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福岡県在住。各地の史跡巡りが好きで、九州北部を中心にNikon D750をメイン機として史跡を撮っています。詳しい撮影場所は各記事に座標値として載せていますので、座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで撮影場所が表示されます。参考にされてください。

鱒淵(ますぶち)ダムにしずんだ村はどんな村だったのか? 福岡県北九州市小倉南区道原

福岡県北九州市小倉南区にある鱒淵(ますぶち)ダムにしずんだ村があるといいます。鱒淵ダムは1974年に完成した紫川上流にあたるダムです参照

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場所:福岡県北九州市小倉南区道原

座標値:33.762009,130.838968

 

現在、水がはられている谷部分に、昔、25戸の家屋があったといいます。複数の集落があったのですが、ここではわかりやすく「頂吉(かぐめよし)地区」と記してみたいと思います。

 

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福岡県文化財専門委員 劉寒吉(りゅうかんきち)氏が、頂吉地区をおとずれたのは3回。その3回目の訪問ではダムよる水没予定地をみるためでした。

 

頂吉の総戸数44戸のうち、半分以上にあたる25戸が水底に没し去るというのである。これらの人たちは何百年も前の先祖からこの方住み馴れた土地を去って、どこかへ移ってゆかなければならない。頂吉村は350年前は31戸だったのが、現在でも44戸しかない。350年間に13戸しか増していないわけである。ということは、ほとんどの家は他所からの移入ではなく、この土地生えぬきの家だということなのである(参照:北九州市文化財調査報告書 第10集 頂吉【かぐめよし】 -水底の村の在りし日- 鱒渕ダム建設により水底に没した頂吉の調査報告書 1972.3 冒頭部)

 

1969年(昭和44年)に計測された地図をみると、鱒淵ダムはまだできておらず、「福智貯水池」と「頂吉水源地」という2つの貯水池が存在しています。のちに鱒淵ダムにしずむ予定地のなかに、これらふたつの貯水池が存在していました。

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今昔マップ1/25000 昭和44年測量 北九州市小倉南区頂吉ふきん

わかりやすいように、将来鱒淵ダムで水没する予定地を黄色でしめしてみます↓

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今昔マップ1/25000 昭和44年測量 北九州市小倉南区頂吉ふきん

福智貯水池と頂吉水源地は、将来、鱒淵ダムとなる地の西と東の一部分であったことがわかります。ちなみに、福智貯水池は明治期、頂吉水源地は1940年につくられています。

 

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明治期参照

福智貯水池が完成。

福智貯水池は、のちに同位置に建設される鱒淵(ますぶち)ダムのなかに沈む。

 

1940年3月

頂吉(かぐめよし)ダムが完成。

福智ダムも、のちに同位置に建設される鱒淵(ますぶち)ダムのなかに沈む。

 

1974年4月

鱒淵(ますぶち)ダムが完成。

福智ダムと頂吉ダムの2つを含んだ形で鱒淵ダムは完成した。

 

村内の頂吉地区と道原地区の奥部は紫川の上流部に位置していることから、古くから水源地帯として目をつけられていた。そのため、旧門司市によって、明治時代に「福智ダム」が、村消滅前に「頂吉ダム」がそれぞれ作られ、地区の大部分が水没した。第二次世界大戦後、小倉市・門司市の慢性的な水不足を解消するため、福岡県によってダムの再開発が行われ、新たに両者を併せた「鱒淵(ますぶち)ダム」が作られた。その結果、古い2つのダムとともにダム下の集落も水没し、今日に至る。

参照:中谷村 (福岡県) - Wikipedia

 

頂吉内の各集落

あらためて、1969年(昭和44年)に測量された地形図を、今昔マップでみてみます。鱒淵ダムに沈む予定の地は、西側に「福智」、東側に「屋敷」という名前がついています。

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「福智」と「屋敷」という地区にわかれる

さらにダム予定地の東南端…つまり頂吉(かぐめよし)水源地がある場所は、その名前通り「頂吉」という地名がついています。

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南端は「頂吉(かぐめよし)」という地名

この地形図のみの情報だと、鱒淵ダム予定地は「福智」「屋敷」「頂吉」という3つの地区で構成されていたように思えます。しかし史料『北九州市文化財調査報告書第10集 頂吉(北九州市教育委員会)』P.7-P.9を参照すると、これら3つの地区をすべて一括して「頂吉(かぐめよし)」と呼んでいたことがわかり、以下のように細かい分類が為されていたこともわかります。( )内の数字は、それぞれの集落にあった家の戸数を示しています。

 

◎頂吉

 ○下頂吉

  ・舟木(6)

  ・鱒淵(8)

  ・屋敷(11)

  ・福智(6)

 

 〇上頂吉

  ・本村(5)

  ・吉原(8)

 

 

以上、頂吉すべての集落の戸数を合計すると44戸です。前記した”頂吉村は350年前は31戸だったのが、現在でも44戸しかない。350年間に13戸しか増していないわけである”という引用部の情報と整合します。

 

これら44戸すべてのご家族が、他の場所へ移転したわけではなく、「鱒淵(8)」「屋敷(11)」「福智(6)」に住まれていたかたがたが移転対象者だったようです。つまり「鱒淵」「屋敷」「福智」集落が鱒淵ダムに沈んだ集落ということです。戸数にして25戸です。

 

「本村」の場所は不明ですが「舟木」「吉原」は現在の鱒淵ダムから外れた北側、南側に位置していることが確認でき、ダム水没予定地からははずれました。

 

頂吉集落の全体図

 

