日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

卵の王様 貴黄卵(きおうらん) 直売所で買って食べてみた 福岡県鞍手郡

大分県の宇佐や、豊後高田市では、戦後の食糧難をのりきるために、たくさんの養鶏場ができました。それに伴い、鶏卵を販売するところもたくさんあります。だから、めずらしい、鶏卵の自動販売機なんかもあります。

 

参照:『これはおいしい! 卵の自動販売機で売られている卵の新鮮さがすごい

 

 

福岡県に移り住んでから、こういう、鶏卵の自販機はみかけたことがありません。残念。どこかに、おいしい卵は売られていないかな…と探してみました。そんなときに、ここを見つけました。

「卵の王様」と銘打つ貴黄卵(きおうらん)を販売する、貴黄卵生産直売農場

 

場所:福岡県鞍手郡鞍手町大字中山1024−1

地図:Google マップ

 

広々とした敷地に、砂利の駐車場があって、駐車しやすい場所でした。たしか、入口の扉に書かれていた営業時間は、夜7時までだったと思います。比較的遅くまでやってらっしゃいますね。

店内には、卵以外にも、つけもの、こんにゃく、野菜などが売られていました。でもやっぱり卵がメインで、カウンターにたくさんの卵がおいてありました。

 

卵のサイズで分けられてて、プラスチックパックとか、網ネットとか色々。個数で売られているものや、重さ(キロ数)で売られているものもありました。ぼくは記憶力が弱いので、詳細は挙げられないのですが、たしかひとネット500円弱とかそんな感じでした。

 

インターネットで貴黄卵のことを調べてみると、ネット販売が主流のようで、楽天市場で購入ができますね。お店のなかも、全国へ向けての配送作業でいそがしそうな印象でした。

 

鞍手町が誇る上質素材のひとつが「貴黄卵」です。「卵の王様」とも呼ばれるこの卵は徹底して管理された親鶏から産まれました。


デリケートな親鶏をストレスから守るために、鶏舎は四季を通して常に快適な室温、湿度、暗さに保たれています。また独自の飼料には海藻の粉末、カニの甲羅の粉末、オリゴ糖、納豆菌などを配合。


卵の栄養価が上がるだけでなく、親鶏の体内で育ったビフィズス菌が悪玉菌を退治してくれます。そうして産まれた貴黄卵の黄身は、鮮やかなオレンジ色。良質な蛋白質、ビタミン類、ヨードなどを豊富に含みます。

 

参照:【楽天市場】【九州産特選地卵】貴黄卵20個セット(Lサイズ)【卵の王様・貴黄卵】:日本通販ショップ楽天市場店

 

ちなみに、屋外の看板には「低コレステロール、低脂肪、低カロリー」と書かれていましたよ。

【広告】

 

 

お店で売られていたなかで、お手頃な価格だった、プラスチックパックのものを買わせてもらいました↓10個で310円。一個あたり31円。ちょっと割高ですが、味のほうはどうでしょうか?

おお、大分県の自販機で買った卵と同じように、卵黄が濃い!ちょっと赤みがかってます。そして白身がプルプル。ちょっとや、そっとで卵黄がつぶれませんね。

醤油をかけて…

卵黄をつぶすと、その濃厚さがきわだちます。卵のいい香りが鼻にぬけていく~、おいしい~。

卵かけごはんにして食べても安心っていうのは、いいですね。

 

600匹のコイが空をおよぐ 小倉南区 桜橋

 地域でどんなイベントが開催されているのか、情報を集めるのに、以前は各自治体のホームページなんかを、探してまわっていました。でも、ツイッターを使えばいいんだ、ということを覚えて、イベント情報を発信してくれそうなところをフォローしています。

 

そんななか、北九州市小倉南区で、600匹のこいのぼりが掲揚されているという情報が目に入りました。…といっても2017年は5月13日の土曜日まで。なんやかんやの都合で、なかなか行けず、訪れた日は掲揚の最終日。あきらめかけてましたが、日没ぎりぎりで、間に合いました。

 

場所:福岡県北九州市小倉南区 国道322号線

地図:Google マップ

 

圧倒的な存在感ですね、こいのぼり。水面に映る影もきれいです。

小倉南区は、北区と比較して、車や人でゴミゴミとしていなく、駐車スペースも探せばそれなりにありました。国道322号線は、けっこうな交通量ですが、いちど脇道に入れば車量は少なくなりました。

