日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

炭鉱の街に魅せられはじめてきた

福岡県の飯塚市には、まだ3度ほどしか行ったことはありません。昔、炭鉱で栄えた街だけど、今は小さな街…というイメージしかありませんでした。

 

2016年10月23日に飯塚と訪れ、実際街中を歩いてみると、古い建物が残り、史跡も所々に見かけられる、なんともぼくのツボにはまる趣ある街だということがわかってきました。

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少し前にテレビで飯塚が紹介されていて、銘菓ひよこと、千鳥まんじゅうが発祥と知って、驚きました。このふたつのお菓子は福岡市でつくられたものだと思ってました。 

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 訪れたこの日、本町商店街を歩いてると、なんだか人だかりがあちこちで見られました。偶然にも筑前の國いいづか街道まつりが開催されてました。

 

こちらは、仮装パレードのひとこま。

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食べ物も含めて、なんともおもしろい街でしたので、ボチボチと文章におこしていこうと思います。

史跡探訪 人の手で掘った名残がある堀川

福岡県の北九州市八幡西区と遠賀郡、中間市には、手で掘られた川が通っているということを聞いたので、その名残を探しにいってみました。その名も「堀川(ほりかわ)」という川なのだそうです。

 

人が手で造った川ってどんな形の川なんでしょう。今もちゃんと機能しているんでしょうか?そもそも、どうしてそんな手間をかけて川を造る必要があったでしょうか?…などなど想像がふくらみます。

 

どうして手で掘ってまで川を作る必要があったのか?

昔…江戸時代までの遠賀川は、いまのような立派な堤防がなく、川の流域はたびたび洪水がおきていました。そこで、1621年から遠賀川から洞海湾へ水を流して、洪水を防ぐために川が掘られたのだそうです。

 

赤い線で表したのが堀川です。北九州市八幡西区の楠橋(くすばし)という地区から、中間市、折尾を経由し洞海湾まで約12㎞も続いてます。

↓これが実際の堀川。上の地図でいえば「吉田車返」という場所ちかくの写真です。

ノミで掘った跡が残る 折尾高校付近の堀川

堀川というくらいだから、実際に手で掘ったのですが、その堀跡が吉田という地区に残っているそうです。折尾高校を目標にいくとわかりやすかったです。

吉田付近はゴツゴツとした岩山を切り開いて川を通したそう。

川の両岸の壁をよく見ると、たしかにノミで削った跡がみえました↓

ここの工事が行われたのが1751年…つまり今から265年も前です。そんな前のノミ跡が残ってるなんて、吉田付近の岩盤がどれだけ固いのかがわかります。当時は郷夫(ごうふ)と呼ばれる石工の専門家が工事にあたったそうです。

 

「吉田車返(よしだくるまがえし)」という地名の由来は、なんとなく「車が通れないほど固くて引き返すほどの岩山だった」ことから来ているのが想像されます。

 

 

なんども壊れた中間の唐戸

昨日にご紹介した「中間唐戸(なかまからと)」です。遠賀川と堀川の境界部分に建てられた、いわゆる水門です。遠賀川からの水流を調整するものなのですが、なんども強い水流に押されて水門が壊れてしまいました。

悩んだ当時の建設責任者が、壊れない水門はどうしたら造れるのか、岡山県吉井川に架かる石唐戸の構造を参考にしたそうです。その後、唐戸は再建設され、壊れないこの唐戸が完成されたのだそうです。完成は1762年のことです。

 

追加して造られた寿命(じめ)唐戸

こちらは堀川の発起点にある水門、寿命(じめ)の唐戸です。遠賀川の水の取り込み口は中間の唐戸で、ここに水を集中させるために遠賀川をせき止めていました。そのため遠賀川の上流では水が溜まってしまい、湿田化してしまいました。そこで遠賀川の水の取り込み口を、さらに上流へ移動させることになったそうです。

↓地図でいうと「寿命の唐戸」と示したあたり。楠橋(くすばし)という地区です。

川の上に覆いかぶさるように、瓦屋根の木造建造物がある景色は珍しいですね。寿命唐戸が完成したのは1804年です。

 

 

180年間かけてじっくりと完成された堀川

堀川の工事が開始されてから、寿命唐戸が完成(1804年)するまでかかった時間は183年。なんとも長い時間をかけて造られたのですね。

 

