日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

伊勢宮大神ちかくの庚申塔 大分県豊後高田市美和

ひさしぶりに、大分県の国東半島(くにさきはんとう)へ、庚申塔(こうしんとう)をさがしにいってみました。2021年10月2日の土曜日です。今回の訪問では、豊後高田市を中心に庚申塔をめぐりました。いちど以前に訪れた場所もふくめて7カ所の庚申塔にであうことができました。

 

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国東半島の庚申塔を40年以上にわたって調査しつづけている小林幸弘氏がおられます。小林幸弘氏が運営されているホームページ『国東半島の庚申塔』の情報と、小林氏からいただいた位置データをもとに、今回も、庚申塔めぐりをおこないました。

 

ホームページ『国東半島の庚申塔』

小林幸弘氏運営

http://5884koshinto.my.coocan.jp/

※スマートホンでは表示できませんがパソコンでは表示できます

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いちばんはじめにご紹介するのは、美和という地区に鎮座する伊勢宮大神のちかくにまつられる庚申塔です。

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塔身が上につれて太くなっている庚申塔

場所:大分県豊後高田市美和

座標値:33.5519981,131.4560852

 

庚申塔がまつられている場所は、伊勢宮大神本殿の北側約25mの地点です。

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伊勢宮大神の境内に車をとめさせていただき、徒歩で庚申塔がまつられている茂みまで移動しました。

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大きな樹がめじるし

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茂みのなかに立つ庚申塔

小林幸弘氏からいただいた『国東半島の庚申塔総覧』(小林幸弘著)P.36には、以下のように、この庚申塔が解説されています。

 

青面金剛刻像塔 179㎝

青面金剛(1-8) 3猿 2鶏

享保九年 七月吉日:1724年

 

青面金剛は珍しい一面八臂で火焔光背を負い邪鬼を踏まえる。塔身の幅が上から下にかけて10㎝細くなり、やや不安定な印象を受ける。

 

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火焔光背を背負う青面金剛

像は、しっかりと浮き彫りされているので、何が刻まれているのかがはっきりと分かります。いっぽう、ディテールは風化が進み、わかりにくくなっています。しかし青面金剛の手の部分を細かくみていくと、たしかに8本の腕があることが確認できます。

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腕の部分にピンクの印をつけている

青面金剛は、うずくまる邪鬼をふみつけ、その下には「見ざる言わざる聞かざる」のかっこうをした三猿がひかえます。二鶏のさらにしたには、よくみると蓮のような像がきざまれていることがわかります。

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塔下部には蓮のようなものが刻まれる

庚申塔側面には建立年月がきざまれています。むかって右側面には「享」という文字だけが確認できますが、それから下の文字は、判別することができませんでした。むかって左側面の「七月吉日」はしっかりと確認できます。

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建立年の銘は消えかかっている

ホームページ『国東半島の庚申塔』(小林幸弘氏運営)にも、こちらの庚申塔は紹介されています。

 

参照:http://5884koshinto.my.coocan.jp/11takada/11030.html

※スマートホンでもパソコンでも表示できます

 

これからぼちぼちと、2021年10月2日にめぐった庚申塔をご紹介したいと思います。

製塩業の発展をねがってつくられた塩竈神社 福岡県京都郡苅田町大字与原

福岡県の京都(みやこ)郡、苅田(かんだ)町に与原(よばる)という地区があります。ここに塩竈(しおがま)神社が鎮座します。

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塩竈神社 拝殿

塩竈という名から想像できるように、むかしこの神社があるふきんには塩田がひろがっていたといいます。具体的にはどの範囲で塩田が広がっていたのか、『新京築風土記(山内公二著)』P.29に紹介されている情報をもとに地形図にしめしてみます。

 

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苅田にあった塩田の範囲(推測)

今昔マップに掲載されている最古の地図が、1922年(大正11年)のものです。上の地図は大正11年のものを加工して作成しています。苅田に塩田がつくられたのが1866年(慶応2年)から1902年(明治35年)までです。

 

そのため上の地図は、製塩業がさかんであった時代の地図とは、多少異なっているとおもいます。しかし、海岸沿いに示されている「荒地」や「田」のマークが塩田のなごりであると予想しました。

 

新京築風土記(山内公二著)』P.29には以下のように塩田がひろがっていたことが紹介されています。

 

松山から白石海岸までの延長六キロの海岸線のすべて、面積にして二一九ヘクタールのうち一六〇ヘクタールは塩田だった。

 

この記述をもとに、松山から白石海岸までの海岸ふきんを、上地図で黄色でしめしました。そして塩竈神社の位置を確認してみると、塩田を東に見おろすかたちで標高27.5mの位置に塩竈神社が鎮座していることがわかります。

