内野宿(うちのしゅく)は九州に大きく8本ある街道のひとつ、長崎街道にある宿場町。
場所:福岡県飯塚市内野
地図:Google マップ
その内野宿を散策してみたんですけど、この記事をまとめるついでに、長崎街道についても調べてみました。
ひとことで、長崎街道といっても、他にも長崎街道を示すたくさんの名前があって、ややこしいんです。そこで、長崎街道の名前について、少し整理してみました。
やっぱり長崎街道という名がシンプル
長崎街道は、他の呼び名として…
・長崎路
・長崎海道
・肥前街道
・豊前街道
…などと呼ばれています。
肥前街道(ひぜんかいどう)は、司馬遼太郎氏の「街道をゆく」で、“肥前の諸街道”として紹介されています。肥前は、佐賀県の北側、今でいう唐津市あたりをさすようですね。
いっぽう、豊前街道(ぶぜんかいどう)の豊前は、今でいう小倉・門司・田川・行橋・豊前・京都・築上・中津・宇佐あたりをさすようです。だから肥前街道と、豊前街道は、長崎街道の一部をあらわす名前なんですね。ちょっとずつわかってきました。
さらに、事態をややこしくしているのは、福岡藩内で別の呼び名があったことです。福岡藩内では、冷水道(ひやみずみち)、または筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれていました。
今回、ご紹介している内野宿と、山家宿とのあいだに、長崎街道最大の難所である冷水峠(ひやみずとおげ)があるのですが、この名前をとって、冷水道となったんですね。もうひとつ、筑前六宿については、この図のように、福岡県内では6つの宿場町があったため、六宿となったんですね。
・黒崎宿
・木屋瀬(こやのせ)宿
・飯塚宿
・内野宿
・山家(やまえ)宿
・原田宿
まあ、長崎街道にはいろいろ別名があるけど、街道全体をシンプルにストレートに表しているのは、やっぱり長崎街道ですね。
街道最大の難所開通は1611年頃
宿場町である山家(やまえ)宿は1611年に開設、内野宿は1612年に開設されたんだそうです。だから、ふたつの宿場町の間にある冷水峠は、だいたい1611年頃に開通されたと考えられています。
当時の日本を支えた長崎街道
1639年から1854年まで、日本は鎖国をしていたのですが、長崎県の平戸に限定して、外国船の入船を許可していました。だから、異文化の品物や情報が行き交う、この長崎街道は、当時の日本発展においては、けっこう大事な役割をしていたんですね。
内野宿の古い建物たち
そんな長崎街道の6番目の宿場町である、内野宿。ここは、福岡県の宿場町のなかではもっとも、宿場の面影を残す場所です。
↑この漆喰(しっくい)が素敵な建物は、両替商を営んでいた「小倉屋」。建物の前に立てられている看板によると、明治13年に建てられた新築?なんだそうです。
↑こちらは、酒造業を営んでいた「伊藤家」。木の格子が整然とならんでいて、美しいです。これ調べてみると、木格子窓というらしいです。内野宿を歩いていると、この木格子窓を、ちらほらと見かけることができました。
こちら、下町の中ほどにある、酒造業をやっていた「松屋」も木格子窓を採用してますね。
この松屋。筑前六宿で残っている建物のなかでは、一番古いものと言われています。(参照:アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町 アクロス福岡文化誌編纂委員会編)
宿場町の入口 構口(かまえぐち)
宿場町の端っこにあたる部分…いわゆる宿場町の玄関口を、構口(かまえぐち)という。
構口は筑前の宿駅に特徴的な施設で、宿場の出入り口を示す築地塀(ついじべい)である。方位に関係なく、江戸に近い方を東構口、遠い方を西構口と呼んだ。(参照:アクロス福岡文化誌1 街道と宿場町 アクロス福岡文化誌編纂委員会編)
↑この図だったら、右側の下町側にある構口が東構口。今だったら、内野小学校の真ん前に位置します。
そして西構口は、老松神社のすぐ近くにあります。
西構口とはいっても、今では↓このように何も残っていません。たしか、木屋瀬宿(こやのせじゅく)では、構口の塀の一部が残っていたはずです。
さいごに
長崎街道の宿場町のひとつ…内野宿を歩いてみたわけですが、たしかに、何もないといえば何もない。でも、昔、ここには何があったのか、想像をめぐらして歩いていると、これはこれで楽しい旅になります。
あとから、こうやって振り返ってみても、内野宿に関しても、まだ見れていないスポットがあることがわかります。例えば、この御茶屋跡とか…
できれば、こういう見落としがないよう、次からの街道巡りには、しっかり下調べして出かけてみたいと思いますね。