 

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100年以上前の岩崎家の配置

 

岩崎真澄氏のご自宅裏に千手寺があったと考えられており、上の図のような高台にあったと予想されます。岡垣小史P218には岩崎しのぶ氏宅よりも6.7mも高い場所にあったと記されています。岩崎真澄氏のご自宅は現在、別の場所(低い場所)にうつされており、もともとの家があった場所は、空き地となっていると考えられます。岡垣小史には元岩崎真澄氏のご自宅跡では「砂採りがされている」と書かれています。

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元 岩崎真澄氏宅の裏側が千手寺があった場所

つまり、千手寺跡は「岩崎しのぶ氏宅の近くにある、空き地(高台)」を探せばよいのではないかと予想されます。 

 

千手寺がどこにあったのか?…探索はまだまだ続きそうです。有力な情報が得られれば追記します。