参照:『沖縄の聖地 御嶽』
原初の御嶽「ピイテーヌワノー」と「何もない」ことの衝撃
この書籍の著者である岡谷公二氏が「御嶽狂い」となり、半世紀にわたって沖縄の聖地を巡る決定的なきっかけとなったのは、昭和36年の波照間島での鮮烈な体験でした。日本の南端を目指して波照間島を歩いていた著者は、「小さな島にしては異様に大きい、木々が黒ずむほどに茂った森」を発見する。尋常ではない雰囲気に惹かれ、同行していた島の青年に尋ねると「御嶽だ」と答え、青年はまるで危険な獣にでも出会ったかのように著者を反対方向へ引っ張っていったという。
翌日の午後、好奇心に駆られた著者は一人でその森へと足を踏み入れた。外来者の侵入を拒むかのように濃密に枝を交わすヤラブやアコウなどの木々を無理やりかき分けて進むと、そこには白砂を敷いた広い空間が広がり、中央からは泉が湧き出ていた。そこは間違いなく祭祀が行われる至聖所であるはずなのに、社殿や祠はおろか、祭壇や香炉すら一切存在しなかった。著者は、この「何もないことから来る清浄感、神秘感」に深く打たれ、このような聖地を日本人が持ち得ていることに深い感動を覚えた*1。
東京に帰った後で文献を調べた著者は、自身が知らずに迷い込んでいたのが、波照間島で最も格が高い「ピイテーヌワノー(野原の御嶽)」を構成する3つの御嶽の一つ(おそらく真徳利御嶽)であることを知る*2。この御嶽は、人里離れた森林全体が聖地とされ、祭祀の際にも線香すら使用せず生のニンニクや塩のみを供え、特定の祭祀以外は司(神女)を除く一般の部落民の立ち入りが「全く禁ぜられている」という、極めて厳格なタブーと強烈な原始性を保っていた。この「何もない自然の森そのものが至聖所である」という原体験が、著者の御嶽研究の出発点となったそうである。
沖縄の御嶽と本土の神社――3つの決定的な違い
沖縄の御嶽は本土の神社とは大きく異なる性質を3つ持っている。
- 社殿などの人工物の有無。本土の神社には本殿や拝殿、鳥居などが備えられているのが一般的だが、沖縄の御嶽は本来、森や泉、岩といった自然そのものを聖域としている。御嶽の奥には神が降臨する標識となる「イベ(イビ)*3」と呼ばれる自然石や空間があるだけで、祭壇すら存在しないことも珍しくない。現在見られる鳥居などは、明治以降の皇民化政策などの影響で後から建てられたものが多いとされている*4。
- 祭祀を司る者の性別と「男子禁制」の掟。神社では主に男性の神主が祭祀を仕切るのに対し、沖縄ではノロやツカサと呼ばれる女性の神職が祭祀を取り仕切る。これには、女性が霊的な素質を持つとする「おなり神信仰」の考え方が根底にある。そのため、以前の御嶽は厳格な男子禁制であり、琉球王国の最高聖地である斎場御嶽(せーふぁうたき)でさえ、国王が中に入る際には女装に改める必要があったと伝えられている*5。
- 祖先崇拝や「墓」との強いつながり。御嶽の多くは、過去の実在の人物や村落の祖先神を祀っており、古代の集落跡が御嶽になったという説も有力である。実際に御嶽の奥や周辺から遺骨が発見される例も少なくなく、御嶽は血のつながりを持つ「墓」を起源とする祖先崇拝の性質を残している*6。
近代化による森の消滅と宮古島の「死んだ御嶽」
しかし、このような自然と結びついた原初の姿を持つ御嶽は、近代化や社会構造の変化によって存続の危機に瀕している。著者は、とりわけよく通った宮古島などにおいて、本来の姿を失った「死んだ御嶽」の存在を強く危惧している。宮古島には「里」という一地域や個人に近い単位で祀られる「里神(里御嶽)」があるが、世話をする家が途絶え、雑草が鬱蒼と生い茂って立ち入ることすらできなくなった荒れ果てた御嶽が存在する*7。神女の仕事は厳しいタブーに縛られ日常生活に支障を来すほど過酷だが、かつて与えられていた特権(ノロクモイ地など*8)は廃止された。現在では「労多くして功少なし」の状況に置かれ、過疎化や高齢化による信仰の低下も相まって担い手が激減しているのである。さらに致命的なのが、開発による「神の森」の消滅である。宮古島では本土復帰後の20年で島の森林が半分に減ってしまったという事実がある。他の地域でも、神の森がすべて伐り払われてコンクリートの駐車場に変わり、片隅に小さな石の祠が置かれているだけの痛ましい姿や、木々が伐採されごみが積まれた児童公園のようになってしまった場所が「死んだ御嶽」として報告されている。「宮古島の神と森を考える会」を創設した谷川健一氏は、「森がなくなれば、島の至るところに住んでいる神々は居場所を失う。神のいない宮古島など抜け殻にひとしい」と警鐘を鳴らした*9。
まとめ
- 著者の御嶽研究の出発点は、波照間島の「ピイテーヌワノー」で体験した人工物のない自然の森の神秘感である。
- この御嶽は森林全体を聖地とし、祭壇すらなく、特定の祭祀時以外は一般の立ち入りを厳しく禁じている。
- 御嶽は神社と異なり、人工物を持たず、女性が祭祀を取り仕切り、祖先崇拝や墓と深い繋がりを持つ。
- しかし近代化や社会構造の変化により、本来の祈りの姿を失ってしまった「死んだ御嶽」が増加している。
- その背景には、過酷な負担による神女のなり手不足や、開発に伴う神聖な「神の森」の深刻な消滅がある。
*1:P28-29
*2:『[琉球国由来記]に記された「宮鳥御嶽」の構造と変化』, 大田静男:御嶽では、もともと香炉が置かれ線香を焚く風習はなかった。波照間島のピテヌワー(畑の御嶽)と呼ばれる真徳利御嶽、白郎原御嶽、阿幸俣御嶽の三御嶽は最も神聖な御嶽といわれる。真徳利御嶽ではブーと呼ばれる自然石(ご神体)があり、「そこには香炉、花瓶などはない。(略)神司やパナヌファは線香を立てず、花も活けず、供え物として、ニンニク、塩、神酒を供えて、祈りを捧げる」(波照間・467
(67)頁)。他の 2 御嶽も同じである。鳥居も拝殿もない。これが、御嶽の原形と思われる。
*3:P12:「威部」という字があてられる
*4:P8,12
*5:P12,65
*6:P15-16,23-24
*7:P42,68-71)。
御嶽が「死ぬ」背景には、神女のなり手不足という深刻な問題がある((P71
*8:P71:田畑があたえられる特権
*9:P42-43