福岡県福津市にある大石という地区に庚申塔を探しに行ってみました。
ここは、新原・奴山古墳群がちかくにあって、のどかな田園風景が広がっています。大石はこんな感じの山裾にある小さな集落ですね。
大石の奥まったところに、お宮があります。googleマップで調べると「宗像四国西部霊場本尊大日如来大石第四十二番」と表示されます。このお宮の境内と参道入口に庚申塔があるらしいのです。
お宮近くには、車が数台停められるような広場があります。ここに駐車させてもらいました。まずは参道入口の庚申塔を目指します。
現在地から福津市大石の参道入口の庚申塔:Google マップ
参道入口は↓こんな感じ。小川に架かる橋で、お宮方面に分岐となっています。
↓階段手前で三つの石がたっています。階段にいちばん近い、高い石塔が庚申塔です。
↓庚申尊天と刻まれる文字塔です。近所の方に話を聞くと、今ではこの庚申塔を持ち回りで祀るメンバーである庚申講はもうなくなったとのこと。庚申塔を定期的に祀って、寄り合いを開くような行事もなくなったそうです。
五来重氏が著した「石の宗教 (講談社学術文庫)」では、日本庶民の庚申講は中国から伝来した三尸虫信仰とは、ちがう形で作られてきた説が紹介されています。簡単にまとめると、作物の豊作祈願とか、ご先祖様の供養を目的として庚申塔が立てられたようです。
「石の宗教」では、庚申講はこんな感じで紹介されています↓。福岡県でよくみかける「猿田彦神」の文字塔についても書かれていてわかりやすかったです。
日本では六十日ごとの庚申の日に当番の宿に講中があつまって夜明しをするのが庚申待である
庶民の庚申講には、神なり仏なりが存在して、これをまつり、供養することによって禍を去り豊作を得ようとした
猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることである。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を庚申講の本尊として拝んだのであって、三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰であった。そして「田の神」というものは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神である。
民衆は、庚申は豊作の神と信じていた。その豊作も庚申講で供養する先祖のおかげとしていたもので、庚申講には念仏がつきものであった。したがって庚申塔には「申待供養」とか「庚申供養」という供養の文字を入れることが多い。
大石集落の庚申塔に話をもどします。↓庚申塔の下のほうに、おそらく庚申講メンバーの名前が刻まれています。
↓年はわからないけど、十月吉日の日付が確認できました。
お宮へ上がっていきます。
お宮にはいって左側に、もうひとつ庚申塔が祀られていました↓。
こちらも庚申尊天と刻まれています。どうも「宝暦四戌年」と日付が刻まれているようです。知識がなくて、「四戌年」というのはどういう意味なのかわかりませんでした。
↓庚申尊天の左側には十二月吉日の文字。
↓大きな庚申塔の右となりに、もうひとつ小さな庚申塔でしょうか。塔右側に三徳?という文字かな。中央の庚申の文字の上に梵字が刻まれているのでしょうか。形からすると、釈迦如来か地蔵菩薩の梵字のように見えます。うーん、知識が浅くてわからないことだらけです。
このお宮とはまた別のところに、いくつか庚申塔があるそうなので、そちらのほうにも確認のために行ってみることにしました。
歩いて1分ほどの距離。↓民家の軒先に庚申塔が祀られていました。
現在地から福津市大石 民家の庚申塔:Google マップ
さすがに、勝手に敷地内に入っていくのは気持ちがはばかられたので、遠いところから一枚。ひとつの集落のなかだけでも、たくさんの庚申塔が祀られていました。福津市にはほんとにたくさんのコウシンさまが祀られているんですね。
神は本社の社殿の中に常在するのではなくて、祭のときだけ、人間の請に応じて石や木に降臨影向する。石はその神の座であるので、「磐座」と呼ばれるのである。
自然石を石神としてまつるのは、自然の木の枝をヒモロギとしてまつるのとおなじく、もっとも原始的なまつり方である。(石の宗教)
神社という特別な場所だけではなくて、自然のあらゆるものに神がやどっているという、日本に古くからある独特の信仰を知っていくはおもしろいですね。