日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

英彦山(ひこさん)の紅葉

場所:福岡県田川郡添田町 英彦山

座標値:33.474441,130.899434

 

↑上の座標値にある駐車場は、毎年ゆっくりと英彦山の紅葉を楽しめる場所です。こちらの写真は多重露光で撮ったものです。今年もこちらの場所にいってみたのですが、停まっている車の台数のわりには、周囲にいる人が少ないな…と感じました。

 

よくよく周りの人たちがどこにいっているのか観察していると、英彦山大権現庭園という場所に行っているようです。駐車場から歩いて、おそらく10分程度で着く場所です。

 

場所:福岡県田川郡添田町英彦山字樫ケ谷

座標値:33.471793,130.902224

 

おそらくこちらの場所でも紅葉が楽しめるのでしょう。ずっと以前に、私が英彦山登山からの下山途中、この大権現庭園の前を通るとき、たまたま撮った紅葉です↓(2011.11.22撮影)このとき、青空にモミジの紅が映えて、とても美しかったことを覚えています。

山城の遺跡? 列石がならぶ山の中 福岡県鹿毛馬(かけのうま)

飯塚市鹿毛馬(かけのうま)という地区の山の中に、造られた詳しい理由が不明な石垣がならんでいます。これは神籠石(こうごいし)と呼ばれます。

場所:福岡県飯塚市鹿毛馬(かけのうま)

座標値:33.676949,130.734478

 

この神籠石というのは『日本書紀』など、古代の書物にも記載がなくて、遺構でした存在を確認できません。九州から瀬戸内地方に、16カ所確認されているのだそうです。

 

その半数である8か所が福岡県で発見されています(参照:神籠石 - Wikipedia)。明治31年に、久留米市の高良山(こうらさん)の神籠石がはじめて学界で紹介されました(もっと知りたい福岡県の歴史 (歴史新書)P22)。

 

その後、各地の神籠石の報告がなされ、謎の列石である神籠石の役割は何なのか、論争がおきたそうです。論争は大きくふたつに分れ、ひとつが霊域とする説、ひとつが山城跡とする説でした。

この論争が大正の初期までつづき、昭和38年にある神籠石の発見を機に論争に決着がついたといわれます。”ある神籠石”というのが、佐賀県武雄市にある「おつぼ山」にある神籠石です。

 

この神籠石の上部が防塁であったとのことで、神籠石は山城の跡であることがわかったのだそうです。(参照:もっと知りたい 福岡県の歴史 P22-23 唐原山城(上毛町)の名称はなぜ変更された?)

 

同様の解説が、鹿毛馬神籠石の案内板にも紹介されていました。663年に朝鮮と中国の軍に日本が負けてしまいました。その後も朝鮮・中国からの侵攻を日本が恐れて、九州の北部や中国地方を中心に、山城が築かれていったと考えられています。その名残が、この神籠石なのですね。

案内板を読んでみると、神籠石というのは列石のみを指す言葉ではなく、列石・水門・門など、古代に築かれた一連の石の遺構を指す言葉のようです。だから鹿毛馬では、山中の列石とは別に、↓以下のような水門の跡もありますが、これも神籠石というのだと思われます。

 

今回参照した書籍 

珍しい地名 寿命(じめ)はどこからきたのか? 福岡県八幡西区楠橋西

北九州市の八幡西区楠橋に寿命(じめ)という珍しい地名があります。おもしろ地名 北九州事典(瀬川負太郎著)という書籍のP203に、その地名の由来が書かれていました。

 


おもしろ地名北九州事典

 

P203によると、”寺免もしくは神免、免税地に由来する”と紹介されています。寺免、神免、免税地とはなんなのでしょうか?免税地をそのままの意味でとらえると、”税が課せられない地”のことです。

 

それでは寺免(じめん)、神免(しんめん)はどんな意味をもつのでしょう?神免(しんめん)については、神免(シンメン)とは - 神免の読み方・歴史民俗用語 Weblio辞書というサイトに意味が説明されていました。

 

それによると…

 

江戸時代、神仏に関する土地で年貢諸役を勤めない高。

 

…とあります。「神社あるいはお寺があって年貢を納めるなどの役割から免除されていた土地」と、とらえられます。文中に”高”とありますが、これは高持(たかもち)のようです。

