日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

田代(たしろ)の国境石? 福岡県北九州市八幡東区田代町

江戸時代、「豊前国」と「筑前国」の境に、小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数ありました。2021年現在では13基が残っているそうです。

 

13基の国境石のうち、国境紛争の多発地帯であった田代(たしろ)地区…福岡県北九州市八幡東区…に残されている国境石は3基あるといわれます(参照:案内板)。いずれも自然石型の国境石です。3基の国境石がある場所は以下の通りです。

 

①荒谷口の林道沿の竹林の中

②荒谷越西の尾根

③河内病院裏の畑の中


今回、以下に写真としてご紹介しているのは、国境石かどうか不明の石碑です。石碑のすぐとなりに「国境石の案内板」がたてられているので、これは国境石だろうと思って写真を撮ったのですが…

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場所:福岡県北九州市八幡東区田代町

座標値:33.806303,130.797215

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西側の面

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南側の面

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東側の面

上の写真の石碑は田代地区で、別の史跡を探しにいったときに、たまたまみつけることができました。別の史跡とは、このあたり一帯が田代地区の照空陣地であったことを示す「下関要塞地帯要石」のことです(参照:『北九州歴史散歩 筑前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.68)。この史跡はまた別の機会でご紹介したいと思います。

 

田代地区にある3つの国境石に刻まれる銘文はいずれも「従是西(これよりにし)筑前国」となっているそうです。公民館横の石碑をみても、文字は確認できませんでした。


病院裏の境ヶ谷境石は自然石の中では最大のもので、銘文が彫られている面は、正確に西を向いているとのことです(参照:案内板)。国境石の銘文の筆者は、いずれも福岡藩の祐筆(ゆうひつ)、二川相近(ふたかわすけちか)といわれています。

 

①荒谷口の林道沿の竹林の中

②荒谷越西の尾根

③河内病院裏の畑の中

 

これら3つの国境石のうち、①と②の国境石をさがしてみたのですが、河内病院の敷地内にはいらなければならず、しかも、場所もわかりにくかったために、見つけられずじまいです。

米軍駐屯地『キャンプ城野』跡 福岡県北九州市小倉北区片野新町・東城野町

福岡県北九州市の小倉北区の南側に、城野(じょうの)という地区があります。JR日田彦山線の「城野駅」の北東部に、新興住宅街がつくられています。2021年現在では、もうほとんどの土地に新しい住宅が建てられ、美しい街となっています。

 

この場所はむかし、日本陸軍・米軍・自衛隊の駐屯地でした。戦前から戦中にかけて、陸軍の兵器庫(補給処)として利用されていました。その当時の面影は、もうほとんど残っていませんが、かろうじて住宅地をかこっている道路が、駐屯地外壁部分であったことを示すものとして残っています。

 

主に参考にした書籍:九州の戦争遺跡(江浜明徳著)P.52-54

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駐屯地外壁東側だった箇所 現在は道路となっている

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駐屯地外壁西側だった箇所 こちらも道路となっている

第二次世界大戦が終戦した直後の1945年10月には、米軍が小倉に進駐し、この場所は、「キャンプ城野」として接収(せっしゅう)されました。城野(じょうの)というのはここの地名です。キャンプの正門は、現在の城野駅前にあり、城野駅から引き込み線があったといいます。

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キャンプの正門があったと思われる城野駅前

今昔マップで確認してみます参照。アメリカ軍は日本軍が使用していた建物と引き込み線をそのまま利用しました。

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引き込み線が確認できる

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引き込み線の終着地ふきん 現在は住宅地となっている

 

朝鮮戦争勃発後から重要性を増した「キャンプ城野」


「キャンプ ジョウノ」と呼ばれた米軍基地が重要性を増したのは、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発してからです。キャンプ城野から多数の米軍兵士が戦場に送られました。また戦死した米軍兵士の遺体は門司経由で城野の基地に搬送され、検死や遺体処理が行なわれていました。


黒地の絵 傑作短編集2(松本清張著)』P.127-137において、詳細にその様子が描写されています。以下は、『黒地の絵』で描かれているキャンプ城野の様子をかいつまんで記していきます。

 

検死と遺体修復がおこなわれたキャンプ城野


門司につけられた潜水艦から朝鮮戦争で亡くなった、たくさんの遺体が陸揚げされました。遺体は冷凍されており、軍用トラックへと外被に巻かれたまま積み重ねられました。その後、トラックは深夜に城野のキャンプに運ばれました。


遺体の処理は、はじめの時期は火葬場従業員があたっていましたが、遺体の数があまりにも多いために、火葬場従業員は撤退しました。代わりに、遺体処理を専門におこなう人たちが一般から雇われました。当時の金額で遺体1体あたり600円~800円の報酬が支払われたといいます。


600円~800円は現在でいうと約11万円から15万円の報酬だったと考えられます。昭和20年頃のお金の価値はだいぶ不安定だったらしいため参照、あくまでもめやすです*1

この金額が日当ではなく遺体1体あたりであることにおどろきます。それほど過酷な仕事であったということが想像されます。その証拠に、高額な報酬であったにもかかわらず、現場があまりにも悲惨であったため、辞める人も多かったといいます。


遺体処理はキャンプ城野の広い敷地にある一部の建物でおこなわれました。建物の役割は3つに分かれており、1つが遺体身元を確認する場所、1つが遺体をきれいにする場所、そしてもうひとつが処置した遺体を保管する場所でした。

 

遺体の確認

1番目の建物に運ばれた遺体は、まず認識票でだれの遺体であるかを分類されました。認識票すらなくなった遺体に関しては、軍医や歯科医により歯形で身元確認を行なったといいます。身につけていた衣類はとりのぞかれ、10㎞はなれた山中で焼かれました。

 

遺体の修復と防腐処理

身元の確認がおこなわれた遺体は、2番目の建物へ運ばれました。戦死したかたの遺体は、損傷がはげしく、そのまま米国にはこばれても遺族にあうことができません。そのため損傷した箇所をできるだけ「見ることができる状態」にきれいに整える必要がありました。損傷した箇所は縫いあわされ、腐食防止のために臓器はとりのぞかれました。

