日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

鶏と猿が刻まれる文字塔 鞍手郡中山 八剣神社の庚申塔

「八剣神社(やつるぎじんじゃ)」とは、いかにもいわれがありそうな名前の神社です。この神社に庚申塔が6基保管されていたので、ご紹介します。

鞍手郡八剣神社の庚申塔

場所:福岡県鞍手郡鞍手町中山1588

地図:Google マップ

 

八剣神社の名前の由来について調べてみると、日本書紀で語られる草薙剣(くさなぎのつるぎ)が、ここ鞍手郡中山の八剱神社に保管されていたという伝説からきているようです。こういう神話は理解するのが、ぼくには難しく詳細の内容はわからないのですが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際、その尾っぽから出てきたのが草薙剣なんだそうです。

八岐大蛇の尾っぽは八本だったために、八つの剣が尾っぽから得られたそう。ここから「八剣」という名が付けられたようですが、詳細はもっと調べてみないとわかりません。

 

話を庚申塔へと戻します。鞍手町中山にある八剣神社は、剣岳の中腹に鎮座します↓

 長い階段をのぼり境内につくと…

社殿に向かって、右奥のほうに庚申塔がみえてきます。

↓なんとなく、庚申塔だと確認できるのが、ここでは5基。

↓さらに拝殿の右奥に1基、庚申塔が祀られていました。

ザザザッとご紹介しますと…

…このような感じになります。これらの庚申塔のなかでも、珍しかったのがこちらの庚申塔です↓

「謹慎 幸神尊天 元禄十一年 中山村住人 六月十七日 小長光久?」という銘が入っています。「?」の部分は判読が困難でした。

 

そしてその銘の下側には、なんと猿と鳥が。だいぶ浸食されて丸くなっていますが、まちがいなく猿と鶏です。

福岡県の庚申塔では珍しいです。「元禄11年」というと、西暦1698年。今から319年も前。全国的には青面金剛主尊の庚申塔がよく造られていた時代初期です。鶏・猿がはじめて庚申塔に姿を現した時代から、約100年は経っているようです。

 

なんとなく、こちらの庚申塔↑がもともと八剣神社にあったもので、その他の庚申塔は中山という地区の各所に祀られていたものを集めてきたような感じがします。

畦町宿 須賀神社の線刻えびす様 福岡県福津市

なかなか珍しい、線刻の恵比須様が祀られている神社です。

場所:福岡県福津市畦町 須賀神社

地図:Google マップ

 

唐津街道の宿場町のひとつである畦町宿(あぜまちしゅく)。この宿場町のなかに、1642年につくられた須賀神社があります。畦町宿がつくられた当初からある神社のようです。

 

社殿には三つの祠が祀られていて、線刻のえびす様が祀られるのは、社殿に向かって右側の祠です。いくつかの神社を合祀(ごうし)したようです。

↓こちらが線刻の恵比須様です。案内看板には事代主(ことしろぬし)が祭神と書かれていますが、恵比須様の本来の名前が事代主ということでしょうか。

調べてみると、どうもそのようで…

 

「えびす」という神は複数あり、イザナギイザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)か、もしくは大国主命(大黒さん)の子である事代主神(ことしろぬしかみ)とされることが多い。えびす - Wikipedia

 

ウィキペディアでは「事代主は一説では恵比須様ととらえられる」という意味合いで書かれていました。「事代主=恵比須様」というふうに断言されるわけではないようですね。日本古来の神と、インド中国からの外来の神様が物語のなかでやんわりとあわさって、神様は生まれるようです。

 

恵比須様は海の神・商売の神。

 

須賀神社の恵比須様は、丸みをおびた自然石に刻まれます。その石の裏には「石工 花田彦市包清」と刻まれているそうです。

グリーンパークのカピバラ 北九州市若松区

妻が子どもと一緒にカピバラを観に行ったときの写真です。

平日だとお客さんはまばらで、ゆっくり園内を観覧できるグリーンパーク。熱帯生態園内はこんな寒い時期でもポカポカ。

 

熱帯生態園の入場料金は大人300円。グリーンパーク自体の入場料は大人100円と格安。子どもが小さいので、まだまだお世話になりそうです。

 

場所:福岡県北九州市若松区竹並1006

地図:Google マップ

蜑住入口ふきんの馬頭観音 北九州市若松区

北九州市若松区の蜑住(あますみ)という地区の入口に、馬頭観音が祀られているのをみかけたのでご紹介します。ここは、「島郷四国5番札所」のお堂があり、そのお堂がある小さなスペースに馬頭観音や石塔、お地蔵様が祀られていました。

 

場所:福岡県北九州市若松区蜑住

地図:Google マップ

 