 

高持というのは高持百姓あるいは本百姓と呼ばれ、ざっくりいうと農民ということのようです(参照:高持(たかもち)とは - コトバンク

 

江戸時代この地には神社仏閣があり、これにより付近に住んでいた農民は諸役から免除を受けていたということなのかもしれません。

 

ところで、この寿命(じめ)という地には、「寿命の唐戸」と呼ばれる木造の水門が残されています。その水門がこちら↓

 

場所:福岡県北九州市八幡西区楠橋西

座標値:33.789685,130.715041

 

寿命の唐戸の遠景がこちら↓

北九州市、中間市には、遠賀川から洞海湾まで堀川という人の手で掘った人工の川がつながっています。黒田長政が水田灌漑と運送目的のために、1620年に着工しました(参照:おもしろ地名 北九州事典(瀬川負太郎著)P203)

 

その起点が寿命(じめ)でした。遠賀川から堀川へと水を取り入れるのですが、その水量を調整する役割をもつ水門でした。 

山野の楽(2018.9.23)と宇佐神宮の関係 福岡県嘉麻市山野

体の前に太鼓をかつぎ、背中には長さ2mほどの御幣(ごへい)を背負っている人たち。これは山野の楽と呼ばれる民俗芸能の恰好です。

山野の楽は、2018年では9月22日(土)と23日(日)に、福岡県の嘉麻市山野で開かれました。太鼓芸能の楽は、とても珍しいらしく、福岡県北西部(筑前国)では山野の楽だけで行なわれるようです。

 


◆◆遠賀川 流域の文化誌 / 香月靖晴/著 / 海鳥社

 

「遠賀川 流域の文化誌」P230に、山野の楽について以下のように紹介されています。

 

この芸能は「山野ン楽」といわれ、毎年秋分の日に鎮守神若八幡神社に奉納される。楽方は十二人、赫熊を頭にかぶり、藍と白を交互に染めた手貫(袖)と脚絆を着け、ヘラの皮で作った腰蓑を巻き、白足袋、わらじがけである。

たすきは藍地に白で扇形の梅模様に松と竹をあしらったものを締める。胸には径30センチ位の太鼓を横にして結びつけ、背には長さ二メートル位の御幣を背負う(遠賀川 流域の文化誌P230)

 

私が山野の楽を観にいったのが二日目の9月23日(日)です。この日は14時から嘉麻市山野の集落内を一行が練り歩きまわりました。その後、15時より若八幡神社(座標値:33.6114366,130.7109349)の境内で、本楽がはじまりました。 

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豊前の楽が通常””になって楽を行なうのに対して、山野の楽は”二列”になって楽を行なうのだそうです。楽では前後左右に動いたり…

体を屈伸させたり、グッとしゃがんだりと、すばやい動きではないものの、ゆっくりとした大きな動きの楽でした。

 

この楽が奉納される山野の若八幡神社は、大分県の宇佐神宮から勧請されたといいます(遠賀川 流域の文化誌P231)。山野の楽の歌楽では以下のような歌詞が歌われるそうです。

 

一、イヨ 古(いにしえ) 天の岩戸に神遊び神遊び

二、イヨ 古 神の子どもに楽をせよ楽をせよ

三、イヨ 神々の楽をそろえて面白や面白や

四、イヨ 世の楽を聞けば則ち法(のり)の声法の声

五、イヨ 世の中は楽で治まる世の中は世の中は

 

一から五の歌詞のあとには「ウンサトリノエントカヤ」…つまり「宇佐の通りの宴」という言葉が続くそうです。

 

山野は鎌倉・室町時代には、宇佐八幡宮の拠点のひとつであったそうで、山野の楽がはじまったひとつの説にも、宇佐神宮から山野若八幡神社に神様を分けていただいたとき、神様へのおもてなしとして、この楽がはじまったという説もあるようです(参照:山野ん楽(山野の楽)について|公式サイト 山野の楽

 

一方で、河童の関わる説もあるようです。箇条書きで書くと…

 

・山野村の溜池に河童が住んでいた

・溜池を村人が埋めてしまった

・河童の祟りにより村が火事となった

・年に一度お祭りをするので河童に別の場所に移るよう願った

 