工事開始が1621年。土砂崩れなどの事故がたびたびおこって、一度工事が中止されたのが、時間がかかった原因のようです。

 

堀川が完成されてからは、北九州の産業を支えた石炭を運ぶ船が往来していました。↓これらの写真は、「吉田車返」にある河守神社に掲載されている昔の写真です。

五平太舟(ごへいたぶね)という、舟の底が平たくなっている舟。あまり深くない川を進むので舟底を平たくした舟なんだそうです。

写真を見ると、唐戸では舟一隻がやっと通るほどの幅だったようですね。

まとめ

 遠賀川両岸には、いまでは立派な堤防が建てられ、工業のエネルギー源として石炭は使われなくなりました。石炭を運ぶための運河とか、洪水を防ぐとか…堀川は昔ほどの機能は担ってはいないようです。

堀川の工事跡をたどっていくことは、福岡の歴史の一端を知るいいきっかけになりました。

遠賀川河川敷のコスモスは今見ごろ 2016年10月22日

いろんなところで秋の祭りが開催されています。神社の祭りだったり、大分県だったら国東のケベス祭、杵築の観月祭などが開催されたようです。北九州市に移り住んでからは大分県の祭りは懐かしむしかありません。

 

だけど、北九州でも新しく祭りを見つけていこうと思います。福岡県遠賀郡にある「みどりんぱぁーく」というところで、コスモスまつりが開催されています(2016年10月22日と23日)。22日だけアンパンマンショーがあるということで、1歳半になる子どもがちょうどアンパンマンに興味を持ち始めているので、行ってみることにしました。

 

「みどりんぱぁーく」の場所:福岡県遠賀郡水巻町猪熊1丁目500-1
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遠賀川の河川敷にも駐車場があったので、ここに車を停めて歩いていくつもりでしたが、会場までシャトルバスがでていました。なんてリッチな。雨がふってたので、ありがたいです。

 

↑上の写真は遠賀川河川敷のコスモスたちです。約4㎞にわたってコスモス畑が続いてるので、これは見ごたえがあります。イベント鑑賞後に小雨がぱらつくなか、コスモス畑を歩いてみました。先週よりもさらに開花の割合がふえてて、もう満開のようですね。

明け方 雨が降る日に史跡撮影

中間の唐戸(なかまのからと)は、福岡県中間市役所のすぐ近くにある古い水門です。遠賀川が増水したとき、川の水が住宅地にあふれでてこないようにするのを目的に造られたそうです。
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車で付近を通りかかったとき、ふと道路脇に目をやると、なんとも古い木造の小屋がみえたので調べてみました。

 

中間の唐戸ふきんは車通りが多くて、昼間はなかなか写真を撮りにいきたいとは思いませんでした。

 

明るくなる前の朝方、撮ってみましたが、うーん何を撮ってるのか、暗くてわからないですね。

 

雨が降っていたので、傘をさして、三脚をたてて…と、落ち着いて撮れなかったので、いつの日か再度挑戦です。 

 

遠賀川流域の古墳時代の史跡に行ってみた 垣生羅漢百穴

大分県から福岡県の北九州市へ移りすんでから、はや1か月が過ぎました。北九州市や遠賀、直方(のうがた)などにも多くの史跡があることがわかってきて、行きたい場所がだんだんと見つかってきました。

 

やっぱり、図書館にある郷土史料が、その土地土地のディープな部分を知る情報源としては優秀です。

 

この垣生羅漢百穴(はぶらかんひゃっけつ)の存在を知ったのも、郷土史料のおかげです。

垣生羅漢百穴は、いわゆる古墳ですが、古墳のオーソドックスなイメージとはちがって、崖に穴が掘られている形式です。この穴のなかに遺体を安置したようです。

 

この古墳は福岡県中間市の垣生公園(はぶこうえん)という桜の名所にあります。垣生公園は遠賀川という大きな川のすぐ近く。遠賀川流域って、ぽつぽつと古墳が発見されたり、土器が出土したりしてて、古い時代から人が住んでいたんだなっていうことがわかります。

遠賀川をはさんで中間市の対岸。こんな市街地に古墳が残されているんですね。野球場となりの駐車場に車を停めて、垣生神社方向に5分ほど歩きました。小高い丘になっている公園の中腹に横穴墓はありました。