 

臓器をとりのぞいたあとは身体のなかに防腐剤の粉が詰められました。さらに昇汞水*2とホルマリン溶液が動脈に注入され洗浄・防腐処理がおこなわれました。遺体の修復と防腐処理などの緻密な仕事は60人ほどの軍の人によっておこなわれたそうです。

 

◇◇◇◇◇

このようにして修復され、アメリカに搬送された遺体の数は6万人におよぶとされます。作業が行われた兵舎は、自衛隊駐屯地だったときは残っていたそうですが、今は何も残っていません。

 

1950年(昭和25年)の米兵集団脱走事件

キャンプ城野では1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争と同じ年の、8月11日に、社会問題となった「黒人兵集団脱走事件」がおきました。戦争で劣勢においこまれている状態の朝鮮半島に送られるため、小倉では自暴自棄になり犯罪をおこなう米兵もいたといいます。


そのような矢先、壊滅した第24歩兵師団の補充として岐阜の米軍基地から黒人を中心とする兵士約160名が送られてきました。1950年8月11日、約200人の米兵が武器を携帯したままキャンプ城野を脱走しました。そして付近の市街地で暴行、窃盗を繰り返しました参照

 

鎮圧部隊が出動して、市街戦まで発生したものの、全員が拘束されるまで1か月ほどかかったといいます。犯罪は、報告されたものだけで70数件ありましたが、小倉市警察が検挙したのは殺人の1件のみでした。特に暴行については、暴行をうけた身内によっても隠されているケースが多数あり詳細が不明です。

 

この事件は米軍によって箝口令(かんこうれい;他人に話すことを禁ずる命令)が敷かれていましたが、口コミや、松本清張著の短編『黒地の絵』で広く知られることになりました。

 

◇◇◇◇◇

今回は城野にあるキャンプ城野跡地についてしらべていましたが、わたしの知らない歴史がまだまだあります。

*1:100円が約19200円とすると、115200円~153600円として換算参照

*2:しょうこうすい;塩化水銀(Ⅱ)溶液と食塩とを等量に混ぜ、水で約千倍に薄めた溶液。以前は法定消毒薬の一つ

北九州を中心に恵比須講について調べる

恵比須講の概要

Wikipediaでは「えびす講(えびすこう)」は、秋の季語とも説明されており、おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼とされています。

 

十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともある参照

 

恵比須講は蛭子講とも書きます(参照:『北九州市史(民俗)』P.366-367)。ほかにも「えびす」という字は、「夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須」というように、たくさんの種類があるようです。恵比須講は、庚申講とおなじように、ほとんどの地区で行なわれていました。


恵比須講を開く目的は?

恵比須さまは、神無月(旧暦10月*1)に出雲へおもむかないため「留守神」とされました。恵比須さまのほかに、かまど神も出雲へといかないため、かまど神も同じように祀り、1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願しました参照。恵比須講は、漁師や商人が集団で祭祀をおこなう信仰結社的な意味合いもありますが、各家庭内での祭祀の意味も持ちます。地域によっては1月のえびす講を商人えびす、10月のを百姓えびすと呼ぶこともあります参照

 

東日本では家庭内で恵比須さまをお祀りする風習が強いそうです。また商業、漁業の神だけではなく、農業神として崇める傾向が西日本よりも顕著なのだそうです。ただもちろん、西日本である九州でも、恵比須さまを農業神として祀っていると思われるケースもみられます。

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老松神社にまつられる恵比須像(福岡県朝倉市下渕840)

 

恵比須講を開く時期は?

地方や社寺によっては、旧暦の10月20日であったり、秋と春(1月20日)の2回開催したり、十日えびすとして1月10日や1月15日とその前後などに行うこともあります。えびす祭やえべっさんとも言われます。えびすを主祭神とするえびす神社のみならず、摂末社として祀っている社寺でもおこなわれます参照

 

『北九州市史(民俗)』P.782-783の、えびす祭りの説明では、毎年12月2日、12月3日、12月4日に各地のえびす社や、えびす講の座元の家でえびす座が行われたと紹介されています。座は一地区に何組か作られ、参加者は早暁から座に着いたそうです。

 

小倉城下町では、明治になってから一日から五日までえびす市が開かれました(参照:『北九州市史(民俗)』P.783)。これはおそらく小倉の十日えびすのことを説明していると考えらえます。旦過市場のホームページでは、1906年(明治39年)から魚町、京町で十日えびすがはじまったと記されています参照。小倉十日えびすは、現在の瑜伽神社(福岡県北九州市小倉北区船場町6)である、恵比須神社の市からはじまったもので、くじ引きが大きな魅力でした(参照:『北九州市史(民俗)』P.783)。


これより下の文章は、北九州市各地域での恵比須講についての伝承です。『北九州市史(民俗)』の説明を抜粋し、地域ごとにまとめました。一部、文章を読みやすいように変えていますのでご了承ください。またわたしにとって難しく知らない言葉がでてきたら、調べて、加筆しています。もしかしたら、わたしの見落としかもしれませんが、不思議と門司区の恵比須講についての記述はみあたりませんでした。

 

北九州市各地域での恵比須講

北九州市若松区の恵比須講

若松恵比須神社のえびす祭り(『北九州市史(民俗)』P.625-626)

北九州市若松区では恵比須講というよりも「えびす祭り」または「おえべっさん」として名が知られています。えびす祭りは若松区浜町一丁目の恵比須神社でおこなわれます。「おえべっさん」と呼ばれて北九州市民から親しまれ、四月二日から四日までの三日間(秋は十二月二日から四日まで)に開催されます。

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若松恵比須神社(福岡県北九州市若松区浜町1丁目2−37)

えびす祭りの日は、市内や近郷から、多くの人が若松恵比須神社に参ります。若松恵比須神社の大祭は春と秋に開催されます。このうち秋祭りが本祭りです。若松のえびす祭りは、中国、九州では最大のえびす祭りで、二日早暁から御座があり、一番座には多くのかたが祭りに足をはこびます。