下の地図は史料『北九州市文化財調査報告書第10集 頂吉(北九州市教育委員会)』の冒頭部分に掲載されているダム水没前の頂吉地区の地図です。南北が逆になっており見にくいですが、個人宅がどのように配置されていたのか、小学校がどこにあったのか、集落の中心「通夜堂」がどこに建っていたのかなどが確認できます。

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頂吉地図 史料「頂吉」冒頭部

この地図をもとに、現在のGoogle mapでおおよその位置を以下に示します。

 

頂吉小学校

座標値:33.754993,130.844110(google map

 

通夜堂

座標値:33.761380,130.839047(google map

 

夜を通して仏事をおこなったといわれる「通夜堂」に関しては、完全に水の底となっており、現在はその痕跡をさがすことは困難だと考えられます。頂吉小学校はダム湖のふちにあたる場所です。もしかしたら何か痕跡がみつかるかもしれません。

 

ダムに沈む前の住居と生活

以下は、鱒淵ダムに沈む前に記録された、住居に関する文の要約です。史料『北九州市文化財調査報告書第10集 頂吉(北九州市教育委員会)』ではP.10-12にあたる箇所です。文がながくなるのでポイントだけつまんで記述しています。

 

住居はほとんど山裾に建てられており、つつじが植えられみごとな家が多かった。家の間取りはほとんどが四間以上だった。仏間・中の間を加えた四部屋かそれ以上の家もあった。

 

史料冒頭に掲載されている白黒写真をみてみると、家屋の半数は茅葺屋根のもののようです。もう半数は瓦葺や板張りの家屋がみられます。一部は石垣の上に家屋がたてられていたり、家屋の前に田がひろがっているものもあります。

 

航空写真をみると、山間に田園が広がり、山裾にポツンポツンと民家がたてられているのがわかります。頂吉地区には、古来から続く日本の田園風景がひろがっていたということが想像できます。しかし田畑を利用した農業だけで生計をたてていたわけではなさそうです。林業もおこなっていたと記されています。

 

頂吉地区は極めて山峡の地であり、外部との接触もきわめて少なかったと予想される。小規模の田畑耕作がみられるが、概して全地区において、木こりをはじめとする林業である。特に炭焼は企救郡二位で道原について盛んで、主職業であったので方々にその窯跡がみられる(史料『頂吉』P.117 一部改変しています)

 

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頂吉航空写真 史料『頂吉』冒頭部分

暖房はすべて「いろり」の焚火であり光源としても利用されていた。「いろり」には自在鉤(じざいかぎ)、または、五徳(ごとく)参照を使用して湯茶をわかして、家族だんらんの場、夜の仕事場、来客との語り合いの場として利用され、なごやかな場であった(一部改変してます)

 

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基本的な間取り 史料『頂吉』P.11

 

鱒淵ダムが完成したのが1974年(昭和49年)です。調査がおこなわれたのがダム完成前の1972年(昭和47年)頃。1970年ごろでも頂吉ふきんでは、いろりが使用されていたのでしょうか。電気を使用した生活が基本で、その補助として、むかしながらの囲炉裏を使用していたのかもしれません。

 

頂吉の信仰

林業がさかんだった頂吉地区ではあるものの、山の神様にかんするような信仰が強くみられるというわけではないようです。いっぽう農業に関する信仰が強く残っているかというと、そうでもないようで、中心となる信仰がみられないというのが頂吉地区の特徴だということです(参照:史料『頂吉』P.117)。

 

結論からいうと、頂吉では、すぐそばにそびえる福智山に根付く福智権現の信仰や、修験道信仰からは大きな影響はうけず、”小さな信仰”が各所で発生していたようです(参照:史料『頂吉』P.128)。

 

”小さな信仰”とは、どんな信仰かというと、厄神、権現、観音、八坂神社、十三仏、猿田彦大神などです(参照:史料『頂吉』P.117~129)。

 

中心的な信仰がみられない一方で、福智山権現を中心とする修験道の信仰圏のなかにあるため、間接的にではあるが、福智山権現の信仰要素がみられる(『頂吉』P.117 一部改変してます)

 

福智山における福智権現は、英彦山の山伏信仰の影響をうけています。しかし、その福智権現に対する信仰が、頂吉では直接的に生活にかかわってはいなかったそうです。あくまでも、頂吉の生活にかかわっていたのは単独の「山の神」であり「火の神」であり「牛の神」でした。

 

頂吉において、間接的に福智権現の信仰要素がみられる例としては「ブゼンボサマ」があげられます。英彦山から勧請(かんじょう)したもので、土地の人から「ブゼンボサマ」と親しみをこめて呼ばれていました。頂吉では英彦山で盛んだった山伏信仰が、「ブゼンボサマ」というかたちで、火の神や牛の神となっていました。

 

頂吉のすぐそばにそびえる福智山山頂にまつられている福智権現さまは、前記したように”間接的に頂吉地域の信仰要素にかかわっています。

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福智山山頂にまつられる権現の石祠

頂吉地区の中心部にあった「通夜堂」のふきんに福智権現さまがまつられていたといいます。ここに参ることで、福智山山頂の権現様に参るのと同じ信仰がえられたといわれました。毎年10月10日になると、通夜堂で神楽が奉納されました。

 

いちおうは、福智権現にかかわる行事がおこなわれていましたが、山伏信仰としての福智権現の勢力とは別に、あるいは遅れて、頂吉における諸信仰が生成・発達したのではないか、と結ばれています(参照:史料『頂吉』P.128)

 

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私が個人的に気になる「猿田彦大神」ですが、頂吉集落のなかでは、わずか2基のみまつられていたそうです。そのうち1基には「文政五年三月吉日」の銘がきざまれていました。※文政五年は西暦1822年

 

この猿田彦大神が鱒淵ダム周辺に残されていないか、探索をしてみようと思います。