「元亨二年 在銘 法橋琳弁 石卒都婆」という文化財が、飯塚市明星寺という地区の山のなかに、ひっそりと保存されています。「元亨二年 在銘 法橋琳弁 石卒都婆」とは…漢字ばかりで、現地を訪れているときは何を意味しているのかわかりませんでしたが、ひとつひとつの文字を調べてみると、その言葉の意味することがわかりました。
「げんこうにねん ざいめい ほうきょうりんべん いしそとば」
一つ一つの文字を分解してみると以下のようになります。
西暦1322年に、琳弁(りんべん)というお坊さんが亡くなったので、そのかたを供養するために造立された供養塔のようです。
場所:福岡県飯塚市明星寺
座標値:33.6264801,130.6334839
石卒都婆(いしそとば)は、下の写真のような山道の脇にまつられています。訪れたのは2023年11月17日でした。そのときは卒塔婆がまつられている場所は雑草が繁茂しており、雑草をふみわけながら道路脇にはいってゆくというかたちでした。
案内板や標(しるべ)がたてられてはいましたが、汚れていたり、傾いていたりとしていました。
上の写真は案内板です。案内板の内容を以下に転記してみます。
県指定有形文化財
元亨二年在銘法橋琳弁石卒都婆一基昭和三八年一月十六日指定
飯塚市大字明星寺河内明星寺は、平安時代末から鎌倉・室町時代にかけての天台宗の大寺であり、かつて、聖光上人が三層の塔(あるいは五層の塔を建てて再興し、十二坊を有したと「筑前国続 風土記に記されている。しかし、現在、わずかに虚空蔵堂、常師堂及び石段等が残るのみである。高さ八五センチのほぼ四角柱の自然石の四面にキャ・カ・ラ・バ・アの五輪塔の五大種子の梵字をきざんでいる。
正面に、「法橋琳弁(朝)八十一入滅 元亨二年(一三ニニ)七月ニ日」と記されている。なお、「筑前国風土記拾遺」・「太宰管内志」には「琳弁」とあるが「琳朝」とも読まれる。
この碑は、おそらくの銘文の僧 琳弁(琳朝)を供養するために、造立されたものであろう。このような四面に五大種子をもつ板碑は類例がなく珍しい。
鎌倉時代末期の明星寺の状況を知る上で貴重な資料である。この碑の東北約一五〇メー トルにある明星池からは二基の滑石刻真言(県指定文化財)が発見され、現在、飯塚市歴史資料館で展示公開されている。
平成二年二月二十八日
飯塚市教育委員会
内容を自分なりに、かみくだいてみます。
・平安時代から鎌倉時代には、このあたりには明星寺(みょうじょうじ)という天台宗のお寺があった。
・この大きな寺をつくったのが聖光上人(しょうこうじょうにん)というお坊さんである。
・聖光上人が三重の塔を立てて明星寺をふたたび繁栄させた。
・その際、12件の僧坊(そうぼう:お坊さんが住むところ)を建てた。
・これらのことが「筑前国続風土記」に記録されている。
・現在は「虚空蔵堂」「薬師堂」、石段などが残っている。
・卒都婆は、ほぼ四角柱の自然石である。
・その正面には琳弁(りんべん)和尚が81際で亡くなったことが刻まれている。
・四角柱のそれぞれの面には五輪塔の五大種子の梵字が刻まれている。
・このように五輪塔の五大種子の梵字が刻まれている形式の石塔はめずらしい。
・卒都婆のたつ場所から北東へ150mいった場所にある明星池では、真言が刻まれた石が二基発見された。
・発見された石は飯塚市歴史資料館で展示されている。