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初日の二日は、午前七時ごろから御座があり、午前十時ごろから呼びものの御神幸が、七福神を先頭に行われます。二日目は、午前五時ごろから一番座があります。この座には、商売繁盛を願う人々が参加します。三日目の四日は、摂社の古宮祭が行われる。この摂社は高塔山公園内にあります。現在のような御神幸がはじまったのは、社伝によると1626年(元和十年)からで、2021年時点では395年の伝統があることになります。


恵比須神社の起こりについて以下のような伝承があります。仲哀天皇の船が洞ノ海(くきのうみ)に入ろうとして止まって動かなくなったので、 武内宿禰(たけのうちのすくね)が老漁師に船底にもぐって調べさせたところ、海底に光る石を見つけました。天皇は、その石を御神体としてまつるように言われ、土地の人々が恵比須大神としてまつったのが、恵比須神社の始まりと伝えられています。


恵比須神社は、漁の神、海運の神、商売繁盛の福の神として崇められ、今日でも北九州市民はもちろん、筑豊、豊前、福岡、下関方面から参拝客が訪れます。

 


以下の説明は、2021年現在でもおこなわれている風習であるかわかりませんが『北九州市史(民俗)』P.783から抜粋します。

若松えびす祭りは、江戸初期からの御座の形式を残している。今も古式による料理の儀が行われている。かつて、武士、町人、百姓の別なく、至って民主的に同席して直会の座に着いた。打ち込みも、若松えびす打ち込みといわれる勇壮なものである。えびす祭りの日、社殿の梁から、二〇本ぐらいの縄をぶらさげ、子供たちが一本ずつつかまり、「ねこ、ねこ、まいた、さんたろうまいた」とはやしたてながらぐるぐる回る遊びをした。「ねこねこまいた」といった(西戸畑)。

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惠比須神社(福岡県北九州市若松区本町1丁目4)

小竹(おだけ;北九州市若松区)恵比須神社の大祭(参照:『北九州市史(民俗)』P.628)

小竹の恵比須神社では、戸別祓いをする夏祭りは7月12日に行なわれました。大祭は12月2日、12月3日に行なわれました。大祭では神社での祭典のあと、5組(以前は3組)に分かれ、それぞれの座元で恵比須座をもうけ直会(なおらい)をしました。


直会とは、神事の最後に、神饌としてお供えしたものをおろし、参加者でいただくという行事です。また、下げられた供物も直会とよびます参照

 

この座の献立は、ブリの刺し身・ヒジキの白和え・ブリの煮付け、汁物、それに塗り椀に飯を大盛りにした強飯(こわめし)です。この中にひとつだけ福膳があります。福膳とは、ヒジキの白和えの中に、小さなビイナ(蜷(にな))の殻を入れた膳のことです。これに当たると「こだから」(ササに紙製の小判、タイ、打ち出の小槌、恵比須面などをつけたもの)が贈られました。対して福膳を得たものは、酒一升を買わなければなりません。


各組の恵比須座は、5世帯1組が当番となり、料理から案内までのすべての準備に当たります。この当番への受け渡しの儀式として、おおむね大杯3杯ずつ酒を飲み、3回の手打ちをします。


小竹恵比須神社の十日戎(裸祭)(『北九州市史(民俗)』P.625)

若松区小竹の恵比須神社では、一月十日に十日戎(えびす)があります。これはいわゆる裸祭で、青年たちの禊(みそぎ)が主たる神事です。正月十日の日没から浦の漁師や若者が 褌 一つの裸になって、村の氏神である「おえべつさん」(恵比須神社)に集まり、焚き火をして体を温めながら冷酒をいただきます。

 

夜がふけると(昔は午前一時、近年は午後七時ごろ)お祓いを受け松明に火をともし、これをげて海岸へ走る。松明の火を消さぬように海海中へ入り、禊を行い、汐井をとり、力石を拾い、その石を抱きながら裏山の恵比須神社まで石段を一息に駆け上り、石を神社に納めます。

 

次いで二キロメートル離れた小竹の白山神社に汐井を献じて豊漁と航海の安全を祈ります。海中の石で一番大きく重いのを拾った若者が、村一番の良い男ということです。

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白山神社の元宮へとつづく参道(福岡県北九州市若松区小竹)

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白山神社の元宮(福岡県北九州市若松区大字小竹)

 

北九州市八幡西区の恵比須講


穴生(あのう;北九州市八幡西区)の蛭子座

穴生の蛭子座は12月2日の夜に行なわれています。当元*2の家には蛭子神社の幟(のぼり)とササダケを立て注連縄(しめなわ)を張りました。幟は藩政時代からのものでした。

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恵比須講の供え物と料理膳 北九州市史(民俗)P.366

床の間には蛭子尊像の掛け軸を掛けました。料理の献立は決められており、近年は刺し身・果物が加わるようになりました。次回の当元は、一番若い者の引いたくじで決められました。祭りの諸具引継ぎと供物の配分が終わると散会しました。

 

下香月(北九州市八幡西区香月)の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.684-685)

下香月の恵比須座は12月3日に行われ、朝恵比須、昼恵比須、晩恵比須と、分けて行っていました。恵比須座には一戸から一人が出て当元を担当しました。

 

下香月でも恵比須座の当元はくじで決めました。当番になった家の門には、ササダケを二本立てて注連をはります。朝恵比須(午前五時)・昼恵比須(正午)・夜恵比須(午後五時)と開かれます。恵比須座が済むと、翌年の当番の家へ恵比須様の掛け軸を届け、受け渡しの酒宴をします。


市瀬(北九州市八幡西区)の蛭子座

市瀬では12月3日の夜に蛭子座を行ないました。準備は当番の3戸がしました。宴会の途中に謡三番(うたさんばん)を披露する慣例がありました。1912年~1926年の大正期ごろまでは玄米を持ち寄り、一俵になると処分して講座の基金にしていました。


木屋瀬(こやのせ;北九州市八幡西区)の恵比須講(『北九州市史(民俗)』P.636-638))

木屋瀬の須賀神社の「恵比須講」は、12月3日に行われます。各戸の戸主が集まる恵比須の御座と、11歳の男の子を頭(かしら)と祝う子供えびすの二つの祭りが行われます。

