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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

長崎街道 小竹の龍徳屋跡 福岡県鞍手郡小竹町勝野

もともと無名だった集落だった小竹(こたけ)が、1713年の事件をきっかけに、一躍有名となりました。そして長崎街道の休憩所として栄えるようになりました。その事件が「竹藪騒動」と呼ばれるものです。鹿児島から江戸へ荷物を運んでいた薩摩藩の一行が、小竹で賊に襲われました。一行の家来が賊を返り討ちしましたが、痛手を負った家来は、小竹の有力者 龍徳屋で療養してもらいました。薩摩藩主が、この謝礼に小竹龍徳屋を「小休み処」に定めました。参勤交代の際は、小竹の龍徳屋に泊まるひとが増え、小竹は宿場町として栄えました。

 

現在の小竹の長崎街道の風景と、龍徳屋があった場所を下の写真でご紹介します。

場所:福岡県鞍手郡小竹町勝野

座標値:33.687235,130.711703

 

龍徳屋跡である酒店の壁に、竹藪騒動の詳細が記されていたので、以下、そのままご紹介します。

 

小竹の長崎街道で起きた竹藪騒動

 

小竹の文化財を守る会

竹藪騒動(長藪騒動ともいう)は、正徳3年(1713) 閏5月10日の深夜、南良津村抱の街道 (土手) で起きた事件である。

薩摩藩江戸屋敷への公用荷物を馬2頭に積んで馬子が引き、宰領(さいりょう)は内田忠左衛門、家来は海江田次郎兵衛。鹿児島から不眠不休で歩いてきたが、雑していてまること ができず夜道を行く事になり、暮れ六つ半 (午後7時ころ)に出発、一里半の道のりで四つどき(午後10時)にいたり、小竹の町すじについた。筑前六宿の木屋瀬宿の木屋瀬宿と飯塚宿の中間(間(あい)の宿)のとして、街道にさほど間口は広くないが商家が立ち並んでいた。

「間の宿(あいのやど)」 とは宿泊は行わず、人馬の継ぎ立てや飲食のみを提供する宿場である。立場茶屋に馬をつなぎ、源右衛門の店ののれんを押す。しかしあいにく食べるものは品切れ、お茶だけ飲んで再び出発することになった。

町並みはすぐに途切れ、二本松から、南良津村に入る。竹藪に覆われた川土手にさしかかる。ここは黒田長政が慶長18年(1613) から領民12万8千余人をもって15年の歳月をかけ寛永五年(1628)に完成した大川普請のところの一部で、護岸に植えた雌竹が繁茂し、「南良津の大藪」といわれたところである。ここを少し行けば遠賀川を渡る「店やの渡し」があって旅人相手の店が数軒あり、ここを通って木屋瀬宿へ進もうとしていた。

こ の行程は「行嚢抄(こうのうしょう)」という道中案内書があり、ここには「川幅17間、深さ5尺6尺の間、舟渡也」とあったので夜道でも大丈夫としたようである。

竹藪の道に入った途端、異変が起こる。 まず疲れでうとうとしていた宰領(さいりょう)内田忠左衛門の刀が鞘ごと何者かに奪われた。荷物を強奪しようと後をつけてきた5人の盗賊が襲ってきたのである。

忠左衛門は切りつけられながらも、脇差でこれを防ぎ、海江田次郎兵衛に馬子と木屋瀬宿に行く事を命じ、1人で賊と戦う。2人を斬ると残りは逃げてしまう。

負傷した忠左衛門は木屋瀬に向かうつもりが、店屋渡し追分を見過ごして直方藩の城下にたどり着き、案内を請うが門を開けてもらえず、よろめきながら小竹宿に引き返してきたとき、夜は明けて7つ半(午前5時ころ) になっていた。

小竹立場茶屋の源右衛門は店の前に来た血まみれの待が、昨夜の客薩摩藩士であったので仰天、土間に莚(むしろ)を敷いて寝かせ、医者の加来養林を呼び応急手当をしてもらい、町の有力者 龍徳屋又五郎に通報した。又五郎は忠左衛門を自宅に運ばせて座敷に寝かせて庄屋に通報、 勝野村庄屋も直方藩に連絡した。

直方藩には緊張が走った。 自藩内での事件発生は藩の一大事であり、藩は迅速に動いた。 木屋瀬宿に警護役を派遣して宰領荷と海江田次郎兵衛を警護させ、龍徳屋には郡代、群目付け頭ら10数人の侍が出張り、藩医と外科医を派遣した。 

又五郎は大量の焼酎を提供し、刀傷で重傷の治療にあたらせたが、藩医たちは内科医でありながら初期治療にあたった養林の秀でた医術に驚嘆したという。

盗賊5人のうち2人は忠左衛門が斬り死亡、1人は負傷で竹藪に隠れていて、 又五郎一家の若衆が捕らえた2人は逃亡した。3人は遠賀河原で斬首されたので、刑場にはおびただしい見物人が押し寄せたという。 

また小竹の宿場を見てみようと、近郊から大勢の人で町は 賑わったという。なお首は池にさらされ、ここを獄門池とよぶようになったという。薩摩藩主 島津吉貴は、手厚い看護を受けた謝礼に、この事件を吉例として小竹龍徳屋を「小休み処」に定め、参勤交代時に立ち寄るのが恒例となった。