 

川沿いに、駐車禁止ではないスペースがあるので、適当に車を停めさせてもらい、ゆっくりと鑑賞。

 たぶん、掲揚が最終日ということと、日没間際だったということで、他に見学をされている人は見かけず、ゆっくりと駐車できたんだと思います。

宿場町の「御茶屋」というのは豪華な旅館 内野宿の御茶屋跡

長崎街道の宿場町、内野宿(うちのしゅく)。内野宿のなかで、御茶屋跡というのが、内野の中心部から東側500mほどのところにあります。↓白色で囲んだ部分が、内野の宿場町だったところ。いわば繁華街。現在では、こじんまりとした集落となっています。

内野の集落中心部…から、東側へ歩いていくと、JR筑豊本線をまたいで、田畑のなかを進むと御茶屋跡があるんだそうです。

 

「…だそうです」というのは、実際にはここまでは行ったことがないんです。いずれ行ってみたいのですが、今回は、この御茶屋について調べてみようと思ったわけです。

 

↓この「太宰府天満宮 米山越道」の石塔から、東に歩いていきます。

 

宿場町にある「御茶屋」というのは豪華な旅館のこと

↓下の割図をみてみると、御茶屋というのは、やけに大きな敷地をもっているな…という第一印象です。御茶屋といっても、たぶん、現在でいう喫茶店のような場所じゃないんだな…となんとなく感じます。では、御茶屋とはどんな場所だったの?

 

「内野の大いちょう」から、さらに町からは外れた場所に、御茶屋はあった

 

 

 

長崎街道(大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還)」によると、御茶屋というのは、大名など位(くらい)の高い人たちが泊まるための宿屋さんだったようです。

 

一方、大名のお供である足軽槍持・籠をかつぐ駕籠(かご)かきなどは、普通の宿…旅籠(はたご)に泊まっていました。 

 

昔は、大名が泊まる場所は、「本陣(ほんじん)」と呼んでたそうです。でもこの長崎街道では、本陣とは呼ばないで、お茶屋と呼ばれていました。

 

内野の御茶屋は↓下のような詳細な図面が残されているそうです。なんて多くの部屋があって、大きい建物なんでしょう!

内野御茶屋絵図(安田家久家 所蔵)「長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) 」より

 

ずいぶん豪華な旅館という感じですね。googleストリートビューで、この御茶屋跡を見てみると、こんな感じです↓

御茶屋跡は、手入れされた草原となっています。

 

内野宿をはじめとして、この長崎街道を少しずつ周っていますが、ちょっとわかってきたことがあります ↓このような「猿田彦大神」と刻まれた石塔が、街道沿いにたくさん祀られていることです。たぶん、旅の安全祈願のための道祖神なんでしょう。安全祈願とともに、旅人がたくさん往来する街道だから、悪い気が町に入ってこないように…という願いも込められているんだと思います。

さらに、旅人が迷わないようにという機能的な意味で、今でいう道しるべの看板が、昔でいうこの道祖神だったんでしょうね。道祖神庚申塔…同じ石塔で似たような形態だったので、同じように考えていたのですが、昔の民俗風習について調べていくと、ぜんぜん違うものということが、わかってかました。

少しずつでも、知らないことを知っていくことは楽しいですね。

白山神社の庚申塔 北九州市若松区 赤島町

事解男命(ことさかのおのみこと)
伊弉冉命(いざなみのみこと
菊理姫命(くくりひめのみこと)

 

の三神が祀られている白山神社。北九州市の若松区を車で走っていると、以前から、この神社は古そうだな…という印象を持ってた神社です。ここなら、庚申塔が祀られているんじゃないかと思って、今回、足を運んでみたわけです。 

場所:福岡県北九州市若松区赤島町14−12

地図:Google Maps

 

神社のある場所は、家々が密集した住宅地。駐車できるスペースがないんじゃないかと、ヒヤヒヤしながら、神社周囲を車で周ってみました。幸いにも、境内の西側に、車4、5台ほど停められる専用の駐車場がありました。

 

境内にあがり、ひとまず参拝。境内を見渡してみても、庚申塔らしきものがなく、一度は、あきらめて駐車場に戻りました。

 