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須賀神社(福岡県北九州市八幡西区木屋瀬3丁目19−1)

1.木屋瀬の子どもえびす(『北九州市史(民俗)』P.636-637)

その中の子供えびすの祭りは、男の子が11歳になると頭と呼ばれ、頭の親たちが総出で恵比須様をまつり、御座を開き、頭(かしら)は羽織袴でお客となり、お祝いを受けます。子供えびすの笹山笠は、頭の親たちによって本町四丁に一本、新町四丁に一本立てます。山笠の幕や頭が持つ弓張り提燈は、本町四丁が上紅で、新町四丁が下紅とはっきり区分されています。幟や旗にも紅白の区分がありますが、紅は太陽を、白は月を表すと伝えられています。黒田の陣太鼓をそのまま取り入れたといわれる山笠太鼓の音に奮い立ち、風に凍てつく町中を、山笠を元気に引き回す勇ましい行事です。午後三時前後、御遷宮が行われ、子供たちが御神幸の道具や幟や旗を持ち長い行列をつくります。頭は白の法被を着け金の御幣、獅子頭、五十鈴、弓矢、御神刀などの道具を持ち行列の先導に当たります。加勢人の中の大きい子は烏帽子に白丁姿となり、神輿を担ぐ。笛や太鼓須に合わせて、「泊まれ泊まれ旅の客足も手も 冷たかろうセートンテントン」とか、「雪まるかしかんしょうぶ(勧請仏)足も 手も 冷たかろう」、または「豆腐こんにゃく山芋生で食えばがあじがじ焼いて食えばほうやほやセー」などと歌いながら町内を巡幸します。次の日、朝から二本の山笠の、ドンドドンドの太鼓の音と、ワッショワッショの掛け声が町内中を駆け回り、夜とともに子供えびすは終わりとなります。


2.木屋瀬の戸主の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.637-638


2-1.祭り前夜

木屋瀬の戸恵比須講の戸主の御座は、町内ごとに行われます。5戸または6戸で順番に当元を務め、一主の恵比須座は10年に1度ぐらいの頻度で回ってきます。当元の中から座元*3を決め、座元の家の門にはササを立て注連縄を張り、御手水や御手拭を備え、御座を開く部屋の正面に恵比須様をまつります。祭りの前夜、当元は紋付き羽織袴に提燈を提げて、翌日の御座の案内に回ります。案内には、必ず戸主が出て受けます。


2-2.祭り当日の準備

祭りの朝(12月3日)、当元が打つ一番太鼓でお客は参拝の支度をし、お宮に参ってから座元の家に行きます。このころ、町内ごとの御座の太鼓が遠近に鳴りわたります。夜の明けないうちに、二番太鼓で御座が開かれます。御神前の御供や膳部(ぜんぶ)*4の献立の検査が行われ、古老二、三人の立ち会いで、古くから伝えられている献立送り帳と照合されます。まんがいち不出来の場合は、何やかやと御座の進行にてまどるということです。

 

2-3.祭りのなかの儀式

お神酒が一巡して、一番手を入れ、御神号、鏡餅、お神酒、末広などの抽籤(ちゅうせん)が終わり、二番手を入れ、燗酒(かんざけ)が出され酒宴となります。このときには女性の出入りも自由となります。三番手を入れると同時に、御座も酒宴も終了します。


2-4.次の人へ役目を交代するための儀式

そのあと当渡し(とうわたし)*5となります。御供と膳は 活鮒(いかしぶな)・掛けダイ・鏡餅・お神酒・サザエ・一献付魚・凍りダイコン・柚なます・アズキ飯・汁物などです。活鮒とは、器に生きたフナを入れて神前に供え、祭りが終わったら川に放つものです。

 

魚を神前に供えるときは海腹川背(うみはらかわせ)といって海の魚は腹を神の方へ向け、川の魚は背を神の方へ向けます。海と川の魚を左右に配するときは、頭と頭がつき合うようにします。(木屋瀬では、海腹川背の神事を非常に縁起の良いこととし産腹交わせと受け取って、南枕でお産を済ませ、産後は東枕にする習わしです)。

 

凍りダイコンは、5㎝ぐらいの厚さに輪切りしたダイコンを、葉を長いまま底に敷いた鍋に入れて7~8時間煮て、一夜置きこごらせたものです。

 


黒崎(北九州市八幡西区黒崎)の姪子講(『北九州市史(民俗)』P.684)

八幡西区黒崎にも、男子有志の組織として蛭子講があります。毎年12月3日開催され、座元は当番制です。

 

北九州市戸畑区の恵比須講


天籟寺(北九州市戸畑区)の恵比須座(『北九州市史(民俗)』P.685-687)

戸畑区の天籟寺にも、数種の講があり、蛭子社のご神体を自分の家に置くと裕福になるという伝えがありました。恵比須座は、12月2日か、12月3日の午後から夜にかけて各組で行ないます。蛭子・大黒を引き継いだ当元の家に集まって儀礼と飲食を行ないました。

 

当元は、2軒か3軒で受け持ち、ご馳走の準備をし、うち1軒が座元となります。座元の床の間に恵比須・大黒の2神を飾り、それぞれ膳を供えます。神職が座回りをして祝詞をあげ、酒宴をともにします。年中にいろいろな寄り合いがありますが、恵比須座が最も豪華で、高脚膳の膳だて、7品ほどのご馳走が出ます。必ず出る物は、アズキ飯・タイのいっこんづけ・厚切りの生ダイコン・ロに藁をさして八の字に広げた「からかけイワシ」2匹をのせた煮込みです。特にアズキ飯は親碗に盛り上げてよそいます。盛りが良いと穂だれがよい、盛りが悪いと穂だれが悪いといって不服が出ました。この座では、酒の飲めない人にはぜんざいを用意するなど、行き届いた会食をします。


1897年(明治30年)ごろ、蛭子様のご神体が盗まれ村中大騒動したことがありました。

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戸畑恵美須神社(福岡県北九州市戸畑区北鳥旗町9-6)

