福岡県の浮羽町に、小塩(こじお)という地区があります。ここに「猿塚の碑(さるづかのひ)」という猿を祀った珍しい石碑があります。
場所:福岡県うきは市浮羽町小塩
座標値:33.314725,130.829938
もともとここに猿塚があり、後の世において碑が建てられたようです。どうして猿を祀ったのでしょう?それは地名である「小塩(こじお)」と関連があります。小塩という地名は、1200年代前半に、「小椎尾広澄(こじおひろずみ)参照」という人物がこの地を治めており、小椎尾(こじお)からきているといわれます。広澄氏の飼っていた猿に関する云われを、以下ざっくりとご紹介します。
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1200年代前半、小椎尾広澄氏がこの地を治めていました。広澄氏は狩猟が好きで家には犬、鷹(たか)、猿を飼っていました。取ってきた鷹をつないでいた縄に金の鈴をつけていました。その鈴を猿が取っておもちゃにしていました。それを見た馬飼いが鈴を取り返そうとしました。猿が逃げ回り山に入ろうとするため、馬飼いは猿を叩き殺し鈴を奪い返しました。
その後、不吉なことが家で起きるようになり、これを猿の祟りだと思った広澄氏は、猿の亡骸を埋葬しました。それを見た当時の人々は、ここを猿塚と呼ぶようになりました。
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そして、猿が埋葬されてから約300年経過(おそらく1750年…江戸時代の宝暦年間あたり)して、このような云われが風化しないようにと碑が建てられました。
碑の周りには、びっしりと文字が刻まれています。おそらくこの碑を建てた「云われ」が説明されているのではないかと考えられます。
猿の石像は、比較的あたらしいようです。近年に建てられたのではないかと考えられます。
「猿塚の碑」のすぐそばには楮原川*1が流れています。橋の親柱には「さるづかはし」という名前が確認できます。
小椎尾広澄氏は、丹後局(たんごのつぼね)を守って、現在の神奈川県鎌倉市から九州の鹿児島県まで移動してきました。丹後局は源頼朝の寵愛を受けていました。頼朝の死後、丹後局は命をねらわれる危険があったためです。鹿児島まで移動するよう命令したのは、丹後局の兄である比企能員(ひきよしかず)です。
参照:埼玉トカイナカ
小椎尾広澄氏は丹後局を連れて、鹿児島の防津、熊本県の八代(やつしろ)を経て、福岡県朝倉郡にある烏岳(からすだけ)まで来たといいます。
その後、小椎尾広澄氏は烏岳に城を築き、この周辺を治めました。
地形図で、烏岳と、猿塚の碑がある「小塩」地区の位置関係を確認してみます。烏岳から南南西へ約11㎞地点に小塩地区があることが確認されます。こんなに広い範囲を小椎尾氏は治めていたのだということがわかります。
以下は碑のそばに立てられている案内板をそのまま抜粋します。
猿塚の碑(釈文)
猿塚は筑後の東端に在って、云い伝えによると昔康正の頃(今より約五四〇年前) 小椎尾広澄の領地でありましたその為その姓を以てこの村の地名としたそうです広澄は大へん狩猟が好きで家には犬や鷹を養っていました、また馬屋には猿がいました。
或る日鷹を取ってつないでいたのですが猿がその縄につけてあった鈴をあそびものにするので馬飼の少年の十平が取り返そうとしますと猿はその鈴をくわえて逃げ出しました。
そこで十平もその後を追って、西へ西えと走りました。猿は尻深付近をぐるぐる逃げ廻り山の中に逃げ込もうとするのを捕らえて叩き殺し、その鈴を奪い返しましたところがその後広澄の家では、しばしば不思議な不吉なことが起こりました。
広澄はこれはきっと殺されたあの猿のたたりではないかと思い捨てられた猿のなきがらをその場を掘って埋め、その周囲をきれいにしてやりました。それ以来不吉なことは起こらなくなりました。当時の人々はその後此処を猿塚というようになりました。
その後約三百年(今より二四〇年前) 村人の中に山崎某という大へんすぐれた人があってこのままではこの猿塚の「いわれ」が分からなくなるだろうことを恐れてここに石碑を立てその銘文を法蘭(日田の広円寺五代)に頼みました。
この碑文には、この事は小さな出来事とは云え十平の行為は大へん乱暴ではあるが、山崎氏の行為は極めて優れたことであり古今を通じて、人々の模範とすべきであります。と銘されています。
平成九年(一九九七年八月) 中崎老人会建之
*1:おそらく”かごわらがわ”と読む