ただ、思い直して、もう一度境内を散策してみることにしました。じっくりと探したら、もしかしたら、拝殿の裏側に庚申塔が祀られているかも。 

はじめて、訪ねる神社はちょっと緊張してしまいます。土地勘がないので、あまり神社内をうろうろしてたら、近所のひとに怪しい人と睨まれるんじゃないかと、なかなか怖い。気が小さいのです。

 

手早く、境内を散策してみると、拝殿の右側。赤島稲荷が祀られている、すぐ右隣に、数基の石塔が祀られていました。ありました。庚申塔です。

 

文字が、もう風化してて、ほとんど僕には何が刻まれているかが、判別できませんでした。ただ、中央部分に「庚申塔」と刻まれているようです。その両隣につくられた月日が刻まれているようですが、これは読み取れませんでした。

自然石で、そのまま作られたものではなく、ちゃんと墓石のように装飾がほどこされています。

↑上の庚申塔の左隣にも、自然石の塔が立てられてて、こちらも、もしかしたら昔、何か文字が刻まれてたのかもしれないけど、判別はできませんでした。もしかしたら、庚申塔ではないのかも…

↑上の石塔から、ひとつ祠をはさんで左側へ目を移すと、一番初めに見た庚申塔と同じタイプの石塔がありました。こちらも正面の文字は判別できず。

ただ、石塔の両側に年月が刻まれていました。「宝暦十 天」。宝暦十だから西暦1760年ということはわかる。でも「天」ってなんでしょう?宝暦十年は、庚辰(かのえたつ こうしん)の年。庚申塔がつくられやすかった年なんでしょうかね。

もうかたほうの面には、三月十五日と刻まれていました。

白山神社からみる、洞海湾の景色はきれいでした。

九州の街道 内野宿(うちのしゅく) その街並みを歩いてみた③

内野宿(うちのしゅく)は九州に大きく8本ある街道のひとつ、長崎街道にある宿場町。

 

場所:福岡県飯塚市内野

地図:Google マップ

 

その内野宿を散策してみたんですけど、この記事をまとめるついでに、長崎街道についても調べてみました。

 

ひとことで、長崎街道といっても、他にも長崎街道を示すたくさんの名前があって、ややこしいんです。そこで、長崎街道の名前について、少し整理してみました。

 

やっぱり長崎街道という名がシンプル


長崎街道は、他の呼び名として…
・長崎路
・長崎海道
肥前街道
豊前街道
…などと呼ばれています。

 

肥前街道(ひぜんかいどう)は、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」で、“肥前の諸街道”として紹介されています。肥前は、佐賀県の北側、今でいう唐津市あたりをさすようですね。

いっぽう、豊前街道(ぶぜんかいどう)の豊前は、今でいう小倉・門司・田川・行橋・豊前・京都・築上・中津・宇佐あたりをさすようです。だから肥前街道と、豊前街道は、長崎街道の一部をあらわす名前なんですね。ちょっとずつわかってきました。

 

さらに、事態をややこしくしているのは、福岡藩内で別の呼び名があったことです。福岡藩内では、冷水道(ひやみずみち)、または筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれていました。

今回、ご紹介している内野宿と、山家宿とのあいだに、長崎街道最大の難所である冷水峠(ひやみずとおげ)があるのですが、この名前をとって、冷水道となったんですね。もうひとつ、筑前六宿については、この図のように、福岡県内では6つの宿場町があったため、六宿となったんですね。


・黒崎宿
・木屋瀬(こやのせ)宿
・飯塚宿
・内野宿
・山家(やまえ)宿
・原田宿

 

まあ、長崎街道にはいろいろ別名があるけど、街道全体をシンプルにストレートに表しているのは、やっぱり長崎街道ですね。

 

街道最大の難所開通は1611年頃

宿場町である山家(やまえ)宿は1611年に開設、内野宿は1612年に開設されたんだそうです。だから、ふたつの宿場町の間にある冷水峠は、だいたい1611年頃に開通されたと考えられています。

当時の日本を支えた長崎街道

1639年から1854年まで、日本は鎖国をしていたのですが、長崎県の平戸に限定して、外国船の入船を許可していました。だから、異文化の品物や情報が行き交う、この長崎街道は、当時の日本発展においては、けっこう大事な役割をしていたんですね。