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階段をのぼった高台に塩竈神社はある

塩竈神社がふくまれてい小波瀬村の与原(よばる)塩田では、明治末期(1912年ごろ)に、16個の塩ゆでのための釜ができたといわれています。

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小波瀬村に塩竈神社が鎮座していた

いっぽう、小波瀬村よりも北側にあった苅田村の苅田塩田には15個の釜ができました。これらふたつの塩田は、福岡県全体の塩生産高の七割を生産するほど巨大な産業となりました。

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塩竈神社拝殿を正面より撮影

この塩竈神社は、1768年(明治5年)に建立されました参照。塩づくりにたずさわるかたがたが、海から塩がとれる恩恵に感謝をしたと考えられます。時代が昭和にはいってからは、この地域の製塩業は衰退し、塩田の跡地には多くの工場がたつようになりました。

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拝殿内

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境内から北西をながめる

 

殿川ダムにまつられる庚申塔 福岡県京都郡苅田町南原

殿川ダムの天端(てんば)入口部分に庚申塔がまつられているのを見つけました。

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殿川ダムの天端(てんば)入口に祀られる庚申塚

 

碑面 碑面(建立年)
庚申塚 (確認できず)

 

場所 座標値
福岡県京都郡苅田町南原 33.775302,130.965597

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「庚申塚」の文字だけが刻まれる

 

高蔵山堡塁(ほるい)跡をたずねる 福岡県北九州市小倉南区大字吉田

北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.102-103を拝読して、日清戦争後につくられた高蔵山堡塁(たかくらやまほるい)の跡にいってみました。山中にあるため、なかなかここまで行く時間がとれませんでしたが、平日に仕事の休みがとれた2021年9月21日(火曜日)に、じっくり堡塁跡までせめることができました。

 

場所:福岡県北九州市小倉南区大字吉田

座標値:33.8575946,130.9321605

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高蔵山堡塁の倉庫群

9月21日におとずれる前の別日に、一度、この堡塁跡まで行こうとしましたが、想像していたよりも道中が荒れていたため、途中で断念しました。高蔵山堡塁跡までのルートをネットや地形図で確認し、再度、挑戦することにしました。

 

基本的に、昔つかわれていた軍用道路をたどって堡塁跡までいくことができます。しかし、軍用道路だけをつかって堡塁跡まで行こうとすると、おおきく遠回りをしなければなりません。運よく、軍用道路をショートカットできる、徒歩用の道を再挑戦時にみつけることができました。この道は地形図上では示されていませんので、今回の投稿でご紹介します。

 

以下、地形図をつかって、ルートを示してみたいと思います。

 

高蔵山堡塁跡は、高蔵山山頂ふきんにあります。まずは山頂ふきんの地形図を示します↓

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高蔵山山頂ふきんの地形図

次に、車をとめた駐車場の位置と、高蔵山堡塁跡の位置を、地形図上にしめします↓

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駐車場(スタート地点)、堡塁跡(ゴール地点)

駐車場をスタート地点として、高蔵山堡塁跡をゴールとした図です↓

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登山スタートとゴール地点を示す

スタートからゴールまで歩いた行程を赤破線でしめします↓

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歩いたルートと登山とりかかりポイントを示す

登山口①から徒歩用の山道をのぼりはじめ、110mほど歩くと軍用道路にでます。

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軍用道路に沿って東へぐっと折り返し、登山口②にむかって、また110mほど歩いていきます。

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登山口②にたどりつきます。登山口②からはまた徒歩用の山道へとはいります。

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地形図をご参照いただくと、登山口②からは、地形図の等高線に直角にまじわるようにして歩く必要があります。そのためガシガシとのぼる本格的な登山となります。

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登山口②ふきん

あまり、ここを通る人がいないためか、登山道はやや落ち枝や石などで荒れています。またクモの巣がたくさんはられています。顔にはりつく不快なクモの巣に気を付けながら20分ほど、つづら折りの道を一歩一歩ゆっくりのぼっていきます。

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クモの巣がいく手をはばむ

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20分ほどのぼると、ふたたび徒歩用道が、軍用道路と合流します。この地点を「合流地点①」として示しています↑ 合流地点①につくまえに、徒歩用道のわきに謎の石塔が建てられていました。

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道ばたの謎の石塔

そして下の写真が、高蔵山堡塁跡までつづく、昔の軍用道路です↓ ご覧のように周囲の樹々が道路にせまってきており、落ちてきた枝や、岩や雑草などで道は荒れてきはじめています。

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堡塁跡までつづく軍用道路

徒歩で駐車場から登り始めて、ここまでの行程で、人にあうことはありませんでした。道も荒れ放題なために、めったに人が来る場所ではないのではないかと、このふきんに来た時点で不安感が増してきました。万が一、道にまよったら…という考えが頭をよぎります。現在地を確認できる頼りになる道具は、スマートホンの地図アプリだけです。

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馬の水飲み場?らしき水槽をしめす

合流地点①から東へ50mほどあるくと、道ばたに、馬の水飲み場と考えられる水槽をみつけることができました。石垣でつくられています。

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馬の水飲み場?

