日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

古墳の上に祀られていた宝篋印塔(ほうきょういんとう) 遠賀郡水巻町 寂光院

今回は↑こちらの宝篋印塔(ほうきょういんとう)を探しにいきました。「水巻昔ばなし」(柴田貞志)を読んでいると、写真付きで寂光院の宝篋印塔として紹介されていました。

 

場所:福岡県遠賀郡水巻町吉田西4丁目17

地図: Google マップ

 

 

同書によると、昭和17年に字松ケ谷という場所で六世紀松と推定される横穴式古墳が24基発見され、この古墳の上にその霊を祀るためか、ふたつの宝篋印塔が立っていたそうです。

 

その宝篋印塔は昭和42年に日炭(日本炭礦株式会社)の拡張工事のために、寂光院というお寺に移転されたとありました。これがその寂光院の宝篋印塔です。

 

 

この宝篋印塔がもともと立っていた古墳は吉田片山という場所にあったんだそうです。古墳はのちに、ぼた山の下に埋もれてしまいました。その吉田片山とはどこなのか?ちょっと気になり調べてみました。しかし、google mapで検索してもその地名では検索にひっかかりません。

 

そこでネットで検索してみると、こちらのサイトがひっかかりました。

史跡・名所 1 - 水巻町商工会 福岡県遠賀郡水巻町

こちら↑では「吉田炭坑 片山炭坑」として炭坑が紹介されています。さらに片山炭坑は高松炭坑と名を変えたそう。

 

片山炭坑のそばに松の巨木が1本あり、これを高松と呼んでいたところから「高松炭坑」となりました。

 

「吉田」とか「片山」とか「高松」とか三つも名前がでてきてややこしいですが、これら三つの名前は炭坑のあった一円をさしていると予想されます。ただ吉田という地名は、現在の地図にも記載されています。吉田という地区は筑豊本線東水巻駅」の北側、JR「水巻駅」までの間をおおよそ指すようです。

 

その同じ地形図で吉田炭坑とぼた山の位置関係を調べてみると、こちら「「日炭高松炭鉱の記憶」 の案内」にだいたい描かれていました。略図を元に地形図に書き込むとこんな感じになりそうです↓

筑豊本線東水巻駅」を挟んで、吉田炭坑とぼた山があったようです。ちなみに、この記事の初めにご紹介した二基の宝篋印塔がある寂光院は↑上の地図の吉田炭坑予想円のちょうど真ん中あたりにあります。

 

吉田ぼた山の下に眠っていると思われる古墳群。その古墳群の上に祀られていた宝篋印塔が、吉田炭坑があったと言われる寂光院へ移転されたのですね。

 

寂光院は廃寺となってようで、敷地内は草ぼうぼう。お堂も荒れ果てていました。

中塚公民館の庚申塔 玖珠町山下 それと庚申山について

場所:大分県玖珠郡玖珠町山下

中塚公民館の敷地内に祀られていた庚申塔です。
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 玖珠町庚申塔は…

・公民館など人の集まるところに比較的多い

・自然石を使用してやや前傾している

猿田彦大神の文字塔が主

…という特徴があるみたいです。地元に住む年配のかたの話では、腰の曲がったお年寄りを「コウシンサマのような人」と呼ぶこともあるそう。

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中塚公民館の庚申塔も、ちょっとお辞儀をしているような姿をしていました。
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ところで「ヤマケイ新書 山の神さま・仏さま
」(太田 昭彦著)を読んでいて、庚申信仰にも本山(ほんざん)があることを知りました。その本山というのが栃木県にある庚申山(こうしんざん)という山。メモ代わりに残しておきます。

 

庚申山は1892m。どうして庚申という名がついたかというと、昔、何万年も生きていたといわれる一匹の白い猿がこの山に住んでいたからなんだそう。

 

庚申山ではこの白猿が信仰され、猿に縁があるということで猿田彦大神が祀られるようになったそうです。

寺の名前が刻まれた福岡県では珍しい庚申塔 遠賀郡水巻町 貴船神社

福岡県遠賀郡水巻町にある貴船神社に珍しい庚申塔を見つけました。

 

場所:福岡県遠賀郡水巻町吉田東4丁目5

地図:Google マップ

拝殿右側の山の斜面に今回の庚申塔は祀られていました。

 

文字のくせが強く、刻まれた文字を読みとることが難しいです↓

「…寺庚申塔」と、なにかお寺の名前が刻まれているように思えます。

 

こうじゃないかという文字を推測し、その推測した文字でネット検索をかけ何度もしっくりくる文字がないか試みました。そしてひとつの結論がでました。

「摂?四天王寺庚申塔

 

たぶんこういう字が刻まれているのではないか。?の部分は「内」か「田」なのではないかと思い、「摂内」「摂田」で検索しましたが、納得できるような検索結果が得られませんでした。仮に「摂四」としてそれらの文字を逆にして「四摂」とすると「ししょう」と読むことができ、四摂法・四摂事が”菩薩が人々を導く方法を4種に分類したもの”とされます。

 

なんとなく庚申塔に沿うような意味の言葉になるように思えます。しかし文字を逆にしたならば…の話なので、少し強引な解釈となると思います。

 

広辞苑で調べてみると「摂」という文字は摂津国(せつのくに)の略とあります。仮に「摂内」と書かれていたとして、摂津国の内と読めるのでは?