↓こちらが蜑住入口の馬頭観音です。

 この蜑住入口地区は今でも田んぼが広がっていて、周囲の民家は農家が主のようです。昔は馬や牛が農作業のときに活躍していたのかもしれません。

労働の主役を担っていた家畜を祀る目的で、このような馬頭観音が祀られてきたのでしょう。同じく馬頭観音を福岡県の嘉麻市でみかけたことがあります。それがこちら↓

こちらの馬頭観音様は、炭坑で荷物を運ぶために働かされていた馬を供養する仏様で、劣悪な環境でたくさんの馬が炭坑内で死んだんだそうです。

 

宿なし百神 (1975年) (東京美術選書〈12〉)で、馬頭観音が紹介されていました。

 

馬頭観音は馬の神さまであるが、馬頭観世音菩薩というのが本当で、馬頭菩薩、馬頭大士、馬頭明王ともいい、六観音のひとつ、そして八大明王の一つでもある。 

 

 

六観音とは何か調べてみると、地獄道、餓鬼道などよく聞く六道それぞれから専門の仏様が救ってくれるという信仰があるそうです。それぞれの専門の仏様が以下のようになります。

①地獄道:聖(しょう)観音

②餓鬼道:千手観音

③畜生道:馬頭観音

④修羅道:十一面観音

⑤人間道:准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音

⑥天道:如意輪観音を配する

 

なるほど、こういった信仰もあるんですね。馬頭観音は畜生道から救い出してくれる仏様なんですね。

 

 

宿なし百神 (1975年) (東京美術選書〈12〉)から、さらに重要と思われる部分を抜粋します。

 

かつては人間生活の主要な部分をしめていた馬は、一馬力、二馬力という力の単位ともなり、農家では馬の所有を貧富のモノサシともしていた。(中略) 特に農民は、馬に生活をゆだねる場合が多く、馬はほとんど家族の一員としてあつかわれ、死馬に対しては供養塔を建てた。そして路傍には馬頭観音を祀って馬の安全と成育を祈ったのである。

このような感じ↓で、ほかにもたくさんの石塔や石仏が祀られていたので、もしかしたら、蜑住入口ふきんにあるこの馬頭観音も他の場所にあったのを、このお堂のある場所に移動させられたのかもしれません。

↓ちなみに庚申塔と思っていた石塔は、庚申塔ではありませんでした。文字がだいぶ風雨に浸食されており、何が書かれているのか判別できません。

↓こちらの石塔も同じく、文字は判別しにくいのですが、なにやら「島郷四国霊場 碑文」という文字がかろうじて認められるので、こちらも庚申塔ではなさそうです。

神功皇后が顔を映した 紅影の池 北九州市若松区

「北九州の史跡探訪」(北九州史跡同好会)という史料を読んで、時間のあるときにちょっと行ってみたいなと思う史跡を巡っています。こういった、地方の有志のかたがたが編集・発行している史料は、その土地土地のディープな部分まで知れるのでおもしろいです。メジャーな観光地を目標に地方を巡っていても、なかなか自分好みの場所は見つかりにくいです。

今回は、この「北九州の史跡探訪」に紹介されていた、「紅影の池」という場所へ行っていました。

 

「紅影の池」

場所:福岡県北九州市若松区東二島2丁目

地図:Google マップ

 

このスポットは、日本書紀で登場するお姫様…神功皇后(じんぐうこうごう)ゆかりの地です。熊襲(くまそ)という人々が南九州に住んでいたのですが、この人々はヤマト大権に抵抗したとされています。

 

そこで神功皇后と、その夫である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)が、熊襲を征伐するために南九州まで遠征したそうです。その通り道のひとつが、ここ「紅影の池」です。

 

地図でみると、洞海湾(どうかいわん)と岩尾山とに挟まれた東二島という地区に、紅影の池は位置します。↓紅影の池前を通ってみると、住宅街のなかにこんもりと緑が茂っており、池があるようには見えませんが…
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↓このように石碑と看板がたっており、ここが紅影の池でまちがいないことがわかります。
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 ↓池の跡は、これら石碑と看板の右隣りにありました。井戸の跡のようで、繁みに半分ほど隠れてしまっていました。そのくぼみの中を覗いてみても、今は水はみられませんでした。昔は、清水が湧き出ていたんだそうです。
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↓岩尾山と石峰山で集められた雨水が、両方の谷を通り、途中で地下に入り、やや平地となっている紅影の池ふきんで再び地上に湧きだしたのでしょうか。この池の水にまつわる伝承が、「北九州の史跡探訪」に簡単に紹介されていますので抜粋します。

 

神功皇后熊襲征伐の時、洞の海から崗の水門に向う途中 里人が清水湧く美しい池に案内、鏡のような水面で容姿を整え御顔の紅まで映ったので 後この池を紅影の池とよんだ。

 

「洞の海」は「くきのうみ」と読み、つまりは洞海湾のこと。「崗の水門」は「こうのみなと」と読み、つまりは遠賀川のことだそうです。

 