水槽がある地点から、さらに軍用道路に沿って10分ほどあるくと、目的地である高蔵山堡塁跡がみえてきました。「おそらくこのあたりにあるだろう」という推測で来たため、実物がみえてくるとホッとしました。

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夏草におおわれる堡塁跡

しかし現地に来てみると、『北九州歴史散歩 豊前編(北九州市の文化財を守る会編)』P.102に掲載されている写真とは、だいぶ様相が異なっています。ものすごい雑草で、むかし広場であったであろう場所は、踏み込む余地がありません。

 

堡塁の倉庫の前は、太陽の陰となり雑草の繁茂力もすくないようで、なんとか踏み入るスペースがありました。ここに移動し、堡塁を撮影することができました。

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そもそも「堡塁(ほるい)」の言葉の意味をよく知らなかったために調べてみると、”敵の攻撃を防ぐために、石・土砂・コンクリートなどで構築された陣地のこと”とあります参照。上に撮影しているのは倉庫群であり、ということは、堡塁という大きなくくりのなかのひとつの施設ということだと思います。

実際、この倉庫だけでなく、周囲には砲座があるようです。しかし、雑草をかきわけて探す気力が残っていなかったため、砲座の撮影はあきらめてしまいました。

 

書籍によると倉庫は八連あり、赤レンガとコンクリートで構成されているようです。

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堡塁の倉庫前まで草木がせまる

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八連ある倉庫

倉庫のなかには雑草は入りこんでいません。とても綺麗な状態で保存されています。足音が薄暗い倉庫のなかに響きます。うっそうとした森のなかの薄暗い場所は、入るのに勇気がいります。

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倉庫内部

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となりの部屋と続く連絡路

ものかげから、人がのぞいているように思えて、結局は倉庫のなかにも怖くて入れませんでした。

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この倉庫の出入口がある場所から、南側に山をまわりこむと、おそらく砲座跡がみれるのではないかと予想されます。

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高蔵山から、どの方向にむけて大砲を設置していたのでしょうか?地図をいっぽ引いてながめてみると、北九州市小倉南区の曽根地区の前に周防灘がひろがっています。地図でいえば、赤丸の東南東にあたる湾部分です。

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高蔵山堡塁を赤丸でしめす

この地区からはいりこんでくる敵を想定して、高蔵山堡塁が建設されました。建設がはじまったのは1899年(明治32年)の2月、完成したのは1900年(明治33年)12月です。つくられたものの、結局、いちども大砲をつかうことはありませんでした。

福岡県ではじめてみた掩体壕(えんたいごう) 福岡県朝倉郡筑前町高上

新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.68-69に、「大刀洗飛行場北部戦争遺跡」のひとつとして掩体壕(えんたいごう)が紹介されています。掩体壕は、戦時中に飛行機や物資、人などを空襲から守るためにつくられた施設です。わたしが実際に掩体壕をはじめてみたのは、大分県宇佐市のものでした参照。宇佐市には海軍航空隊の基地があったため、数基の掩体壕が現在ものこされています。

 

福岡県で掩体壕がのこっていると書籍を読んで知り、実際にいってみました。

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掩体壕(えんたいごう)-航空機を爆撃から守る建造物

場所:福岡県朝倉郡筑前町高上

座標値:33.431448,130.616647

 

この掩体壕が、つくられた具体的な年は示されていませんが、おそらく1919年~1945年の約25年の間につくられたと考えられます。大刀洗飛行場がつくられたのが1919年で、太平洋戦争終結が1945年です。この間に大刀洗飛行場の戦争関連施設がつぎつぎとつくられたためです。

 

以下に、大刀洗飛行場の略歴を示します。

 