 

内野宿の古い建物たち

そんな長崎街道の6番目の宿場町である、内野宿。ここは、福岡県の宿場町のなかではもっとも、宿場の面影を残す場所です。

↑この漆喰(しっくい)が素敵な建物は、両替商を営んでいた「小倉屋」。建物の前に立てられている看板によると、明治13年に建てられた新築?なんだそうです。

 

↑こちらは、酒造業を営んでいた「伊藤家」。木の格子が整然とならんでいて、美しいです。これ調べてみると、木格子窓というらしいです。内野宿を歩いていると、この木格子窓を、ちらほらと見かけることができました。

 

こちら、下町の中ほどにある、酒造業をやっていた「松屋」も木格子窓を採用してますね。

この松屋筑前六宿で残っている建物のなかでは、一番古いものと言われています。(参照:アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町 アクロス福岡文化誌編纂委員会編

 

宿場町の入口 構口(かまえぐち)

宿場町の端っこにあたる部分…いわゆる宿場町の玄関口を、構口(かまえぐち)という。

 

構口は筑前の宿駅に特徴的な施設で、宿場の出入り口を示す築地塀(ついじべい)である。方位に関係なく、江戸に近い方を東構口、遠い方を西構口と呼んだ。(参照:アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町 アクロス福岡文化誌編纂委員会編

↑この図だったら、右側の下町側にある構口が東構口。今だったら、内野小学校の真ん前に位置します。 

 そして西構口は、老松神社のすぐ近くにあります。

西構口とはいっても、今では↓このように何も残っていません。たしか、木屋瀬宿(こやのせじゅく)では、構口の塀の一部が残っていたはずです。

 

さいごに

長崎街道の宿場町のひとつ…内野宿を歩いてみたわけですが、たしかに、何もないといえば何もない。でも、昔、ここには何があったのか、想像をめぐらして歩いていると、これはこれで楽しい旅になります。

 

あとから、こうやって振り返ってみても、内野宿に関しても、まだ見れていないスポットがあることがわかります。例えば、この御茶屋跡とか…

できれば、こういう見落としがないよう、次からの街道巡りには、しっかり下調べして出かけてみたいと思いますね。

 

九州の街道 内野宿(うちのしゅく) その街並みを歩いてみた②

その昔、九州には大きな街道が8本ありました。そのうちの一つ…長崎街道。各所に旅人が泊まることができる宿場町が6つあり、筑前六宿と呼ばれています。その中のひとつに、内野宿(うちのじゅく)がありました。

 

場所:福岡県飯塚市内野

内野宿中心部までの地図:Google マップ

その内野宿に、先日、観光へ行きました。観光といっても、お土産を買ったり、昔ながらの郷土料理を食べたりしたわけではなく、ただ歩いて散策してみただけ。歩くだけなら、小さな町という印象の集落でした。

 

町を端から端まで歩いても、まあ、15分もあれば歩ききれるほどの距離。600mほどしかありません。でも、古い街並みが残る内野宿を歩いていくのは、個人的には楽しい時間でした。

山麓のせまい傾斜地に、内野宿はつくられたので、↑上の写真のように、町全体にアップダウンのなだらかな坂があります。

今回の記事では、その内野宿のなかの、宿屋にスポットを当てて、写真とともにズラズラとアップしてみます。けっこう古い感じの家が残っていますが、明治時代以降に立てられた建物が大半なんだそうです。

内野宿には宿屋が8件あったそうで、だいたいの配置を↓下の看板に赤で示しました。

 

 

①若松屋

②郡屋

松屋

肥前

⑤博多屋

⑥長崎屋

⑦恵美須屋

⑧大黒屋

…このような配置になってたそうです。

 

中でも、⑥の長崎屋は、あのシーボルトが泊まったという伝承が残されています。こちらでは、3日前までに予約すれば、地元食材を使った郷土料理が食べられるそうです。

内野宿にはゴールデンウィーク中に、訪れたのですが、他の観光客らしきかたたちは、ちらほらとしか見られず、ちょっと寂しい感じもしました。でも、まあのんびりと散策できるのがよかったですね。

 

↓そしてこちらは、今では展示館となっている④の肥前屋。

 