大分県では、広々とした自然のなかにぽつぽつと史跡が残されていました。いっぽう、福岡県では住宅地、市街地のなかにぽつぽつと史跡が残されています。その点、ちょっと感覚にギャップはあります。

 

深い山に分け入ったり、崖を登ったりして辿り着く大分県の史跡と比較すると、アクセスしやすい福岡県の史跡の物足りなさは感じてしまいます。でもやっぱり宝さがしのような史跡探訪のおもしろさは変わりません。

場所:福岡県中間市垣生

まとめ

調べた史跡の場所を記憶するのをどうしようかまよっているとき、いつも持ち歩いているスマホを使うのが一番いいようだ、ということに気づきました。

 

場所の情報をまとめておくのはgoogle mapが便利です。google map上の、マークしたい場所を長押しすると☆マークをつけることができます。

 

時間が空いたとき、つけておいた☆印をmap上でさがしてナビゲーションできるので、時間が有効に使えます。

焼きカレーじゃなくてカレー焼き 珍しいご当地グルメを食べてみた

知り合いに教えてもらって行ってみました。焼きカレー…ではなくて、カレー焼を食べさせてくれるという「次元」。やっぱり地元の食に通じているのは、地元のひとです。

 

場所:福岡県直方市古町3−2

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直方市ご当地グルメ カレー焼

カレー焼って何?知り合いからの情報は↓こんな感じのもの

 

  •  細長いパンのようなものにカレーが入っている
  • でもカレーパンじゃない
  • 金土日には「大人のカレー焼」というものがある
  • 「大人のカレー焼」はけっこう辛い

 

なかなか、これだけではどんな食べ物か想像できないので、実際に確かめることにしました。
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直方駅の近くで、通りをはさんで福岡銀行の向かいにあるという情報をもとに歩いて探していると、比較的かんたんに見つかりました。

 

小さめのお店ですが、店内と店先で食べるスペースがちゃんとあります。唐揚げとか、ソフトクリームとかメニューはいくつかあったけど、迷わず「カレー焼」です。

 

今回頼んだのは、ふつうのカレー焼(¥130)と、金土日限定のチーズカレー焼(¥150)。

 

周りの生地は回転まんじゅう(今川焼)と同じ。ふわふわの生地のなかに、カレーが入ってます。これは珍しい。しかも、生地に「直方」の刻印がはいってますね。
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チーズカレー焼のほうは、生地の上に割れ目があってここにチーズが入ってるようですね。チーズカレー焼のほうのカレーは辛口で、ちょっとピリッ。

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 次元さんには、学生がよく立ち寄るそうで、ボリュームがあって腹持ちのいい「カレー焼」は人気があるのでしょうね。

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まとめ

珍しいご当地グルメを探すのは楽しいです。「次元」のカレー焼も、見つけられてよかった。個人的には、外がカリカリに揚がったカレーパンのほうが好きだけど、直方駅に寄ることがあったら、また、カレー焼は食べさせてもらいます。

 

日常のなかの宝探し @北九州市若松区

北九州市にある若松区は、今となっては小さな街ですが、石炭が使われてた時代には、日本有数の”景気のいい町”として知られていました。若松は石炭の積み出し港として発展したのだそうですよ。

 

北九州を歩いていると、ときどき、石炭がエネルギーとして使われてた時代の名残がみられます。若松区の、この弁財天上陸場も、石炭時代の名残のひとつです。

弁財天上陸場ってなに?

石炭の積み出しのために港湾で働いていた人たちが、船に乗り降りしていた場所が、この弁財天上陸場なのだそうです。

上陸場が造られたのが大正6年頃。大正6年というと1917年だから、いまから99年前です。

 

この付近は用事があって、ときどき通っていたのですが、弁財天上陸場の存在は知りませんでした。こういった史跡をぼくが、日頃、探していることを知っている妻に教えてもらいました。

 

上陸場の両側にある常夜灯は、それから4年後の大正10年に、地元の人たちによってつくられました。

ちょっと見にくいですが、土台に大正10年の刻印がされていますね。

 

まとめ

生活のなかに埋もれている、こういった史跡を見つけるのは、なかなか楽しいものです。 情報源は、図書館の郷土本が主ですが、クチコミによるものもけっこう大事です。