1916 大正5年 陸軍が飛行場開設を計画
1919 大正8年 大刀陸軍洗飛行場が開設
久留米憲兵隊大刀洗分遣隊が発足
1925 大正14年 飛行第4聯隊に昇格
1928 昭和3年 はじめて軍機が出撃
1929 昭和4年 民間の日本航空輸送が大刀洗支所を設置
1937 昭和12年 養成校の色彩が濃くなる
1938 昭和13年 大刀洗航空機製作所が建設
1939 昭和14年 大刀洗駅が開設
航空技術兵学校が開隊
1940 昭和15年 飛行第4聯隊が熊本県菊池飛行場に移駐
大刀洗陸軍飛行学校が開設
1943 昭和18年 甘木生徒隊2000人が入隊
1945 昭和20年 重爆撃機用のコンクリート製滑走路が完成
アメリカ軍の空襲により壊滅

 

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高さ:7.3m  幅:44m コンクリート厚さ:60㎝

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航空機の出入口とは逆側の出入口 入口幅:4.4m

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やや地面に埋まっているように見える

新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.68に、この土地の所有者のエピソードが紹介されています。

 

「大刀洗空襲を語りつぐ会」の方が所有者に聞いた話によると、壕を造るときは、まだ麦が植えられた状態の畑を半強制的に取られ、戦後払い下げの時は三万円も支払わされたという。壕の上には1m程度の土が盛られ、木が植えてあったので、土の除去が大変だったとのことである。

 

掩体壕が、少し地面に埋まっているようにみえるのは、あえて地面にうもれるようにつくられていたのだということが、このエピソードからわかります。壕の上に土を盛り、草木をはえさせることで、上空から壕をみえにくくしていたと考えられます。

 

2021年現在、壕上側はもちろん、壕周辺の除草がされており、かなり力をいれて整備・保管されているように感じられます。

飛行第四聯隊(飛行学校)正門 福岡県朝倉郡筑前町原地蔵

飛行第四聯(れん)隊から、陸軍飛行学校へとひきつがれた敷地の入口に設置されていた門柱。福岡県朝倉郡にある「原地蔵公民館」敷地に門柱が保管されています。

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公民館敷地の一角に保管されている門柱

場所:福岡県朝倉郡筑前町原地蔵

座標値:33.410703,130.614685

 

大刀洗の飛行第四聯隊の敷地は、1940年に陸軍飛行学校へうけつがれ、門柱はそのままつかわれていたそうです。

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大正八年(1919年)当初は大刀洗飛行場にて開隊した「飛行第四聯(戦)隊」の正門として長く使用されました。飛行第四聯隊が中国大陸や南方へ出撃する時は全てこの門をくぐり、また帰還しました。しかし、聯隊が先の大戦を控え、熊本県菊池へ移動した後の昭和15年(1940年)秋からその跡に開校した大刀洗陸軍飛行学校・本校の正門として使われました。もともとは原地蔵公民館北側の交差点に設置されていたものです。

 

平成二二年四月

 

筑前町立大刀洗平和記念館

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案内板 当時の正門写真と元あった場所の地図

案内板を参照すると、門柱はもともと70mほど北側の交差点ふきんに設置されていたことがわかります。

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レンガでできた大刀洗飛行第四聯隊の門柱

 

監的壕(かんてきごう)跡 福岡県朝倉郡筑前町原地蔵

大刀洗陸軍飛行場跡の一角に、コンクリート製の半円形の建物がのこっています。これは、航空機の射撃訓練の様子を監視員が監視するための建物で、そのユニークな形から「タコ坊主」ともよばれています。正式名は「監的壕(かんてきごう)」といいます。

 

参照:『新装改訂版 九州の戦争遺跡(江浜明徳著)』P.73-74

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観測員が仕事につかっていた監的壕(かんてきごう)

場所:福岡県朝倉郡筑前町原地蔵

座標値:33.410433,130.614339

 

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アパートの駐車場ふきんに保管されている

 

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監的壕(かんてきごう)

 

大刀洗飛行場の南側にあった池のほとりに設置されていた建造物で、軍用機による射撃訓練に使われていました。具体的には、別の飛行機が曳航している射撃用の「吹き流し」に向かって、実弾を使って射撃訓練をする戦闘機や練習機の着弾を、この中に入った観測員が双眼鏡で確認していました。現在ではこの場所へ移動されています。(右て30メートル先)

 

平成二二年四月

 

筑前町立大刀洗平和記念館

 

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案内板には以下のような地図も掲載されています。監的壕は、もともとは別の場所にあったようです。

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監的壕のもとの場所(案内板)

案内板の地図によると、移設前の監的壕は、現在でいうところの「ファミリーファッション やまだい 物流センター」の敷地内にあたる場所にあったようです。

 

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入口に庇がつく 入口は大きく破損している

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監的壕内部

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窓 ここから着弾の様子を監視員が監視していた