のちには佐賀鍋島藩、久留米有馬藩もこれに習い小休み処にしたので小竹の町は人々の注目をあび繁盛するようになり、これまで無名の「間の宿」が7番目の宿に相当するほどに有名になったという。また龍徳屋原田家と薩摩内田家とは忠左衛門の7代目の孫の時代(明治30年ころ)まで友誼が続いたという。

 

参考資料
小竹町(原田家文書) 
勝野村誌 筑前国続風土記付録
福岡県地理全誌
六宿街道長藪騒動始末(牛嶋英俊著)等

 

 

久住川に架かる城原住吉橋 大分県竹田市下坂田

大正時代に架けられた美しい石橋です。

場所:大分県竹田市下坂田
座標値:32.990643,131.334369

 

1924年(大正13年)2月に着工。完成直前に崩落したため完成まで約2年かかりました。「住吉橋」という銘がかろうじて親柱部分にみえます。

住吉橋の下には清流、久住川が流れます。

旧道の城原住吉橋の横には、新しい橋が並行して架けられています。

 

天満神社階段横に祀られる庚申塔 福岡県遠賀郡岡垣町海老津

天満神社の階段横に庚申塔が祀られています。

場所:福岡県遠賀郡岡垣町海老津

座標値:33.827474,130.614168

 

庚申塔の正面には「猿田彦神」と刻まれています。左右側面の文字はほとんど判読できません。そこで『岡垣町史』P.948を参照させていただきますと、庚申塔に向かって右側面に「寛政十年」(1798年:干支は戊午(つちのえうま))、左側面に「天睢日」と刻まれていることが示されています。

「天睢日」という見慣れない文字があります。Twitter内で「天睢」という文字を検索してみると、9月の異名ということがヒットしました。この庚申塔は、1798年9月に建立されたことが想像されます。

 

八木山川沿いの道路脇に祀られる庚申塔 福岡県宮若市宮田

八木山川沿いをはしる道路の脇に、庚申塔が祀られていました。
f:id:regenerationderhydra:20221016133003j:image

場所:福岡県宮若市宮田

座標値:33.7178368,130.6618488

 

正面に「庚申尊天」、裏側に「元禄五壬年建設 明治廿九年九月再建」と刻まれています。元禄五年は、西暦1692年と、比較的ふるい庚申塔だということがわかります。干支は壬申(みずのえさる)です。
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皿倉橋 福岡県北九州市八幡東区花尾町

皿倉山から流れ落ちてくる小川に架かる石橋で、「皿倉橋」という古い橋があります。サイト『北九州まちかど探検』では”平野川の上流、皿倉霊園に通じる道に架かる皿倉橋は、大正12年1月の竣工で、八幡東区内で現存する橋としては一番古い橋です”と紹介されています。2022年10月時点で確認すると、橋桁には、かろうじて文字が刻まれていたことが確認できますが、確認できる程度で、その文字が何と刻まれているのかは判読しにくいです。同サイトによると、「大正十二年一月」「皿倉橋」と刻まれているようです。大正十二年は、西暦1923年です。

場所:福岡県北九州市八幡東区花尾町

座標値:33.854154,130.789824

 

貴船神社の境内に祀られる八基の庚申塔 福岡県鞍手郡小竹町勝野

長崎街道沿いにある貴船神社の鳥居そばに二基、境内に八基の庚申塔が祀られていました。二基の庚申塔については、前回の記事でご紹介しました。今回の記事では境内に集められている七基の庚申塔についてご紹介します。一カ所に集められているため、座標値もひとつだけ記載しておきます。

場所:福岡県鞍手郡小竹町勝野

座標値:33.688248,130.711817

赤色屋根の祠をはさんで右側に七基の庚申塔、左側に一基の庚申塔が確認できます。

庚申塔群に向かって、右側から順番にご紹介します。現在確認できる文字のみを以下に書いていきます。

 

①申祭壇

②興玉神

③田彦大

④庚申塔 四十

⑤幸神祭壇

⑥猿田彦大神

⑦申祭壇

⑧田大

 

だいぶ風化が進んでおり、文字の一部が完全に消えてしまっている庚申塔もあります。

 

貴船神社の鳥居そばに祀られる二基の庚申塔 福岡県鞍手郡小竹町勝野

福岡県鞍手郡の小竹町に貴船神社があります。貴船神社境内に、たくさんの庚申塔が祀られていました。

鳥居のそばに二基、本殿そばに八基の庚申塔が祀られているようです。今回の記事では鳥居そばの二基の庚申塔をご紹介します。

 

二基の庚申塔は、近い場所に祀られているので、座標値はひとつだけ示しておきます。

場所:福岡県鞍手郡小竹町勝野

座標値:33.688101,130.712066

猿田彦大神と刻まれた庚申塔の裏側には、明治三十六年(西暦1903年)の文字がみえます。さらに六月吉日の文字も、かろうじて見えます。

 

もう一基の庚申塔は”庚申塔”とは書いたものの、銘はみえず、おそらく庚申塔と思われる石塔です。