2012年11月3日に撮った大分県 九重連山のひとつ三俣山(みまたやま)。うっすら霜が降り、白く化粧されています。こののっぺりとした山容が非日常的。
”まろやか”な甘さ やさしい味の「菓子工房 響」でクリスマスケーキを注文してみた 北九州市若松区
「菓子工房 響」というお店で買ったクリスマスケーキが、とてもおいしかったので、ご紹介します。
場所:福岡県北九州市若松区修多羅2-4-10
地図:Google マップ
若松区を、洞海湾に沿って東西に走る国道199号線。この国道を車で走っていると、よくこのお菓子屋さんが目に入って、気になっていました。外観からは「ずっと昔からやっているお菓子屋さんかな」という感じ。調べてみると、2002年に開業したとのことで、まだ15年ほどしか経っていないんですね。
最近のきらびやかなケーキ屋さんとはちがった雰囲気のお店という感じです。お店の隣に車3台ほどの駐車スペース。
お店に入ると、たくさんの焼き菓子と、ショーウィンドウに種々のケーキが並んでいました。店員さんは年配の女性と、厨房にオーナーと思われるパティシエがひとり。オーナーは黙々とお菓子を作られていました。
クリスマスケーキを買う以前に、店に行ったときは焼ドーナツ、レモンケーキを買って食べてみました。
こちらのサイト↓で「響」さんのことが紹介されていました。
菓子工房響(かしこうぼうひびき) (若松駅)|EPARKスイーツガイド
少し抜粋すると…
その時その時で一番美味しい状態で食べてほしい、そんなオーナーの思いが詰まったケーキたちです。 一つ一つゆっくり丁寧に作っているので、すべての商品が、安心でおいしく召し上がっていただける自信作です。
…と、この文章のように、「たしかに丁寧に作られているなぁ」と感じられるおいしいお菓子でした。表現が適切かどうかわかりませんが、なんだか”まろやか”な甘さ。だけど生地のいい香りがしっかりと鼻を抜けていきます。これはおいしい!と、はっきりとわかります。
今回、注文したクリスマスケーキは「ボストン」という名前のケーキ。カラフルで綺麗ですね↓クリスマス時期で、他にもたくさんケーキを作っているはずなのに、ひとりでひとつひとつ、このような綺麗なケーキを作っているんですね。
ケーキに乗っている砂糖菓子やクッキーひとつひとつが、いい感じの甘さなのでおいしいんですよ。
ご覧のように周りにはスライスされたホワイトチョコレートが、パラパラとまぶされています。ほんとに凝っていますね。このホワイトチョコが、口に入るとサラッと溶けていきました。
しっとりフワフワのスポンジの間には、フルーツが挟まれていました。
クリスマスケーキも焼き菓子もおいしかったので、「響」さんの他のケーキも食べてみたくなりました。誕生日やクリスマスなどのイベントごとで、またお世話になるでしょうね。
定休日は水曜日、営業時間は10:00 ~ 20:00なんだそうです。
長時間露光で遊ぶ
磯で、昼間の長時間露光で撮ったものです。比較的、波が荒いときだったので、岩礁が雲海に浮かぶ山のように写りました。ふつうの景色が、撮り方しだいで別の表情になるのが写真の魅力です。
撮った場所は、大分県の国東半島、長崎鼻です。豊後高田市に住んでいたときは、たびたび通っていた場所です。
長崎鼻(豊後高田市)
場所: 大分県豊後高田市見目
地図:Google マップ
昔は響灘を一望できた小田山古墳群 北九州市若松区 深町
google mapを眺めていると、北九州市若松区の深町という場所に古墳群があるようだったので、行ってみることにしました。小田山古墳群です。
地図:Google マップ
少し広域の地図で、古墳の場所を確認してみると、比較的海岸近くにあることがわかります。
事前にgoogle mapで小田山古墳群の情報を見てみると、1件だけの口コミでは、「整備がいきとどいていない」という、ちょっと不安な情報もありました。でも、ひとまず行ってみないことにはわかりません。
↓こちらが古墳のいりぐちです。情報通り、草がボウボウでかなりの荒れ具合です。
入口の横に案内看板が立てられていました。後に、看板に書かれている内容を転記します↓
階段を上って広場と思われる場所に出てみても…
ベンチがぽつぽつと設置されているので、散策路があったようです。かろうじて、獣道のような人の踏み跡がかすかに残っていたので、その踏み跡を頼りに歩を進めます。
↓途中からは、その踏み跡さえもなくなっており、草をかき分けるようにして進みます。
石碑↓が途中に確認され、その石碑の隣に横穴式の古墳が確認できました。
↓「7号古墳」と錆びた看板には書かれていました。
