場所:福岡県中間市中間2丁目4
この場所に厳島神社が祀られている。 車通りの多い道路のすぐわきに祀られる小さな神社なのでとても印象的 。
大正時代まで弁財天と呼ばれており、その弁財天が水神さまとして崇められていたそう。
弁財天が水神さまとして崇められるようになったのは、1762年以降。つまり、この神社近くの木製の水門…唐戸…が作られてのちのことなのだそう(参照:遠賀川 香月靖晴著 p169)
車通りが多いので行きにくいが、いずれ行ってみたい神社。
ISO感度を200程度の低めの値に保って、夜間長時間露光をする場合、どのくらいのシャッター速度が適当か?
F値16
シャッター速度112秒
ISO感度200
三脚・レリーズ使用
画像を奥までシャープにしたかったので、F値を16に絞る。ピントは橋の下の赤いランプに合わせた。
低感度で、16の絞り値だと、2分近くシャッターを開けておかないと、明るい画像は撮れないようです。
高感度(ISO感度12800)でF値が4だと1/2のシャッター速度でかなりの明るさ。
しかし、拡大すると画質がだいぶ荒くなっている。
またの機会での夜間の試し撮り時は、F値について…どの程度まで開放してもシャープに写るのか試してみたい。
福岡県直方市に建武という古い時代に建立されたという板碑があるそうで行ってみました。
Google mapを使って「直方市 史跡」というキーワードで検索してみるとヒットした史跡です。
場所:福岡県直方市上境
座標値:33.727921,130.746449
住宅街のなかにブロックで築かれた小さなお堂があります。お堂の入り口は金属製の柵がされています。
柵の間から中を覗くと三基の板碑が祀られていました。そのうちの一基がこちら↓
大変もろい砂岩を板状に加工し、正面上方いっぱいの円相(えんそう)の中に、胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)の種子アーンクの梵字(ぼんじ)を肉太に刻んでいます(直方市HP)。
同ホームページによると↓こちらに刻まれる文字は以下のようだそうです。
「普三界帰命十方仏令発弘願本□妙典一千三百余刻石--------建武三年(1336)丙子十月二日」(直方市HP)
一方、もうふたつの板碑は、ひとつ目の板碑の右奥に祀られています。こちらも巨大な梵字の下に文章が刻まれているようです。だいぶ風化が進んでいます。
どういう目的でこれらの板碑はつくられたのか?
南北朝時代、足利尊氏が九州へ来た。筑豊地方でこれら尊氏の兵を迎え討った。その時の戦いが激しく、戦死者が多数出た。
上野(あがの)にある興国寺に退身していた明窓禅師がこれをみて戦死者の供養のために板碑を建てたのだそうです。
調べてみると、明窓禅師は臨済宗の僧で、埼玉県→京都を経て福岡へと移ってきたのだそう(参照)。
この板碑は遠賀川―流域の文化誌 (海鳥ブックス (6))P104にも紹介されています。三基の石塔のうち一番左…手前の塔は模擬塔なのだそう。
遠賀川からわずか460mほど東へ入ったところに阿高神社があり、その鳥居のそばにこの堰跡があります。
場所:福岡県直方市感田
座標値:33.758217,130.73352
案内板によると、遠賀川が氾濫し水が溢れたとき、昔はこの石垣に板を差し込んだそうです。
上の写真の石垣の真ん中あたりに板を差し込むための溝があります。差し込んだ板で、道路に水が流れ込んで来るのを防いだのだそう。
昔は道路の両側にこの堰があったのですが、今では道路整備のために片側だけ残されています。
ここを車で通るたびに「なんだか古い石垣だな。何かありそうだな」と思っていたので、時間ができたとき足を運んでみました。
すぐそばに阿高神社の駐車場があるので、ここに車を停めさせてもらいました。
1667年に建立されたという宝篋印塔。石を積み重ねて作っている(参照PDF)岡垣町で唯一の宝篋印塔だそう。
座標値:33.879478,130.569428
宝篋印塔は通常、寺院の境内に祀られることが多いにもかかわらず、この宝篋印塔は神社境内に祀られます。
この宝篋印塔が祀られている大原神社は、福岡城の鬼門にあたる方角に黒田長政によって建立され(参照)、鬼門除けの役割を担った神社なのかも。
調べてみると黒田長政が亡くなったのは、1623年。宝篋印塔が建立されたのは1667年。宝篋印塔は黒田長政とは直接関係がないと考えられます。
宝篋印塔の基礎部分には「胎蔵院」の文字だったり、連名が刻まれていたりします。もともと別の場所(今はない胎蔵院)で有志により作られたものがこの地に移動されたのかもしれません。