 

北九州市小倉南区・八幡東区の恵比須講


田代(北九州市小倉南区田代、北九州市八幡東区田代)の山の神・恵比須祭り(『北九州市史(民俗)』P.630、684)

田代の恵比須祭りにおいて、2組では前年にくじで決まった座元の家で12月2日に行われます。座元は座当(ざあたり)ともいい、この日の準備をすべて行ないます。床の間に恵比須様の掛け軸を掛けます。酒一升・白の鏡餅・菓子・みかん・リンゴ・コブ・人参・カブ・タイ(一掛(二枚))が供えられます。この供物は終宴のあとに福引によって分けられます。一番はタイと上段の鏡餅、二番は下段の鏡餅、三番以下は他の供物をもらいます。料理については庚申祭と同じです。1組は2組とやや異なり、くじ引きで2人(2戸)を決め、座元の家と料理の受け持ちとに分けます。


大山祇神社(北九州市八幡東区枝光)のえびす講

大山祇神社のえびす講では、くじ引きをして北九州市若松区にまつられる恵比須さまに、お参りをする者を決めました。家庭では、この日のために甘酒を作る所が多かったそうです。

 

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北九州市史を参照すると、北九州市域の各恵比須講は、主に12月の上旬におこなわれているようです。いちばんはじめに記したWikipediaの説明「おもに10月20日ないし11月20日に催される祭礼とされています」とは時期が異なるように思えました。

 

しかし恵比須さまが神無月…つまり旧暦10月…つまり新暦の10月下旬から12月上旬ごろ…に出雲へおもむかないため、この時期に1年の無事を感謝し、五穀豊穣、大漁、あるいは商売繁盛を祈願したという伝承と整合します。12月上旬は神無月にふくまれるのですね。

*1:新暦では10月下旬から12月上旬ごろに当たる参照

*2:当元(とうもと)とは、神社の祭りや同族神、講などの神事や行事の世話人またはその家のことで、当屋、頭屋とも書く。オトウ、オトウヤともいいます参照

*3:責任者のこと参照

*4:膳にのせて出す料理参照

*5:当年と新年の御当が役目を交代する儀式参照

【グリーンパーク】ローズガーデン 福岡県北九州市若松区竹並

2021年12月12日(日)に福岡県北九州市の響灘グリーンパークを訪れました。その際、グリーパーク内の「ローズガーデン」にもたちよりました。グリーンパークのローズガーデンは、320種2500株のバラが育てられている福岡県最大級のバラ園なのだそうです参照

 

場所:福岡県北九州市若松区竹並1006


12月の寒い時期、バラは見ることはできないだろうとあきらめていました。春と秋がバラのシーズンなのですが、2021年12月12日(日)にローズガーデンを訪れたときにもたくさんのバラが花開いていました。来園したこの日は風の強い日で、すぐにバラの花は風にゆられてしまいます。花を手で触るわけにはいかないので、カメラのシャッター速度を上げ、風が弱くなった瞬間を撮ります。


カメラのレンズをバラの花びらに近づけて、しっかりと花びらの形の美しさを撮ってみました。

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ウーメロ

花びらの色のグラデーションが美しいです。写真を撮るが楽しく夢中になりました。バラを撮ってみると、あらためて花の写真を撮ることの楽しさが感じられました。

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アンダルシアン

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スーブニール ドゥ アンネフランク

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ヘリテージ

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万華

【グリーンパーク】熱帯生態園の動植物たち 福岡県北九州市若松区竹並

2022年に30周年となるグリーンパーク


2021年12月12日の日曜日、北九州市のグリーンパークにいってきました。


場所:福岡県北九州市若松区竹並1006

グリーンパーク北ゲート駐車場:Google map


2022年にグリーンパークは30周年となります。グリーンパーク敷地内の花壇では、「30周年」のかたちになるよう花が植えられており、来年にむけての準備がすすんでいるようでした。

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グリーンパークの入園料は2021年12月時点で、一般が150円、小・中学生が70円です。
安価なので気軽に行ける場所です。


1991年(平成3年)の9月~11月に開催された「グリーンルネッサンス北九州'91」の会場跡地を利用して1992年(平成4年)に開園したのがグリーンパークです参照。「グリーンルネッサンス北九州'91」へは母親につれられていった思い出が淡くのこっています。暑い時期に汗をかきながら会場をあるきまわったことを思い出します。


いまは無き思い出の「ひびきタワー」


その当時、「ひびきタワー」という高さ110mのタワーがグリーンパークの象徴でした。漫画ドラゴンボールにでてくる「カリン塔」のようなかたちで印象的な建物でした。110mも高さがあるので、2㎞以上はなれた場所からでも、ひびきタワーは確認できていました。わたしは就職などのためにいちど九州から離れました。6年ぶりに九州へもどって「ひびきタワー」をみたとき「なつかしいな」という気持ちをいだいたのを覚えています。しかしその後いつのまにか、ひびきタワーはなくなっていました。調べてみると2009年にひびきタワーの営業は中止され、解体されたようです。

 

2009年3月15日付の読売新聞によると、営業廃止の理由として利用者数の低迷に伴って年間700万円程度の赤字が発生していたこと、施設が老朽化して改修費用に2億5000万円を要する見込みであることなどが挙げられている。最後の1週間は「さよならキャンペーン」として搭乗が無料になり、最終日の31日は15時からお別れセレモニーが行われた参照

 

お気に入りの熱帯生態園

グリーンパークをおとずれたとき、楽しみにしているのが「熱帯生態園」です。子ども、わたしともどもお気に入りの場所です。入園料は2021年12月時点で、一般が350円、小・中学生が200円で、グリーンパーク自体の入場料とは料金が別途なのですが、必ず立ち寄る施設です。

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熱帯生態園の外観

 

 

このガラスばりの巨大な建物のなかにカピバラ(水辺にすむ巨大なネズミ)、グリーンイグアナ、ピラニア(肉食の淡水魚)、オニオオハシ(キツツキのなかま)、オオゴマダラ(日本最大のチョウ)などが飼育されているほか、熱帯特有の植物が繁茂しています。ふだん見られない珍しい動植物たちです。

