前回の記事では、北九州市若松区の石峰山に残る「電波標定機基礎」のことについてご紹介しました。今回の記事では、電波標定機基礎がある地点から南南東へ約400mいった場所にのこる「七糎(センチ)高射砲陣地跡」についてご紹介します。
おおよその位置を、下の地形図で示します。「七糎高射砲陣地跡」は地点②です。
地点①から地点②へいくには、下のような砂利道を南下します。この道はむかしの軍用道路です。この道を利用して石峰山各所にある軍の拠点に物資をはこんでいたと考えられます。
下の写真は地点(33.901517,130.767093)です。
三叉路となっています。「七糎高射砲陣地跡」にいくには「藤ノ木方面」へ歩をすすめます。
上の三叉路看板から約100mすすむと↓下のような標高280mの広場へと着きます。この広場が「七糎高射砲陣地跡」です。
場所:福岡県北九州市若松区大字藤木
座標値:33.900849,130.766450
広場をみわたしてみると地面にコンクリート製の建造物が、いくつかうまっているのが確認できます。
どのような遺跡の配置となっているのか、『北九州歴史散歩 筑前編』P.23を参照してみます。実際に広場をみてみると、下の図のようにはっきりと遺跡がのこってはいませんでした。みたところ、おそらく…
・「第1砲座」の「砲側庫」
・「第4砲座」の「砲側庫」
…のみが確認できるのではないかと思われます。
↓こちらが「第1砲座」の「砲側庫」だとおもいます。
この砲側庫のすぐ前に七糎高射砲が設置されていたとおもわれるので、↓このおおきなくぼみが高射砲設置跡とおもわれます。
そして↓こちらが「第4砲座」の「砲側庫」ではないかと思われます。
砲側庫はほとんど土にうまり、屋根部分のみがみえています。
この砲側庫に高射砲の弾薬を保管し、必要なときにトンネル部分から取りだしていたと考えられます。だからトンネルの口がひらいている方向に高射砲が設置されていた…と考えるのが自然です。
これら史跡のまわりをよくよくみてみると、たくさんのタイヤ痕がみられます。いまでは地面の凹凸を利用して、モトクロス用の練習場となっているようです。
太平洋戦争中は、この場所から空の爆撃機にむかって砲弾がうたれていたのでしょう。地元のかたの話によると、こんなに高い場所に設置された高射砲でも、はるか上空を飛ぶ爆撃機には弾はあたらなかったそうです。
また、石峰山にこのような高射砲があることをアメリカ軍はしっていたようで、石峰山ちかくには爆撃機は飛んできませんでした。かわりに八幡製鉄所などがあった八幡東区地域に集中して飛んできていたそうです。
上の写真は七糎高射砲陣地跡からながめる皿倉山と八幡東区、そして洞海湾です。爆撃機はこちらのほうまで飛んでこなかったということは、当時の日本軍は、この場所から八幡の街が無惨に爆撃される様子をくやしいおもいでながめていたのかもしれません。