 

そしそうならば摂津国はどこか?広辞苑を調べると「一部は大阪府一部は兵庫県に属する」あたりの土地なんだそうです。

 

歴代の皇居が置かれた大和・山城・河内・和泉・摂津の5つで構成された五畿内(ごきない)という地のひとつが摂津のようです。↓下の地図(引用:摂津国 - Wikipedia)の赤い部分が摂津です。

摂津という場所に四天王寺はあるのか調べてみました。すると、大阪府大阪市天王寺区四天王寺1−11−18にありました。

この四天王寺に由来する庚申塔なのでしょうか。庚申塔に向かって右側にはおそらく「昭和九年6月」の文字が刻まれます。これまで見てきた中で一番新しい時期に造られた庚申塔です。

大阪の四天王寺にお参りにいったかたが、そのご利益を水巻の地元に住むひとたちにも受けさせてあげたいという念でこの庚申塔を立てたのでしょうか?すべては憶測です。

戸明神社の庚申塔 北九州市若松区高須東

北九州市の戸明神社に祀られるとてもシンプルな庚申塔です。周囲は新しい建物が建ったり、崩されたりと移り変わりの激しい街なかなのですが、意外にも神社に庚申塔が祀られていました。

 

場所:福岡県北九州市若松区高須東3丁目

地図:Google マップ

 

庚申塔に向かって右側に安永八年…つまり1779年の銘が刻まれています。干支では己亥。しっかり庚申塔にも己亥と刻まれています。一番下の「歳」は今でいう「年」のことでしょう。

庚申塔に向かって左側には八月の文字が刻まれます。

今回の庚申塔福岡県の庚申塔に追加登録しています。

四夜叉の配された庚申塔から読み取れたこと 国東市国東町横手

先日、「庚申塔とショケラ」という記事でアップした、ショケラを持った青面金剛庚申塔を実際に拝観しに国東半島へ行ってみました。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 

ほんとうにこの庚申塔をみて驚きました。観に行ってよかったと思います。

何に驚いたかというと、まずその精巧さです。そしてショケラもちろんのこと、これまで探した庚申塔では見られなかった四夜叉が刻まれていたということです。

 

場所:大分県国東市国東町横手小川

地図:Google マップ

 

この庚申塔を見つけることができたのは、「国東半島の庚申塔」大分合同エデュカル(2017年発刊)を著した小林幸弘氏が送っていただいた「国東半島庚申塔分布図」です。氏は国東半島の庚申塔を780基探されており、その一基一基の写真を国東半島の庚申塔に整理されています。今回のように明確な目印がない場所にある庚申塔さがしには、直接目印が記された地形図が強力な味方となってくれます。

 

小林氏は今回の庚申塔についても詳細な解説を「国東半島の庚申塔」で紹介されています。

 

総高 142㎝

明和六己丑年(1769年)

八月十一日

 

一面六臂の青面金剛は、法輪、三叉戟、弓、矢、剣とショケラを手に怖い顔をして構え、両脇に二童子を従える。

 

 

三猿、二鶏の下段には武器を携えた精悍な四夜叉が配され、そこには躍動感がみなぎっている。

 

 

 

基壇前面には、十八人の発起人の名前が一面に彫り込まれている。保存状態はきわめて良好で、約二五〇年前の秀作を今に伝えている。

 

ずいぶん昔に造られたとは思えないほど、細かい部分まで残っています。この庚申塔の周囲は杉などの樹々や竹に覆われているため、風雨に直接さらされることが比較的なかったからかもしれません。浸食のされにくい石質の石で造られたからかもしれません。

それにしても、ショケラに直接出会えたことはよかったです。

ちなみに、↓こちらの四夜叉は「くにさき史談 第九集」(くにさき史談会)では次のように紹介されています。

「四句文殺鬼」で、諸行無常=青、是世滅法=赤、生滅滅巳=黒、寂滅為楽=肉色とも言われています。それぞれの夜叉は異なった武器を持っています。

 

「四句文殺鬼」とはなんなのか?そのままの言葉では紹介されているサイトはなかったので、まずは殺鬼(せっき)を調べると「人を殺し、全てを滅ぼす恐ろしい鬼」「無常をたとえていう語」とあります。

 

四句文とはなんなのでしょう?四句は「しく」と読むそうで別の言葉で「偈(げ)」というそうです。「偈(げ)」とは「教理や仏・菩薩 をほめたたえた言葉」ということです。

