日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

近くのトンネルから湧き水が引かれてくる駅 筑前岩屋駅

福岡県の北九州市小倉南区の城野駅から、大分県日田市の夜明駅へとつながる、JR九州の日田彦山線(ひたひこさんせん)。この日田彦山線のひとつの駅に、筑前岩屋駅があります。筑前岩屋駅は、めずらしく駅舎が岩でできており、さらに駅近くで湧水をくむことができます

 

場所:福岡県朝倉郡東峰村宝珠山

座標値:33.430728, 130.881281

f:id:regenerationderhydra:20190606204258j:plain

筑前岩屋駅は、福岡県と大分県の境に近い場所にある

↓こちらが、筑前岩屋駅をホーム側から眺めたものです。ホーム側からみると、正面に駅舎があり、左側に消防団の格納庫、右側には公衆トイレがあります。

正面の駅舎は外壁がガラスと岩でできています。屋根は数本の木製の柱で支えられています。この屋根は駅近所の岩屋神社(国指定重要文化財)を模したものといいます。『九州の鉄道おもしろ史』P431-432では、「駅舎が岩で作られている筑前岩屋駅」として紹介されており、この駅舎のつくりもとても珍しいものです。

日田彦山線は、添田駅(福岡県)から夜明駅(大分県)までの区間が、2017年の北部九州豪雨の影響で、2019年6月時点、不通となっています。そのため、ここ筑前岩屋駅にも列車は通りません。

 

しかし、列車がこないにもかかわらず、駅にはぽつりぽつりとではありますが、人が来られていました。このかたたちは何をするために、駅へ来ているのでしょう?

 

↓この写真奥に釈迦岳トンネルがありますが、このトンネルから湧く地下水を汲むために、今も人が訪れています。

f:id:regenerationderhydra:20190606211323j:plain

釈迦岳トンネルから湧水からしみだす

筑前岩屋駅の駅舎は1996年に造られたもので(参照)、駅舎の南南西25m付近に、湧き水を汲むための給水施設が建設されています。この給水施設は、トンネルを掘削するときに湧き出てきた地下水を引いてきたものです。

 

もともとこの地下水は、蒸気機関車が使用されていた時代に、蒸気機関車に給水するためのものでした。その湧水が、2008年に「平成の名水百選」に選ばれてから、訪れるひとたちが急増。マナーを守って湧水を汲んでもらうために、2009年12月から、有料の自動給水機へと施設が新しくなりました(参照:岩屋湧水・平成の名水百選)。

水の豊富な土地にふさわしく、駅舎が建てられている敷地内にも立派な岩で囲われた池がつくられています。残念ながら、2019年6月時点では池の水は除かれていました。

 

2017年の北部九州豪雨の際、筑前岩屋駅と釈迦岳トンネルとの間に、多量の土砂がおしよせてきました。そのときと思われる写真がこちらに掲載されています(参照:JR九州 日田彦山線にBRT、復旧会議で沿線に提案 - 毎日新聞)。現在もその爪痕を修復する作業が行われていましたが、線路は土砂に埋まったままでした。

 

 

参照した書籍

九州の鉄道おもしろ史

かなたまで続く石垣がみごと 福岡県朝倉郡東峰村 竹地区

福岡県に敷かれている鉄道の歴史をたどるために、2019年6月1日に、東峰村へ立ち寄りました。東峰村は福岡県の中央部からみると東側に位置し、福岡県と大分県との県境にあります。福岡県に所属しますが、もうほとんど大分県の日田市に近い場所です。

 

そんな東峰村で、立派な石垣群をみることができました。ここは東峰村の竹地区です。

f:id:regenerationderhydra:20190603211610j:plain

何段も重なる棚田それぞれに、立派な石垣が組まれている

 

場所:福岡県朝倉郡東峰村宝珠山 県道52号

座標値:33.435527,130.874900

 

JR日田彦山線の駅である彦山駅(福岡県)から、東峰村にある筑前岩屋駅へと向かう途中。県道52号線を走っているときに、この美しい景色に出会うことができました。

 

自宅に帰ってから、「東峰村 石垣」というキーワードでググってみると、この東峰村竹地区というのは、美しい棚田で有名であることがわかりました(参照:東峰村の棚田・棚田100選)。2019年6月1日時点では、田植えが終わったばかりか、これから田植えがはじまる時期であったために、特別、棚田に目を奪われることはありませんでした。