「紅影の池」隣に立っていた案内看板にはこんな情報も…

・「御手洗(みてあらい)の池」とも呼ばれていた

・池の水を「お水」と称し病を治したり安産祈願をしていた

・池の水でお酒を造ると銘酒となった

食感とろとろ 濃厚チーズがのっている焼カレー レストラン「ニューラッキー」

福岡県北九州市門司港のイルミネーションを見に行った帰り。晩ごはんを食べていなかったので、どこか立ち寄れるお店はないか探していました。門司港レトロ内は、たくさんのカップルでにぎわっていますので、小さな子ども連れでも、落ち着いて食べられる場所はないか…

 

門司港から歩いて5分ほど。ほんとすぐ近くに栄町銀天街があって、そのなかに今回行ったレストラン「ニューラッキー」があります。シャッター街という感じの栄町銀天街なので、夜7時をすぎると、人通りはまばら。

妻は、このお店の昔風の店構えが気になったよう。ガラス越しに見る店内は、静かで広そうだったので、ここにお邪魔することにしました。

 

場所:福岡県北九州市門司区栄町2−19

地図:Google マップ

店内に入ると、テーブルにひとつひとつに白いクロスが掛けられ高級感が漂うのでちょっと躊躇しましたが、店員さんから子ども用の椅子を用意していただいたので、ひと安心。

 

子どもが小さいと、ファミリーレストランや、ラーメン屋さんなど他のひとにできるだけ気を使わない店に入ることが多く、こういったレストランに入るのは久しぶりです。笑顔で対応してくれる店員さんのやさしさがありがたいです。

 

門司港ということで、まだ食べたことがなかった名物の焼カレーを食べてみることにしました。焼カレーについて調べてみると、初めて焼カレーが作られたのは、昭和30年代のころ。同じ銀天街にあった山田屋という和食屋さんが考案したんだそうです。

 

土鍋にカレーをいれグラタン・ドリア風にオーブンで焼いたところ、実に香ばしく、美味しく仕上がったので、のちに店のメニューとして出し、好評であったという逸話が残っている。焼きカレー - Wikipedia

↑こちらが「ニューラッキー」さんの焼カレー。小さなサラダがついてきて980円です。皿がちょっと焦げているところを見ると、いちどカレーを盛ったところにチーズをのせ、オーブンに入れて焼き上げているようです。

 

注文から焼カレーがでてくるまで10分弱かかっていたので、注文を受けてからオーブンで焼くようですね。↓ほんとにチーズがトロトロで香りも濃厚です。カレールー自体は辛くなくて、子どもにも安心して分けることができました。カレーの風味はあるけど、チーズのまろやかさが足されるので、感覚的にはビーフシチューくらいの刺激度でした。

↓ゴロっと大き目のビーフはもちろんやわらかい。

↓カレーのまんなかには、半熟の卵がチーズの下に隠されていて、これをつぶすとさらにまろやかさが増します。

お店のいい雰囲気も含めて、はじめて食べる焼カレーは記憶に残る味でした。

 

ちなみに↓こちらは妻がたのんだビーフカレー、700円。盛られているお皿がいい雰囲気を醸し出しています。 

福岡県 鞍手郡 鞍手町 新延(にのぶ)の猿田彦大神

今回も福岡県をとおる唐津街道沿いの猿田彦大神のご紹介です。長崎街道の木屋瀬宿(こやのせしゅく)から唐津街道が分かれますが、この唐津街道赤間宿(あかましゅく)へ向かう途中にある猿田彦(さるたひこ)大神です。猿田彦ですが、刻まれる文字は「猨田彦」となっています。「猨」という文字でも「サル」と読むんですね。

 

場所:福岡県鞍手郡鞍手町新延

地図:Google マップ

↓黄色で示された道路が県道29号線ですが、鞍手町の新延(にのぶ)という地区に、県道29号線に沿ってはしる小さな道があります。黒の線で示された道ですね。こういう小さな道は市町村道というんでしょうか。↓下の図では赤丸の部分に猿田彦大神の石塔があります。石塔は小さな道沿いにあります。この小さな道が、昔の唐津街道だったんだそうです。

猿田彦の石塔に向かって右側には、はっきりと「天明二年」の銘が刻まれます。西暦1782年です。

石塔に向かって左側には、見慣れない文字が…「壬寅七月廿五日」と刻まれます。調べてみると「壬寅」は「みずのえとら」と読み干支(かんし)の39番目だそうで、7月25日の意味ということです。「七月廿五日」も「壬寅」と同じ意味で7月25日を意味するんだそうです。「廿」はこれ一文字で20を表す漢字です。ちなみに「」は30、「卌」は40なんだそうです。

↓台座には「奉寄進」と刻まれ「ほうきしん」と読むんでしょうか。「慎んで寄贈致します」という意味あいらしい。

今回の猿田彦大神の石塔は、笠付型でした。それにしても、今回の石塔の銘はすべてがはっきりくっきりと残っていました。石の材質が硬く浸食されにくいものだからでしょうか。