日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

岩屋神社 境内の石仏群 福岡県朝倉郡東峰村 宝珠山

場所:福岡県朝倉郡東峰村 宝珠山 岩屋神社

座標値:33.432785,130.8749237

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英彦山(ひこさん)や求菩提山(くぼてさん)以外に、福岡県内にこのような場所があるとは知りませんでした。朝倉郡東峰村にある岩屋神社境内では、岩壁に建てられた社殿や、石仏群など珍しい景色をみることができます。

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この写真は岩屋神社本殿へと続く参道わきに祀られている石仏群です。シダが繁茂する岩の斜面に数十基の石仏がまられています。

 

まるで自然のなかにつくられたアート作品のようです。

 

2枚目の写真の左端にみえるのが、岩屋神社本殿へとつづく石段です。この石段がとても急で、足を置く場所もすくないので、大雨がふっていたこの日は特別に注意しながら、よじのぼるようにしてあがっていきました。

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高塔山のアジサイ 福岡県北九州市若松区 修多羅

高塔山のアジサイ。ウイルスの影響か、今年はアジサイの手入れはあまりされていないようです。雑草のなかに埋もれるようにアジサイが咲いています。心なしかすこし花の元気がないように感じます。

 

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場所:福岡県北九州市若松区大字修多羅

座標値:33.9015852,130.7968209

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依代 福岡県田川郡添田町英彦山

福岡県と大分県にまたがる英彦山(ひこさん)。標高約800m地点に高住神社が鎮座します。高住神社ちかくに苔むした巨石が存在感をもって鎮座しています。

英彦山の高住神社ちかくにあると巨石

場所:福岡県田川郡添田町英彦山

座標値:33.4850311,130.9311371
英彦山の高住神社ちかくにあると巨石

この巨石には注連縄こそつけられてはいないものの、その存在感をながめると巨石や樹齢の高い樹が、神さまの依代となってきたというのは、うなずける気がします。

猿田彦大神の別名がきざまれる庚申塔 福岡県嘉麻市上山田

福岡県嘉麻市にある射手引神社に「大田神」という神様の名前が刻まれる庚申塔が祀られています。その情報が得られたのは『庚申信仰 (小花波平六著)』P.219で、ここでは”大田神の庚申塔”が列挙されています。

 

こちらの写真が射手引神社の正面参道です。参道の階段をあがっていくと、すぐ右側に上山田公会堂と呼ばれる集会所があり、この集会所の脇に本殿へとつづくスロープがのびています。

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そのスロープ脇に自然石の庚申塔がまつられています。庚申塔が祀られている場所は、参道階段の脇でもあるので目のつく場所です。

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場所:福岡県嘉麻市上山田

座標値:33.555594,130.767277

 

庚申塔正面には「大田神」と刻まれています。そして裏側には「天明三癸卯 春三月吉日」とあります。天明三年は1783年、干支は癸卯(みずのとう)で記銘されている文字と整合します。

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この大田神というのは、どのような神様なのでしょう。『石の宗教 (五来重著)』Kindle位置番号2451には、大田神は猿田彦大神の別名であることが紹介されています。

少し長くなりますが、その箇所をぬきだしてみます。

 

庚申の神を「猿田彦大神」とするのは、申(さる)と猿の相通からきたことはもちろんのことであるが、天孫降臨のとき、その道の露払いをしたとあるように、禍をはらう力がこの神にあるとかんがえたことによるであろう。したがってこの神は「道の神」として道祖神ともなる。

 

しかしそれよりも重要なのは、猿田彦神は「大田神」ともよばれて、「田の神」すなわち豊作の神とされることである。庶民のあいだの庚申講は、後世になるほど豊作祈願になった。そのために「田の神」と同格の猿田彦神を庚申講の本尊として拝んだのであって、三尸虫説とはまったく異質的な庚申信仰であった。そして「田の神」というものは決して外来の神ではなくて、農耕を生活の手段とする日本固有の神である。

 

時代のながれとともに、猿田彦大神は庚申信仰のもともとの神様の役割をはなれて、「田の神」様としての役割をになうこととなったようです。

 

今回ご紹介した大田神の庚申塔が、「田の神」として祀られたのかどうかは不明です。

多賀神社にまつられる二基の庚申塔 福岡県北九州市小倉南区 志井

福岡県北九州市小倉南区の多賀神社に二基の庚申塔がまつられていました。ふたつとも一ノ鳥居のすぐちかくにまつられています。

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↓ひとつは「猿田彦太神」の両側に「天保十五年」「辰六月」の文字が刻まれます。天保十五年は1844年。

多賀神社の庚申塔 福岡県北九州市小倉南区

場所:福岡県北九州市小倉南区大字志井

座標値:33.813046,130.874558

 

もうひとつの庚申塔にも「猿田彦大神」が刻まれ、向かって左側面に「文化十四丑?五月」と刻まれています。文化十四年は1817年です。

座標値:33.813138,130.874601

 

どちらの庚申塔にも頭に〇が刻まれています。青面金剛などの像がきざまれる庚申塔では月と雲が刻まれることをよく目にしますが、この庚申塔の場合は、文字塔なので丸い形の月が刻まれているとは考えにくいです。円のなかには梵字らしきものが刻まれた痕跡はみられません。この丸、単独でなにかを意味しているのでしょう。