福岡県行橋(ゆくはし)市のホームページを拝見していると、行橋市に三基の郡境標柱があるということを知り訪ねてみることにしました参照。
明治時代のはじめごろまで、日本は約70の「国」にわかれ、さらに「国」は「郡」にわかれていたそうです。現在の行橋市は、江戸時代には豊前国のなかの京都(みやこ)郡と仲津郡で構成されていたようです。
参照:『ふるさと子ども読本 行橋市制50周年記念』P.71
上の地図の、京都郡と仲津郡との境となる箇所に、「ここが境ですよ」と示すための郡界標柱がたてられていました。そのなかの三基が現在ものこされているということです。
三基をさがしにいってみたのですが、実際にみることができたのは、以下の写真の「京都郡の行事村」と「中津郡の大橋村」とをわける標柱石だけでした。
この標柱には「従是北京都郡」「従是南中津郡」ときざまれています。
これは行橋市役所の敷地内に設置されており、比較的、さがすのが容易だったため見つけられました。
場所:福岡県行橋市中央
座標値:33.7288265,130.9821611
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あとの二基のうち、ひとつは歴史資料館に保管されており、もうひとつは大谷という地区の池のほとりにたてられているということです。以下の座標値ふきんに目ぼしをつけてたずねてみました。
座標値:33.690173,130.952476
しかし、標柱をみつけることはできませんでした。このやぶのなかに埋もれてしまっているのか、もしくは、もう少し別の場所に設置されているのか…
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市役所に設置されている標柱は、もともとは別の場所に設置されていました。具体的な場所は不明ですが、案内板を参照し、おおざっぱに場所を推定してみます。
この郡境標柱は、もともと、中津街道沿いにあったということと、仲津郡の大橋町のなかにあったということが、記録にのこっています。
また長峡(ながお)川が京都郡と仲津郡とをわける境界線であったため、中津街道と長峡川とが交差する場所ふきんに、標柱が設置されていたと考えられます。
地図をみてみると、行橋市役所の標柱から北西へ約770mいった地点に、万年橋という、長峡(ながお)川にかかる橋があります。
そして、万年橋の南側…つまり大橋町のなかの中津街道沿いに、郡境標柱があったものと想像されます。
江戸時代、中津街道がはしっている京都郡行事村と仲津郡大橋村は交通の要衝で、街道をとおる旅人たちに向けての商売にて発展した集落*1であったようです。
行事村には飴屋からはじまった豪商もあったそうです。
場所:福岡県行橋市行事
座標値:33.733529,130.975256
現在の中津街道沿いをあるいてみると、意外に車通りがおおく、また、道も狭いために、車がとおるたびに道路わきに身をよせないといけませんでした。
行事・大橋地区を歩いてみると、現在も活気のある町の印象をうけました。街道沿いの商店は閉店しているものも多いようですが、Google mapで町の様子をひいてみても、ちかくに行橋駅もあり、むかしからの発展が現在もつづいているようにみえます。
*1:在郷(ざいごう)町と呼ばれる