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オニオオハシ

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フトアゴヒゲトカゲ

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ピラニア

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エボシカメレオン

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カピバラ

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カピバラ

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わたしは写真を撮るのに1時間くらいは軽く滞在できそうですが、子どもは、ささっと見て回るのですぐに見学終了となります。そのため熱帯生態園をでるときはいつも名残おしい気持ちになります。


熱帯生態園では、オオゴマダラがあちこちで飛んでいて、生態園を特徴づける昆虫です。

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花の蜜を吸おうと飛んでくるオオゴマダラ

このオオゴマダラ、自己防衛のために身体にアルカロイドという毒をふくんでいます。この毒は、オオゴマダラの餌となるホウライカガミやホライイケマの葉から摂取するようです。オオゴマダラのはっきりとした白黒の模様は、「毒をもっているんだぞ!」と周囲に知らせる警戒色です。そのはっきりとした警戒色に、やっぱり惹きつけられてしまいます。

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戦争に関する歴史を小倉地区を中心にまとめる 福岡県北九州市小倉

これまで訪ねた戦争に関する遺跡が、いつの時代のものなのか気になりました。そこで小倉や八幡、福津など、訪ねてきた戦争に関する史跡がどの時代に関連するものなのか、小倉地区を中心にまとめてみました。

 

主に、参考にさせていただいた史料は『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』です。この史料はPDFです。これまで訪ねてきた小倉の戦争遺跡の写真をおりまぜながら、以下記していきます。

 

参照:https://www.pref.fukuoka.lg.jp/uploaded/life/574453_60719924_misc.pdf

 

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福岡県にある小倉は細川忠興(ただおき)が建設した城下町から発展しました(参照:北九州市史(民俗)P.256)。

 

1875年(明治8年)、小倉では歩兵第十四連隊が創設されました。歩兵第十四連隊は、秋月の乱や西南戦争に出動しました。歩兵第十四連隊は小倉のほか、福岡にも断続的に一個大隊を駐屯させていました。

 

同年の1875年、小倉城内三の丸に小倉営所病院が開設されました。1886年(明治19年)には、福岡にも歩兵第二十四連隊が設置されました。この時期、歩兵第十四連隊と歩兵第二十四連隊によって構成される歩兵第十二旅団も小倉に編成されました。

 

歩兵第十二旅団は第六師団に属して日清戦争に出動しました。日清戦争は1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国の間で行われた戦争です参照

 

日清戦争は日本が勝利しましたが、日本は三国干渉などで関係が悪化したロシアとの戦争に備えて軍備拡張を進めるようになりました。その影響で、福岡県内には小倉に歩兵第四十七連隊、久留米に歩兵第四十八連隊が編成されました(参照:『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』P.10)

 

歩兵第四十七連隊の集会所が、陸上自衛隊小倉駐屯地敷地内に現存しています(参照:『北九州歴史散歩 豊前編』P.120)

 

1888年(明治21年)小倉営所病院の名前が「小倉衛戍(えいじゅ)病院」に改称されました。海軍が1889年(明治22年)、石炭供給のため糟屋郡に新原採炭所(しんばるさいたんしょ)を開坑しました。1900年(明治33年)に、新原採炭所は海軍採炭所と改称されました。この炭坑に関する資料は、現在、新原公園にあつめられているようです。新原公園は海軍炭鉱の資料が現存する唯一の場所となっています参照 

 

1891年(明治24年)4月、小倉の室町に文明開化の象徴ともいうべき九州鉄道小倉停車場が開業しました。停車場はのちに弥生会館という施設になっています。弥生会館は国鉄共済組合が開設している国鉄職員対象の保養宿泊施設です。全国に9カ所開設され、小倉にはそのうちのひとつが開設されていたこととなります。小倉の弥生会館は1997年に解体されました。跡地は2004年にヤマダ電機テックランド小倉本店となっています参照。九州鉄道小倉停車場は室町の(Google map:33.887731,130.875788)地点ふきんにあったようです。明治時代は、鉄道の停車場は現在のように西小倉駅ではなく小倉駅として営業されていました。

 

1897年(明治30年)、福岡県にはさらにまた新しい師団が設置されることになり、小倉に第十二師団が設置されました。そして1898年(明治31年)11月、小倉に陸軍第十二師団司令部が開庁されました。同1898年(明治31年)、第十二師団の施設として小倉兵器支廠(ししょう)*1が設置されました。

 

1918年(大正7年)小倉の城野という地区に、小倉兵器支廠が移転され、後に小倉兵器補給廠となりました。

 

師団司令部が置かれた小倉には、歩兵第十四・四十七連隊に加え、特科として騎兵第十二連隊、野戦砲兵第十二連隊、工兵第十二大隊、輜重兵第十二大隊なども置かれました。旧陸軍の「工兵第十二大隊」遺構がのこされています。

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場所:福岡県北九州市小倉南区南若園町

座標値:33.842699,130.886863

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この隧道は鉱滓(こうさい)煉瓦積みです。隧道上部に「工兵第十二大隊」と刻印されています。

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工兵第十二大隊は1898年(明治31年)に小倉に第十二師団が創設された際に編成された工兵所属部隊のことです参照。1920(大正9)年頃には「工兵第十二連隊」というように、大隊から連隊に名称変更となっています。北方(きたかた)兵営に駐屯していた大隊の演習施設と予想されます。部隊の歴史と隧道の形状から明治末~大正期の建築と予想されます。現在、「工兵第十二大隊」遺構は住民のゴミ集積所として利用されています(参照:『北九州歴史散歩 豊前編』P.121)

 

小倉における兵営は、はじめ小倉城内に置かれましたが、じょじょにその狭い城内では部隊を収容しきれなくなりました。そして紫川中流に位置する北方という地区にも兵営が建設されるようになりました。ここに歩兵第四十七連隊などを創隊し駐屯しました。確認のため、ここで1919年(大正8年)8月に印刷された小倉市街地の地図をみてみます(参照:「福岡県の近代地図」-小倉市街地図-)。

 

