福岡県北九州市の八幡西区に「畑貯水池」とよばれる大きな溜池があります。貯水池といっても見た目はダムです。
戦前、八幡市にたくさんの工場がつくられはじめ、工場につとめる人々が八幡市に集中して住むようになりました。工場用水と、住民用の飲料水を確保するためにつくられたのが、この畑貯水池です(参照:『北九州歴史散歩 筑前編』P.110)
畑貯水池がつくられはじめたのが1939年(昭和14年)11月です。完成したのが16年後の1955年(昭和30年)4月です。この畑貯水池がつくられる前まで、この地区には中世…つまり鎌倉・室町時代からつづく「畑村」があったといいます。
今昔マップで畑貯水池ふきんを確認してみると、「1948~1956年」のマップでは、まだ畑村がのこっていることがわかります。
この畑村の痕跡が、現在の畑貯水池周辺では、まだ確認することができるという情報を得ていってみることにしました。
村の痕跡がみられるという場所は畑貯水池の東側にあたるところです。地形図でいうと以下の赤破線丸でかこんだ地点です。
赤破線丸の場所を撮影した写真が下の写真です。比較的水量がすくなく、池の底部分があらわとなっています。砂地に、こぶし大の岩がゴロゴロところがっていることがわかります。
この砂地をすこしだけ歩いていると、下の写真のような、立方体の石がゴロゴロところがっている場所にいきあたります。
場所:福岡県北九州市八幡西区大字畑
座標値:33.805892,130.762112
よくよくみると、これらすべてが墓石であることがわかります。こちらの墓石には「番證院釋嘉負利完屋」という文字がきざまれているようです。この文字はなんなのでしょう?
「番證院」というのは、畑村にあった寺院の名前とおもわれます。そして「釋」という文字は「しゃく」と読み、釈と同じ意味をもちます。この文字の下に法名を書くことで、”お釈迦様の弟子である”という意味をもつそうです参照。
つまり、この墓石には寺院の名前と、亡くなったかたの法名がきざまれているのですね。
↓こちらの墓石には「大正三年三月廾二日 享年五拾三歳」ときざまれています。大正三年は西暦1914年です。この年に53歳で亡くなったということは、生まれたのは1861年。日本の元号でいえば文久元年…江戸時代の幕末期にあたります。
この畑村跡にのこる墓石は、そのほとんどが江戸時代や明治時代にいきたかたがたのお墓だと考えられます。
畑貯水池ができあがる昭和30年までに、畑村の約100戸の家や学校はふきんの地区へ移転されたそうです。畑貯水池ふきんには、墓地跡のほか、道路や棚田の痕跡が渇水期にはみられるということです。