 

しかし、この立派な石垣群には心を奪われました。これらの石ひとつひとつが、人の手で積み上げられていったということを考えると、途方もない時間と労力がつぎこまれたのでしょう。 

f:id:regenerationderhydra:20190603202308j:plain

宮本常一(みやもとつねいち)氏の著書である『民俗学の旅 (講談社学術文庫)』で、たしか、宮本氏の家族のなかで石垣を積むことを特技とするかたがいた…ということを読んだ覚えがありました。たしか、常一氏のおじいさん(祖父)ではなかったかな…と早速、調べなおしてみると、記憶はみごとに間違っていました。

 宮本家の初代の先祖(勘左衛門)が養子をもらい、その養子というのが善兵衛という名前でした。その善兵衛が石垣を築く名人だったそうです(参照:『民俗学の旅 (講談社学術文庫)』P11-12)。昔、この一節を読み「石垣を積むという仕事が、とても重要な位置を占めていた」ということが想像できました。石垣を積む職人もいたそうです(参照:穴太衆 - Wikipedia)。

 

 

参照した書籍

民俗学の旅

添田(そえだ)駅 裏側の何も使われていない広場はなに? 福岡県田川郡添田

福岡県田川郡の添田(そえだ)に添田駅があります。JR九州 日田彦山線の駅のひとつです。ここの駅では、駅舎からホームまで、約100mほど歩かなければならないという特徴があります。ホーム改札口をでると、いちど屋外へ出て、屋根のない細い路地をL字型に約105mあるいて、屋根のあるホームへと移動します。

 

↓こちらは、添田駅の北側から、駅舎とホームを眺めた写真です。駅舎のはるか向こう側にホームが見えます。

f:id:regenerationderhydra:20190602052155j:plain

駅舎とホームの位置関係を模式図で確認してみると、駅舎の前には何もない広場があり、その広場の南側にホームが建設されていることがわかります。

 

駅舎のすぐ近くにホームをつくればいいのに…と事情を知らなければ…思ってしまいます。

 

この広場に、昔、なにかがあって、そのために、ホームが駅舎からちょっと離れた場所に建設されたのでは…となんとなく想像することができます。そのエピソードが『九州の鉄道おもしろ史』(P416-418)に掲載されていましたので、ご紹介します。

 

この添田駅が開業したのが、1915年(大正4年)4月1日で、その当時は小倉鉄道が管理をしており、上図の広場がホームとして使われていました。

 

※添田駅が開業したときは、上添田という名前の駅で、その後も彦山口駅と…名前が変わり、ややこしいので、以下「添田駅」として記していきます

 

大正時代は田川をはじめとした、筑豊地方は炭坑全盛の時代でした。添田駅でも、もちろん炭坑から掘り出された石炭を輸送するための、貨物車がたくさん出入りしていました。添田駅横のホームには、その石炭輸送のための貨物車がずらりと横づけされていました。

小倉鉄道が管理していた添田駅ですが、今度は国鉄が別の路線を彦山駅方向へ伸ばすこととなりました。その際に、国鉄が小倉鉄道に頼み、この添田駅を利用させてもらうこととなりました。1942年(昭和17年)のことです。

 

国鉄が添田駅を利用するのは旅客のため。お客さんを乗り降りしてもらうホームが必要です。しかし、上図のように、駅舎のとなりにはたくさんの貨物車が発着し、ホームをつくるスペースがありません。

 

そのため、貨物車が発着する区画ではなく、もっと南側のほうにホームを建てることとなりました。南のほうに建てたホームに国鉄の列車が入ってこれるようにしたわけです。

 石炭の時代が終わり、貨物車が入ってきていた添田線が廃線となったのが1985年(昭和60年)です(参照:添田駅 - Wikipedia)。そうすると、それまでたくさんの貨物車が発着していた場所には列車がつかなくなりました。

 

よって、現在(2019年6月)のように、駅舎の前には何もない広場ができてしまったのです。

添田駅の現在の駅舎です↓この駅舎は1988年(昭和63年)に建設されました。

この駅舎に向かって左側部分から、現ホームへと続く小道がでています↓ 横から出入りできないように、フェンスで囲われています。 

こうやって筑豊地方にある駅を訪ね歩いていると、石炭を燃料としていた時代の名残がよく見かけられます。まだまだ、わたしの知らない”名残”が福岡県各所にありそうです。

 

