『添田町の歴史的風致形成の背景(PDF)』を拝読しながら、田川郡添田(そえだ)町の史跡について調べてみました。P.27に、伊藤次郎衛門というひとが、干ばつに苦しんでいた添田地域に、私財をとうじて水路をつくったという記事が掲載されています。
場所:福岡県田川郡添田町大字添田
水路の起点は以下の座標値です。彦山川にかかる「土器橋」のちかくから水路ははじまります。
座標値:33.573608,130.853283
この水路は、伊原という地区につくられているため「伊原水路」と呼ばれています。彦山川から水を引き、約4㎞の長さになります。
伊藤次郎左衛門は、測量機器や水路建設のための知識などはない状態で、縄墨(じゅうぼく)ひとつだけで、1673年から建設をはじめました。
実際にみてみると、想像していたよりも小さな水路であることがわかりました。この水路をたどってみると以下のような風景にであうことができました。
水路は光雲寺前の座標値(33.581864,130.855989)で暗渠となります。暗渠となった水路は以下のように道にそって集落のなかをながれてゆきます。ところどころに、暗渠にあいた穴に網がはられており、暗渠の存在をしることができます。暗渠からは、たくさんの水がながれる音がきこえてきます。
暗渠のわきには、明治28年(1895年)にたてられた伊藤次郎衛門をたたえる顕彰碑がたてられています。伊藤次郎衛門は「利水翁」と呼ばれ、この石碑は利水翁の碑とされています。
場所:福岡県田川郡添田町添田
座標値:33.583134,130.856189
水路は途中で二又にわかれ、ひとつの水路は道路沿い、もうひとつの水路は住宅街の間をとおって流れてゆきます。
水路の全域は、両岸が舗装されており、水路周辺には水田がひろがる場所もあります。水路は現在でも実用的につかわれていることがわかります。
この水路ができる前までは、伊原の周辺はイバラ(伊原)が生える荒地でした。ここに住む人たちの暮らしは貧しいものだったといいます。水路が完成してからは、37ヘクタール(370000平方メートル)もの広い水田ができ、人々の暮らしを支えました。
案内板によると、伊藤次郎衛門はすべての私財をつかい、設計から数えると、10数年の歳月をかけ水路を完成させたといいます。