↓こちらは、もう現在では建物がなくなってしまっている①若松屋跡。

 

↓こちらは、⑧大黒屋。内野宿の元宿屋を見て回ると、当時の建物がそのまま残っているというわけではなさそうで、改修されたり、建て直されたり、取り壊されたりしているようです。元宿屋があった場所の家々には、今も人が住まれているようですね。

かろうじて、⑥の長崎屋は明治時代の建物が残っているとのこと。そうそう、その長崎屋は、休憩所、兼展示場で100円の入場料で立ち寄れるそう。また今度行ってみよう。

この記事をまとめるときに、調べてわかったのですが、内野宿には名産品があるようです。参照:(内野宿 名産品のご紹介 | 長崎街道 『内野宿』

なかでも、「梅酢のサイダー」は気軽に買って飲めそうで、これも次行ったときに試してみたいです。

 

次回は、宿屋さん以外の建物についてアップしてみたいと思います。

九州の街道 内野宿(うちのしゅく) その街並みを歩いてみた①

福岡県飯塚市内野には、昔、九州に8本あった大きな街道のひとつ…長崎街道が通っていました。街道には、各所に旅人が泊まることができる宿場町があり、その中のひとつに、ここ内野宿(うちのじゅく)があったそうです。

 

場所:福岡県飯塚市内野

内野宿の中心地あたりまでの地図:Google マップ

 

↓下の地図だったら、赤い線が長崎街道。飯塚と山家の宿場の間に、内野宿がありました。今回、ここに足を運んだのは、「内野の大銀杏」の近くの十三仏を以前に見に来たことがあったからです。

アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町」(アクロス福岡文化誌編纂委員会編)から引用

 

↓このみごとな、イチョウの樹と、十三仏。そして、周りののどかな田畑と山々のつらなる景色。それが、なんとも印象的な場所だったので、再度、訪問してみたいと思ったから。もうちょっと、内野宿があったという町を歩いてみたかったから。

 

ooitasyuyu.hatenablog.com

 だいたい、人が一日歩いてちょうど日が暮れるくらいの距離ごとに、宿場町があったそう。ここ内野宿から次の山家宿までの間に、冷水峠(ひやみずとうげ)という、長崎街道最大の難所があったので、旅人は内野宿で休養をとってから、「よっしゃ」と難所にとりかかっていったんでしょう。

 

内野宿の構造について大雑把にまとめてみた

内野の町は、ほんとに小さな規模の集落。筑前内野という駅はあるものの、周囲も繁華街等があるわけではなく、のどかな田園風景が広がっています。

↑町の端から端までは、わずか600mほど。厳密にいうと、もうちょと大きいのですが、宿場町の名残ががみられる場所は、この600mほどの範囲でした。

 

長崎街道が通っていた、町のメインストリートを南西に下っていくと、途中こんな建物が右手に見えてきます。

これ、町のコミュニティーセンターのようなところなのかな?アイスクリームなんかも売ってて、売店も兼ねているようです。

 

この建物のすぐ左側から、小路と呼ばれる、「内野の大銀杏」へ向かう道が伸びています。この小路は、山越えして太宰府へと延びているそうです。

この小路を境にして、北側を下町、南側を上町と呼びます。地図を見ていると、なんだか、感覚的に上下が逆のような感じで、ちょっと違和感を覚えますが、こういうものだと受け入れます。

長崎街道は、内野宿をでて南西に進み、冷水峠を経由して、次の宿場町である山家へ至ります。

アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町」(アクロス福岡文化誌編纂委員会編)から引用

 

宿場町にはたくさんの職業があった

内野の町なかに、「長崎街道 内野宿展示館」という場所があって、その建物の壁に↓こんなものがかかっていました。内野宿には、昔、どんな職種の人たちが住んでて、どこにそれぞれの人たちが住んでたのか、地図になっているものです。

すごい詳しいですね↓。飴屋、氷屋、あそび人なんてものもあります。そうか、昔は風呂屋なんてものもあったんですね。

でも宿場町らしく、旅籠(宿屋)が多いようです。この看板がかかっている展示館も、昔は、肥前屋(ひぜんや)という宿屋さんだったそうです。

 

記事が長くなりそうなので、今回はここで終わり。次回は、実際、町を歩いた写真をボチボチと載せてみたいと思います。