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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

山城の遺跡? 列石がならぶ山の中 福岡県鹿毛馬(かけのうま)

飯塚市鹿毛馬(かけのうま)という地区の山の中に、造られた詳しい理由が不明な石垣がならんでいます。これは神籠石(こうごいし)と呼ばれます。

場所:福岡県飯塚市鹿毛馬(かけのうま)

座標値:33.676949,130.734478

 

この神籠石というのは『日本書紀』など、古代の書物にも記載がなくて、遺構でした存在を確認できません。九州から瀬戸内地方に、16カ所確認されているのだそうです。

 

その半数である8か所が福岡県で発見されています(参照:神籠石 - Wikipedia)。明治31年に、久留米市の高良山(こうらさん)の神籠石がはじめて学界で紹介されました(もっと知りたい福岡県の歴史 (歴史新書)P22)。

 

その後、各地の神籠石の報告がなされ、謎の列石である神籠石の役割は何なのか、論争がおきたそうです。論争は大きくふたつに分れ、ひとつが霊域とする説、ひとつが山城跡とする説でした。

この論争が大正の初期までつづき、昭和38年にある神籠石の発見を機に論争に決着がついたといわれます。”ある神籠石”というのが、佐賀県武雄市にある「おつぼ山」にある神籠石です。

 

この神籠石の上部が防塁であったとのことで、神籠石は山城の跡であることがわかったのだそうです。(参照:もっと知りたい 福岡県の歴史 P22-23 唐原山城(上毛町)の名称はなぜ変更された?)

 

同様の解説が、鹿毛馬神籠石の案内板にも紹介されていました。663年に朝鮮と中国の軍に日本が負けてしまいました。その後も朝鮮・中国からの侵攻を日本が恐れて、九州の北部や中国地方を中心に、山城が築かれていったと考えられています。その名残が、この神籠石なのですね。

案内板を読んでみると、神籠石というのは列石のみを指す言葉ではなく、列石・水門・門など、古代に築かれた一連の石の遺構を指す言葉のようです。だから鹿毛馬では、山中の列石とは別に、↓以下のような水門の跡もありますが、これも神籠石というのだと思われます。

 

今回参照した書籍