地図をながめてみると、小倉城がある場所には「第十二師団司令部」があり、これを中心にして広い軍事用の敷地がひろがっていることがわかります。軍関係の敷地は、紫川の西側を南北に占有していたようです。

 

1899年(明治32年)、小倉衛戍(えいじゅ)病院が、小倉城内から小倉南区春ケ丘に移転されました。

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第十二師団は1904年(明治37年)から日露戦争に参戦しました。第十二師団の出征中は、小倉に留守第十二師団が設置され、各連隊や大隊には補充隊が編成されました。

 

日露戦争後も、日本は陸海軍ともにさらに軍備拡張をおこないました。1907年(明治40年)、久留米に第十八師団が設置されました。その結果、福岡県には二つの師団が置かれることとなりました。第十二師団(小倉)と、第十八師団(久留米)です。

 

1914年(大正3年)、第一次世界大戦がはじまり日本はドイツに宣戦布告しました。第一次世界大戦後、世界的な軍備縮小の中、まず海軍が軍縮を行い、次いで陸軍も二度にわたる軍縮を行ないました。

 

1919年(大正8年)に、陸軍が朝倉郡と三井郡にまたがる用地に大刀洗飛行場を完成させました。同1919年、所沢から航空第四中隊が移駐し西日本初の飛行部隊となりました。

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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大刀洗憲兵分遣隊舎跡(福岡県朝倉郡)

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高上の掩体壕(福岡県朝倉郡)

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1924年(大正13年)、宇垣軍縮と呼ばれた軍縮では、久留米の第十八師団が廃止されました。この第十八師団の廃止にあわせて、小倉の第十二師団が久留米に移転したため、小倉の第十二師団がきえることとなりました。また歩兵第四十七連隊が大分県へ移駐し、かわりに小倉城内から歩兵第十四連隊が小倉の北方という地区に移駐しました。

 

昭和に入ると戦争のはげしさが増し、福岡県でも部隊の増設が繰り返されていきました。

 

1932年(昭和7年)、第一次上海事変では、第十二師団の一部が出動しました。1935年(昭和10年)、航空機の脅威に対処するため、広域の防空計画を担当する西部防衛司令部が小倉に開設されました。

 

西部防衛司令部は昭和15年(1940)、西部軍司令部と改称の上で福岡に移転し、防空に加え治安警備や動員編成も担うようになりました。大刀洗に駐屯していた飛行第四戦隊は1935年(昭和10年)、熊本県の菊池に移駐しました。飛行第四戦隊はのちに山口県の小月(おづき)に移り、北九州の防空を担当しました。

 

1936年(昭和11年)、第十二師団は満州に駐屯することになり、隷下の歩兵第十四連隊、歩兵第二十四連隊、歩兵第四十八連隊などを引き連れて、大陸に渡りました。第十二師団はその後、1944年(昭和19年)まで満州に駐屯しました。

 

1944年、第十二師団の主力は台湾に移駐し、その後、終戦となりました。歩兵第十四連隊は途中で第二十五師団に編入され、宮崎で終戦となりました。第十二師団出征後は、留守第十二師団などが編成管理を担う形で、多くの部隊が編成されました。

 

1937年(昭和12年)、新しく編成された歩兵第百十四連隊(小倉)、歩兵第百二十四連隊(福岡)などを基幹に、第十八師団が再編成されました。第十八師団は杭州湾、上海、マレー半島、ビルマなどに転戦し、コタバル上陸作戦やインパール作戦にも参加しました。特に歩兵第百二十四連隊はガダルカナル島の戦いに参加した後、第三十一師団に転属してインパール作戦にも参加しました(参照:『福岡県の戦争遺跡-福岡県文化財調査報告書 第274集-(2020 福岡県教育委員会)』P.14) 

 

 

1939年(昭和14年)、第三十七師団が久留米で編成され、1940年に留守第十二師団を基幹に第五十六師団が編成されました。両師団とも、のちに南方に送られました留守部隊として留守第五十六師団も発足しました。

 

1941年(昭和16年)、太平洋戦争が始まると、部隊の増設はさらに行われました。1944年(昭和19年)、留守第五十六師団を母体に第八十六師団が編成されました。飛行場も従来の大刀洗や雁ノ巣に加え、現八女市の岡山飛行場などが各地で設営されました。しかし日本の航空戦力は米軍に十分対抗できるものではありませんでした。1944年(昭和19年)以降、北九州や福岡、久留米、大刀洗などは激しい空襲にあいました。

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小伊藤山公園にある慰霊塔(北九州市八幡東区)

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戦災殉難者之碑(北九州市八幡東区)

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日本軍航空機墜落地の慰霊碑(北九州市八幡東区)

1945年(昭和20年)、本土決戦が想定されるようになると、福岡では西部軍司令部を改組する形で、西部軍管区司令部と第十六方面軍司令部が置かれました。この二つの司令部は事実上一体で、のちに現筑紫野市内の山家の地下壕への移転が図られました。

 

第十六方面軍の下には、北部九州の防衛を担う第五十六軍が設置され、桂川に司令部を置きました。そして連合軍の九州上陸にそなえて、玄界灘沿岸で陣地構築を行っている状態で、終戦となりました。

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

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弾薬庫跡(福岡県福津市)

 

*1:支廠(ししょう)というのは「倉庫」という意味のようです。つまり兵器支廠は兵器庫ということだと思います。

若戸渡船の歴史についてのまとめ 福岡県北九州市若松区・戸畑区

福岡県北九州市の若松区と戸畑区との間には、洞海湾(どうかいわん)と呼ばれる細長い湾があります。湾の入口から湾のいちばん奥までを地形図で計測すると、およそ10㎞のながさになります。この洞海湾には、若松区-戸畑区間で「若戸渡船」が運航されています。

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『北九州市史(民俗)』P.170を読むと、この若戸渡船について記されています。若戸渡船がどんな経緯をたどって現在のかたちになったのか興味がわいたので、洞海湾で運航されてきた渡船の歴史について調べてみました。