参考にした書籍 

九州の鉄道おもしろ史

信心深いおばあさんのイボをとってくれた地蔵尊 大分県中津市山国町草本

大分県中津市の山深い場所に、おばあさんのイボをとってくれたという伝承が残るお地蔵様が祀られています。そのお地蔵様は「尾まがり いぼとり地蔵尊」と呼ばれています。

場所:大分県中津市山国町草本

座標値:33.439515,130.988329

 

福岡県の英彦山(ひこさん)あたりから、大分県の中津方面へと抜ける途中で、このいぼとり地蔵に、たまたま出会うことができました。全国に目をひろげると、「いぼとり」の神様・仏様はたくさん祀られているようで、こちらのサイト(いぼとり神様・仏様 全国リスト)では、2019年6月1日時点で、1302か所紹介されています。

 

中津市山国町のいぼとり地蔵は、福岡県と大分県との県境に近い場所にあります。霊山「英彦山」から、中津市の山国という町へと下りてゆく国道500号線沿いに祀られています。↓赤丸で示した場所が、「尾まがり いぼとり地蔵尊」が祀られている場所です。

↓こちらが国道500号線で、英彦山方向を向いて撮った写真です。写真右側のブロック塀になっている箇所が、いぼとり地蔵尊が祀られている高台です。自然ゆたかな場所で、わたしの好きな場所でもあるので、福岡から大分へいく際、この道を通ることがたびたびあります。

 「尾まがり いぼとり地蔵尊」が祀られる高台へは、20段ほどの階段をのぼります。周囲は道幅が広くなっており、十分、駐車スペースがあります。

車通りは少なく、道幅は広いので、ときどき通る車のなかには、スピードをだしているものもあります。地蔵尊を訪れたこの日は、4歳の子どもも一緒だったので、子どもの手を引き道路を横断する必要がありました。

 

↓小さなお堂に祀られているのが「いぼとり地蔵尊」で、その隣に看板がたっています。看板の足元に「手水鉢(ちょうずばち)」があります。この手水鉢にも、なにか云われがあるのでしょうか?

ふきんに立っている「疣取地蔵の物語」という案内板に書かれている内容を、ざっくりと以下にご紹介します。

 

むかし、この地に信心深いひとり暮らしの老女が住んでいた。老女の手にはたくさんのイボができていた。ある日の夕暮れ、お坊さまが老女のところへ泊めてほしい、と訪ねてこられた。老女はこころよく、お坊さまを家に泊めた。

 

翌朝、お坊さまの姿はなく、水戸口(みずとぐち;家に水を引き入れる場所)に手水鉢が置いてあった。手水鉢とともに手紙が添えられてあった。その手紙には「心やさしい お婆に疣取りの水を進ぜよう。この鉢に水を張りて用いよ」と書かれていた。それから、老女の手からはイボがなくなった。

 

この出来事は人から人へつたわり、「いぼとり地蔵尊」として菩薩像を、この地に安置した。

 

その「いぼとり地蔵尊」がこちらです↓ お地蔵さまが祀られるお堂のとなりにある手水鉢が、「疣取の水が張られた」という手水鉢と考えられます。

それにしても、このいぼとり地蔵には「尾まがり」という名前がつけられていますが、尾まがりとは何なのでしょう。おそらく「尾まがり」は地名と考えられます。国土地理院地図を確認すると、地蔵尊が祀られている付近が「大曲」という地名のようです。

 

そしておもしろいことに、国道500号線に沿ってながれる山国川は、この場所で、大曲の地名どおり、大きく湾曲しています。

九州一の階段数がある筑前山手駅 福岡県篠栗町

最近は、九州の鉄道おもしろ史という書籍に紹介されている土地へいくことが多くなりました。書籍には「鉄道おもしろ史」というタイトルが含まれているだけあって、駅に関わる記事も多く掲載されています。わたしも駅へ行く機会が増えました。

 

現在、わたしが住んでいる福岡県北九州市は、九州のなかでは、比較的おおきな街ではあるものの、車なしでは移動にとても不便を感じます。車を所持していれば、自然と移動は車中心の生活となり、電車にのることはほとんどありません。

 

そのために、今回ご紹介する「筑前山手駅」も、わたしは初めて訪れる駅です。九州の鉄道おもしろ史P407-409で、筑前山手駅は”ホームまでの階段数が九州で一番多い筑前山手駅”と紹介されており、それがどれほどのものなのか、実際に見てみたいと思いました。