これが山野の楽のはじまりだという説もあるようです(参照:山野ん楽(山野の楽)について|公式サイト 山野の楽)。

たまたま立ち寄ってみた山野の楽ではありましたけど、調べてみると宇佐神宮との深いかかわりがあったとは…思いがけない発見でした。

 

妙見宮の大イチョウ 福岡県岡垣町原

場所:福岡県遠賀郡岡垣町原

座標値:33.8795266,130.5693623

 

現在は大原神社と名前を変えていますが、以前は妙見宮と呼ばれていたそうです。

 

慶長17年、黒田筑前守長政が建立した歴史情緒溢れる神社。
海岸近くの小高い丘にあり、海を臨む神社となっています。
山妙見と浜妙見が合祀して現在の大原神社となりました。

大原神社|歴史を学ぶ|観光する|岡垣町観光協会 公式サイト

 

この「妙見」というのは、もともと北極星を神格化した妙見菩薩を指す言葉なのだそうです。

 

古来、中国の道教では延命長寿や除災招福を北斗七星に祈ることが盛んであり、それが北斗尊星法という祈祷修法で日本に伝来している(遠賀川 (海鳥ブックス6)P194)

 

さらに「彦山縁起」という書物には、以下のような伝えが書かれているといいます。

 

法蓮という修行僧が、彦山の主である北辰からお告げをいただいた

・お告げにより竜の玉を得ることができた

・竜がでてきた岩跡から枯れない清水が湧き出た

 

彦山の主である北辰というのは、北極星のことなのだそうで、これもまた妙見様とつながってきます。妙見様は祈雨、止雨の祈願対象ともなるそう(遠賀川 流域の文化誌P194)です。この大イチョウがある大原神社も、もともと雨乞いの儀式が行われた地であったのかもしれません。

旧西ノ塚地区のコウシンさま 福岡県みやこ町犀川下伊良原

英彦山から、みやこ町へと下る途中、国道496号線沿いで見つけた庚申塔のご紹介です。今回のコウシンさまは、道路わきの整地された区画に大事にまつられていました。

さらに、庚申塔のすぐわきには「旧西ノ塚地区 猿田彦大神」という説明が刻まれた新しい石塔も立っていました。

石塔の裏側には「平成二十六年六月」の銘。四年前に建てられたばかりのものでした。

場所:福岡県京都郡みやこ町犀川下伊良原

座標値:33.576868,130.946255

 

↓庚申塔自体には「猿田彦大神」という銘のみが確認され、建立年月の銘は確認できませんでした。

 

猿田彦大神と庚申の神とのつながり

福岡県の庚申塔の主尊としてよく見かける猿田彦大神ですが、猿田彦大神は「道の神」、「境の神」である道祖神でもあるため、庚申の神が持つ「境の神」としての性格と結びつきやすかったようです(参照:庚申信仰 (民衆宗教史叢書 第17巻)P102,103,P111)。

 

同書P111では「猿田彦と庚申」という項があり、新潟県や壱岐、長野県の信仰を挙げて、猿田彦大神と庚申の神とのつながりを説明してくれており興味深いです。

 

特に長野県の信仰として、疫病神が作った帳面(悪いもの)を道祖神にあずけておくと、道祖神が焼いてくれ、人間を助けてくれるというものがあるそうです。それが小正月のオンベ焼という祭りの云われのようです。

 

このエピソードが、庚申待(こうしんまち)の云われと似ていることを庚申信仰 (民衆宗教史叢書 第17巻)では指摘しています。

京都郡の庚申塔 福岡県犀川 上伊良原

おそらく「猿田彦大神」と刻まれた庚申塔と思われます。
f:id:regenerationderhydra:20181104173338j:image

場所:福岡県京都郡みやこ町犀川 上伊良原

座標値:33.544807,130.9482822

 

かろうじて、「…田彦…神」という文字が確認できます。しかし建立年月などの銘は確認できませんでした。

 

英彦山からみやこ町方面へと向かっている途中、国道496号線沿いに祀られているのを、たまたま見つけることができました。

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 今回の庚申塔も「福岡県の庚申塔 - Google マイマップ」に登録しています。