少なくとも渡船は1800年代から続いていた

若戸渡船がいつごろから運航されていたかについて詳細は不明ですが、1867年頃の明治維新前から、若松の地主である山本喜七郎一家が代々渡船経営にあたっていたと伝えられています。


山本喜七郎が運営していたころ、若戸渡船は「大渡(おおわたり)川渡船」と呼ばれていました。大渡川というのは、古い時代につかわれていた洞海湾(どうかいわん)の別名のようです参照


この時代で使用されていた船は小さな伝馬船(てんません)でした。伝馬船とは、近世から近代にかけての日本で用いられた小型の船のことです。伝馬船は、人や荷物、郵便等を運ぶ程度のおおきさで、車馬はもちろん運べず、風雨の激しい時は欠航したといいます。

 

個人経営から町経営へ

渡船を経営していた山本喜七郎は、若松港同盟石炭問屋組合の組合員にもなりました。1885年(明治18年)には福岡県が同業組合準則を発布し、若松港同盟石炭問屋組合が組織されました。組合には、三井物産会社、三菱鉱業会社、安川松本商店、古河鉱業会社の名前があり、中央や地元の有力な資本が入ってきていることがわかります。


山本喜七郎は若松の地主だけあって、若松港同盟石炭問屋組合に加入するほどの財力をもっていたのでしょう。戸畑の伊崎伊勢松も一時期、渡船業をおこなったともいわれます。1889年(明治22年)頃、山本喜七郎は渡船の収入の全部を恵比寿神社に奉納しました。それから渡船経営は若松村に移しました。渡船は村有の財産になりましたが、経営はまだ個人名義、つまり山本名義で行われていました参照

 

1891年(明治24年)、若松村は若松町となりました。1903年(明治36年)12月に、山本氏が、個人名義の渡船経営を町長名義に変更する願いを出しました。このときの若松町は、石炭積出港として全盛だった時代をむかえていました。

 

1892年(明治25年)~1897年(明治30年)、若松は築港と筑豊興業鉄道の開設により石炭輸送基地となり、若松港は全国第一位の石炭積出港となりました。この当時、絶えず港には帆船(はんせん)がぎっしりと碇泊していました*1

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1904年(明治37年)4月に、渡船の名義が町長名義へと変更されました。そして若松町と戸畑町に渡船事業が移譲されました。このとき渡船の名前が、「大渡川渡船」から「若戸共同渡船」へと改称されました。


1904年当時も渡船の事業は、まだ伝馬船(てんません)によるものでした。若戸共同渡船の伝馬船は、両側に腰掛け用の板がはられていました。立客を含めると20人くらいがのれたそうです。屋根も覆いもないので、雨がふると傘をささないといけませんでした。しかし傘をさすと船の重心がくるうので、船頭がいやがり、結局乗客はずぶぬれになったということです。


1911年(明治44年)4月、蒸気船「第一河と丸」が就航し、その後、「第二河と丸」「第三河と丸」が建造されました。1914年(大正3年)4月に若松町が若松市となりました。

 

若松と戸畑の共同経営へ

渡船経営が若松市と戸畑町との共同管理で行なわれるようになりました。1919年(大正8年)3月に、若松市長と戸畑町長は渡船の共同経営に関する協定書を取り交わしました。そして1919年4月から共同経営が実施されるようになりました。協定書の内容としては、協同経営に要する費用はその年の当番市町の予算に計上するなど、が主な内容です。共同経営になってから『大渡川渡船』の名は『若戸共同渡船』と改められました。


同1919年(大正8年)には船の名前が「わかと丸」に改称されました。「わかと丸」は前後に推進器と舵をそなえ、Uターンの必要のない特殊なもので、貨客混載でした。
1924年(大正13年)に戸畑町が戸畑市となりました。1930年(昭和5年)4月2日若戸渡船沈没事故(乗客179名中72名が死亡)が発生しました参照

 

若松恵比寿神社の春季大祭の初日に、若松側渡船桟橋を出た第一わかと丸が、桟橋から40mも離れていない場所で沈没しました。この事故がきっかけとなり、若戸大橋建設の話がもちあがったそうです参照

 

1934年(昭和9年)、車力(しゃりき)*2などの重量物を運ぶため貨物渡船が導入されました。洞海湾に浮かぶ中ノ島と戸畑間にも伝馬船による渡船がありました。これも民営で、定期的なものではなく客があれば随時運航でした。船が対岸にいる場合は、大声で呼び寄せる風景も見られたといいます。

 

貨物渡船の廃止と民間経営への移行


洞海湾における大型船航行が活発になるにつれ、中ノ島は削られることになりました。1939年(昭和14年)10月から(1940年)昭和15年12月の工事で、島は完全になくなりました。1962年(昭和37年)9月26日の若戸大橋の開通にともない、9月27日から貨物渡船が廃止されました。旅客部門も廃止の予定でしたが、利用者の強い要望により存続することになりました。


1963年(昭和38年)2月10日の五市合併*3に伴い渡船の運営が北九州市に移行されました。職員60名が経済局事業部、若戸渡船事務所に所属することとなりました。


若戸渡船事務所は小倉航路事業(小倉~馬島~藍島航路)を所管することとなり、名称は1965年(昭和40年)9月10日より渡船事業所となりました。1971年(昭和46年)6月26日に、渡船事業所は経済局商工部*4の所属となりました。


2005年(平成17年)4月より鶴丸海運に運行業務が委託されました参照


2014年(平成26年)4月より関門汽船に運行業務が委託されました参照

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現在の若戸渡船 港に停まった若戸渡船に乗客がのりこんでいる

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若戸渡船 料金表

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若戸大橋の下を通り戸畑渡場に着こうとする渡船



*1:参照:『北九州の歴史』小田富士雄・米津三郎・有川宜博・神崎義夫共著P.173

*2:車力とは荷物をのせて人が引いたり押したりする車のことです。

*3:五市合併とは、門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の五市が合併したこと。九州初の政令指定都市として北九州市が誕生しました。また、1974年に小倉区が小倉北区と小倉南区に、八幡区が八幡東区と八幡西区を分区し、現在は7つの行政区で構成されています参照

*4:後の経済文化局総務観光部