 

調べてみても「四句文殺鬼」が意味することがはっきりとはわかりませんでしたが、これら四体の夜叉がそれぞれ四句(しく)の意味をもつ鬼ということでしょうか。

 

「くにさき史談 第九集」で紹介されていた「諸行無常、是世滅法、生滅滅巳、寂滅為楽」の言葉を続けて訳すと以下のようになるそうです。引用:三法印(お釈迦様基本の説法)

 

諸行無常(しょぎょうむじょう)…すべての存在は移り変わる
是生滅法(ぜしょうめっぽう)…是がこの生滅する世界の法である
生滅滅已(しょうめつめつい)…生滅へのとらわれを滅し尽くして
寂滅為楽(じゃくめついらく)…寂滅をもって楽と為す

 

様々なとらわれから解放されれば平安な境地に至るということでしょうか。同サイトによると、これを和訳したものが「いろは歌」とも紹介されています。

 

ひとつの庚申塔のなかに、こんな教えが刻み込まれているということを想像すると興味深いです。

 

庚申塔とショケラ

くにさき史談会が発行している「くにさき史談 第九集」を読んでいると、国東半島の庚申塔にショケラと呼ばれる女性像をぶら下げる青面金剛像があるということを知りました(P9、P10)。その庚申塔がある場所は大分県国東市国東町横手小川という地区。

 

国東半島中の庚申塔についてまとめあげた小林幸弘氏の「国東半島の庚申塔」を拝見すると、整理番号「24126」に掲載されていました。

 

青面金剛の左手に小さな人が頭部をつかまれているのがわかります。拡大したものがこちら。「くにさき史談 第九集」では「腰巻半裸体の女性」と紹介されています。

ショケラとはなんなのか、気になり調べてみると「ショケラの語源」のサイトでは”青面金剛金剛が下げている女人像”と窪徳忠氏の説が紹介されています。ショケラが悪いことをするので、その髪を青面金剛が押さえつけているということ。

 

同サイトでの解説をおおざっぱにまとめると「ショケラ」とは庚申信仰ででてくる三尸虫(さんしちゅう)という虫が語源のようです。庚申信仰では三尸が悪さ、というか人間の罪悪を天帝に告げるために庚申の夜に、人間の体から抜け出すと言われているので、その行動とショケラの行動がつなげられたのでしょう。語源については同サイトに詳しく解説されています。

 

 一方、庚申塔の研究 (清水長輝著)では、P109にショケラは青面金剛の原型であるマカカラという神像のころからきているのでは?という説が紹介されています。少し長いので、その部分を箇条書きでご紹介します。

 

青面金剛が、大黒天の原型であるマカカラから出て、そのマカカラが人身を手に持っている

 

〔慧琳音義〕の一頭八手像には「左第二手、一餓鬼の頭髪を把る」と記してあり、胎蔵界曼荼羅外金剛部院にある三面六手像は[諸説不同記]によれば「次手は人髪を持つ」とある

 

青面金剛が人身を持つことは、忿怒大黒天像を参考にしてつくられたためと考えられる

 

[庚申信仰]によると福井県美浜町麻生ではこの女人像をショケラと呼んでいる

 

ショケラは少しずつ言葉が違ったりして、庚申の呪文にも唱えられるが、もとはシヤ虫やシシ虫と同じように三尸の日本的よび名であることは、同書に説明されてある

 

そうするとこの女人像は三尸をあらわしていることになるが、これはおそらくあとから結びついたものであろう 

庚申塔青面金剛像が刻まれはじめたころから人身は持たれていて、それが後に…福井あたりで…「ショケラ」と名付けられたという説なんですね。

 

日本のどの地域からショケラは出現してきたのか?はっきりとここからの発祥と断定している情報はありませんが、「ショケラの語源」のサイトを見てみると、どうも関西あたりから出てそれから北側へ伝播し、それから九州のほうへ移っていったようです。もしかしたら関西からでて、それから南北へ伝播したということも考えられます。「くにさき史談」では…

 

今のように、カメラやパソコンなど情報伝達手段のない江戸時代に、どのようにして「庚申塔」や「ショケラ」が伝播していったのだろうかと不思議でなりません。

 

…とあります。ショケラをもつ青面金剛像は多くはないものの国見町で17基、国東町で25基、武蔵町で3基、安岐町で6基見つかっているそうです。改めて調べてみると「夜叉」が刻まれる庚申塔のほうが少ないのですね。

直方市(のおがたし)の成金饅頭

福岡県直方市の銘菓 成金饅頭。どら焼きっぽいけど餡がウズラ豆からできてる。大きい豆がゴロゴロでどら焼きとはちょっと食感が違いますね。


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明治三十年代初め穀物商が投機に失敗したウズラ豆を菓子屋に譲ったそう。それを使って饅頭に加工して売り出しヒット...というのがひとつの起源説。