古墳の中を見てみると↓狭い通路のような穴の奥に、少し広くなった部屋があるようです。狭い通路が羨道(せんどう)と呼ばれ、その奥の広い部屋が遺体を納めた玄室(げんしつ)と呼ばれるようです。
数回にわけて遺体が埋葬されたそうです。
さらに古墳群の標高の高い方へ上っていくと…
全体が黒く錆びた看板のようなものが立っていました↓。でも何か書かれているのか判別できませんでした。
↓他にも数基の横穴式古墳が見られましたが、そのどれもが今では管理はされていないようでした。
入口付近にあった案内看板の内容を、以下抜粋します。
市指定史跡
小田山古墳群(おだやまこふんぐん)
小田山古墳群は、響灘(ひびきなだ)を見降ろす標高三五~五十五メートルの小田山丘陵の東側斜面に造られている。
この古墳群は、いずれも内部主体に横穴式石室(よこあなしきせきしつ)をもつ円墳(えんぷん)である。石室は遺体を納めた玄室とそれに通じる羨道(せんどう)からなっており、各古墳とも数回にわたって遺体が埋葬(追葬)されている。
出土遺物としては
須恵器(すえき)【坏(つき)、瓦泉(はそう)、盌(まり)、提瓶(ていへい)】、土師器(はじき)【高杯(たかつき)】、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、金環(きんかん)、ガラス玉等がある。石室の形態や出土した遺物から六世紀後半の古墳群と考えられている。
大正時代初めまで大小併せて五十数基の古墳があったといわれているが、周辺の宅地化により大部分が失われてしまった。現在は、十三基がほぼ完全な状態で残っている。また、平成元年度に行われた分布調査では、周辺から新たな古墳が発見されている。
昭和四十六年に古墳公園として整備された。
仲哀隧道(ちゅうあいずいどう)の資材を運ぶために造られた福岡県の石橋 呉川眼鏡橋 田川郡香春町
福岡県田川郡に仲哀隧道(ちゅうあいずいどう)というトンネルがあります。ここは今では通行禁止となっていますが、明治23年に開通してからはたくさんの人々が、ここを抜けて京都郡(みやこぐん)方面へ往来していたそうです。
この仲哀隧道を開通させるための工事資材を運ぶための橋が↓この呉川眼鏡橋です。明治19年に造られた石橋です。福岡県で石橋を見かけることは珍しいとおもっていたのですが、石橋の近くにある案内看板によると、福岡県内には54基ほど石橋があるんだそうです。
場所:福岡県田川郡香春町鏡山
地図:Google マップ
地形図で、仲哀隧道と呉川眼鏡橋の位置関係を見てみると↓このようになります。呉川眼鏡橋から、くねくねとした道が仲哀隧道へと続いていることがわかります。この、くねくねした道から仲哀隧道付近までを七曲峠と呼び、別名を仲哀峠(ちゅうあいとうげ)と呼びます。
どうして仲哀峠と呼ぶのか?それは、仲哀天皇が熊襲(くまそ)という種族を攻めるとき、この峠を通ったという伝説があるからだそうです。【参考「香春町郷土史会編 香春町歴史探訪 知的な散歩のために」(香春町教育委員会)】
大分県宇佐市院内町にも、たくさんの石橋が現存していますが、その多くが現役で働いています。こちらの呉川眼鏡橋も同じように現役です。石橋はほんとに頑丈に作られているんですね。
↑案内看板に掲載されていた橋の図面です。そして↓下にご紹介するのが、呉川眼鏡橋の詳細な説明です。そのまま転記します。
築造年代:明治19年
特徴:橋長8.6m、幅員4.2mの石造単アーチ橋
呉とはこの地をさす言葉で古くは呉姫の伝説からのその名が付きました。ここを流れる川を呉川と言い金辺川さらには彦山川と合流し遠賀川に注ぎます。
呉川眼鏡橋は、仲哀隧道の開通計画に伴い、掘削部材運搬等のために築かれました。広島の石工によって造られたと伝えられ、石材には甘木市の秋月眼鏡橋と同じく花崗岩(御影石)が使われた珍しい道路橋です。
アーチリブを構成するアーチ石は、がっちりと噛み合った切り石が丹念に組まれて美しい弧を描き、壁側、橋台にも均整がとれ、整然とした端正な姿の中にも力強い気品を備えています。
明治期以前に造られた当時のままの石橋は、遠賀川水系では唯一であり、(筑穂町延壽橋に関しては、移築されている。)美しい眼鏡橋の姿を損なうことなく今日に至り、仲哀隧道とともに呉のシンボルとして地元で親しまれています。
福岡県内に現存する石橋の数は、山間部などの人目に付きにくい箇所を覗いて、54基あります。このうち、筑後地方を中心とした県南部に50基が集中しています。県北では、遠賀川水系では2つと紫川水系で春吉眼鏡橋が現存するのみです。
~北部九州における石橋に関する研究、九州共立大学研究報告第9号、1995~
香春町・香春町教育委員会