 

筑前山手駅の外観

f:id:regenerationderhydra:20190530202655j:plain

コンクリート製ビルのような駅舎

筑前山手駅は「山手」という文字が含まれていることから、山の斜面に建てられている駅だと想像していました。しかし、↑上の写真のように、駅は想像とはまったく違うものでした。なんの装飾もないコンクリート製の外観は無骨な印象を受けます。

 

場所:福岡県糟屋郡篠栗町篠栗

座標値:33.622152,130.557256

↑この写真は駅の裏側から撮ったものです。手前の高架下にあるちいさな建物はトイレです。トイレは、とても清潔でトイレットペーパーもちゃんと設置されていました。

 

筑前山手駅は、JR九州 篠栗線(福北ゆたか線)のひとつの駅で、嘉麻市と福岡市とのほぼ中間地点に建てられています。

地上から筑前山手駅ホームまでの道のり

筑前山手駅の階段数は、『九州の鉄道おもしろ史』P407に、詳しく紹介されています。それによると、この駅のホームは平地から14.5mの高架の上にあり、そのホームまでは…

 

25段(平地から、券売機のある1階ホール)

16段(券売機1階ホールから、2階)

18段(2階から3階)

18段(3階から4階)

18段(4階から最上階の5階)

 

…の合計95段のぼる必要があると書かれています。こちらは「平地から、券売機のある1階ホール」までの階段です↓

この階段をのぼりきると、広いホールがあり、その奥に券売機が設置されていました。このホール…もしかしたら、昔は売店かなにかがあったのかもしれません。ホールの左奥の一区画に、建物があったような跡が残っていました。

↓こちらの写真は、たしか、建物の3階部分を写したものと思います。この駅の特徴的な点は、駅通路に、たくさんの絵が飾られていることです。コンクリートむきだしの駅舎を、これらの絵がいろどってくれています。

駅舎内をよくよくみてみると、灯りとなる照明器具が、各階に蛍光灯1個程度しかなく、夜になると、とても暗く寂しい駅舎となるのだな…と想像されます。これらの絵は、そんな殺風景で寂しい駅舎に、温かさを添えてくれていました。

階段を5階までのぼりきると、すぐ改札機が設置されており、そのすぐ向こう側にはホームがありました。5階まで登りきり、5分ほど周囲の景色をパシャパシャと撮っていると、電車が到着しました。しかし、「当然」といえば失礼となりますが、この駅に降りてくるかたはおられませんでした。

5階はベンチがひとつだけ設置された、小さな待合室となっていました。

どうして、こんなに階段数の多い駅舎となったのか?

あらためて筑前山手駅の外観をみてみます↓ 高架に鉄道が敷かれており、その高架に合わせて駅舎が建てられたようにみえます。鉄道が先につくられ、そのあとで駅舎が建てられたのでは?

f:id:regenerationderhydra:20190530215011j:plain

筑前山手駅から電車が出発し高架をはしってゆく

その想像ははずれてはおらず、篠栗線を建設する際、桂川-篠栗間の区間では、もともと筑前山手駅は建設予定には組み込まれていませんでした。建設予定の駅は、城戸(きど)駅と大分(だいぶ)駅だけでした。

 

f:id:regenerationderhydra:20190530221008j:plain


城戸と大分の駅の位置がきまってから、地元から筑前山手と九郎原の駅もつくってほしいという要望がでました。

 

この篠栗線沿いには国道201号線がはしっています。国道自体も山間の平地を縫うようにはしっており、鉄道をあらたにつくるには山のふもとしか土地が余っていませんでした。山のふもとに鉄道を敷くには、トンネルと高架橋をうまく駆使しなければなりません。

 

城戸と大分の駅は、これらトンネルと高架橋を避けた場所(平地)に建設されることが決まっていました。しかし、筑前山手と九郎原は?

 

なんとか九郎原のほうは、平地に駅をつくることができたのですが、筑前山手駅のほうは条件があわず、高架橋部分に駅をつくらざるをえなかったのです(参照:九州の鉄道おもしろ史P407-408)。

筑前山手駅から福岡市側を眺めると、すぐトンネルがあり、エピソード通り山のふもとに鉄道が敷かれていることが実感として受け止められます。

1945年に大事故があった二又トンネル 福岡県添田町落合

福岡県北九州市小倉南区の城野駅から、大分県日田市の夜明駅までのびている「日田彦山線」。この日田彦山線の一部区間で、死者147人にもなる大惨事があったといいます(参照:二又トンネル爆発事故 - Wikipedia)。その場所が、現在の彦山駅と筑前岩屋駅との間にあったという、二又トンネルです。

 

場所:福岡県田川郡添田町落合

座標値:33.496356,130.869810

f:id:regenerationderhydra:20190528200225j:plain

爆発で二又トンネルがあった山は吹きとんだ その跡は鉄道が敷かれている

トンネルといっても、終戦の年である1945年(昭和20年)では、鉄道は通っていませんでした。彦山駅と、筑前岩屋駅とのあいだには3つのトンネルを掘る予定であり、そのうちの2つのトンネル(二又トンネル、吉木トンネル)は完成していました。

 

この2つのトンネルは、隣り合っていました。まだ鉄道の通っていないトンネルは、終戦当時、火薬庫として使用されていました。日本が1945年敗戦すると、二又トンネルと、吉木トンネルに保管されていた火薬は、アメリカ軍により廃棄(焼却)されることとなりました。 その廃棄方法については二又トンネル爆発事故 - Wikipediaに、とても詳しく解説されています。

 

吉木トンネルのほうは、火薬をいれた木箱の間にすき間が比較的たくさんあったのですが、二又トンネルのほうは、びっしりと木箱が積まれていたために、いっぺんに火が火薬へと燃え移り、爆発したと考えられています。

 

二又トンネルで発生した爆発のすさまじさは、ウィキペディアに掲載されているものがわかりやすいために、そのまま抜粋します。

 

連合軍兵士一行が引き揚げてから約1時間後の16時30分ごろ、火薬を燃やす炎は火炎放射器のようになってトンネルから噴出し、トンネル口から100メートル以上も離れた川の対岸にあった民家にまでも延焼した。火はさらに次々と燃え広がり多くの住民が消火活動にあたったが、炎の勢いはおさまるどころか激しさを増し、ついに17時20分(公式記録、地元では17時15分としている)、火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛び、彼らは落ちてきた土砂の下に埋もれてしまった。二又トンネル爆発事故 - Wikipedia

f:id:regenerationderhydra:20190528202214j:plain

爆発前の山容 想像図

二又トンネルがあった山(通称 丸山)のすぐ前には、彦山川と深倉川が合流しています。比較的川幅の広い2つの川に、山は囲まれているにもかかわらず、死者が147人にもなったそうで、その爆発のすさまじさは今ではなかなか想像することができません。

 

実際、その現場を目撃したかたの話によると、火薬の爆音は、60㎞も離れた大分県の別府にまで達したといいます(参照:『九州の鉄道おもしろ史』P429)。

 

上の写真(想像図)の、二又トンネル前には、現在は鉄道がつづいています。上の写真からはよく見えませんが、鉄道は一部、橋となっています↓ 写真は下からみあげたものです。撮影ポイントは(33.497107,130.869925)です。こんなに巨大な橋が架かるほど、川幅が広いのです。

f:id:regenerationderhydra:20190528203442j:plain

彦山川に架かる鉄道の橋

 ↓こちらは、別の角度から見た鉄道の橋です。橋の手前に見える川は、深倉川です。撮影ポイントは(33.497426,130.869439)です。

 

二又トンネルから、北側へ420mほどの場所に彦山駅がありました。2019年5月現在、日田彦山線は、2017年7月の九州北部豪雨による災害で、添田駅から日田駅間は不通となっています。電車のこない彦山駅はひっそりとしていました。

岩嶽稲荷の切断された鳥居 福岡県京都郡赤村

福岡県の京都郡と、田川郡との県境にある岩嶽稲荷神社にいったときの写真です。

境内にはたくさんの鳥居がつらなっていましたが、なぜか、一本だけ根元からノコギリで切られて、参道から取り除かれている鳥居がありました。鳥居は根元と、半分あたりの2か所で切断され、笠木などが含まれる頭の部分は、旧参道沿いの壁に立てかけられていました。異様な光景で、目を奪われました。

 

もしかしたら、鳥居の根元から腐ってきて、倒れる危険があるので取り除かれたのかもしれません。朱色の鳥居に木漏れ日があたって、にぶく光り、鉄のような重々しさが漂っていました。

 

場所:福岡県京都郡みやこ町赤村

座標値:33.617074,130.899001