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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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古代「貝の道」と御嶽信仰のルーツ

参照:『沖縄の聖地 御嶽

 

「貝の道」が運んだ神の森

沖縄の御嶽のような「社殿を持たず、自然の森を聖地とする」信仰形態は、沖縄独特のものではなくて、本土にも存在している。古代日本において、南海の珊瑚礁海域でしか採れない貴重な貝が北九州や西日本へと運ばれた海路、通称「貝の道」が存在した*1。弥生時代などの遺跡からは、沖縄周辺で採れたゴホウラ*2やイモガイで作られた装身具が多数出土している。この交易ルートと「神の森」の分布が一致する。対馬の「天道山」、不知火海沿岸の「ヤボサ」、薩摩・大隅の「モイドン」、種子島の「ガロー山」など、社殿を持たない御嶽に似た神の森は、いずれも「貝の道」に沿うように九州西岸から奄美諸島にかけて連なって点在している。一方で九州東岸の大分や宮崎にはまとまった形では見られない*3


海商や海人たちが貝を求めて列島を移動する中で、単なる「物」だけでなく、彼らが抱いていた「森そのものを神聖視する信仰」も一緒に運んだためと考えられている*4。つまり、貝の道は物流の動脈であったと同時に、自然を畏怖する精神の道でもあり、それが沖縄の御嶽のルーツへと繋がっているのである。

 

呪術と権力の象徴「イモガイの流行」

それでは、なぜ古代の人々はそれほどまでに南の海の貝を求めたのでしょうか。それには、貝が持つ呪術的な力や神秘性が大きく関係している*5。5世紀半ばから6世紀初頭にかけて、新羅(朝鮮半島)の王族の古墳から、イモガイを用いた馬具(飾金具など)が次々と出土している。イモガイを馬具に使用する習俗はきわめて高い呪術性を持つとされ、最高権力者である新羅王族が使用したことから一種の流行(ステータスシンボル)として広まった。この流行は九州の豪族を介して日本列島にも波及し、貴重な南方の貝は古代東アジアの権力者たちを強く魅了した*6


中尊寺金色堂を飾ったヤコウガイ

さらに8世紀以降になると、「ヤコウガイ(夜光貝)」が交易に加わる。ヤコウガイは研磨すると真珠母層の異様なほどの美しい光沢を放ち、奈良・平安時代の貴族の杯や匙といった工芸品に霊的な美しさをもたらした。11世紀の『枕草子』にも、公卿や殿上人が屋久貝(ヤコウガイ)の盃で酒を回し飲みする様子が描かれている。このヤコウガイが最も多く用いられたのが、貝殻の光沢部分を切り出して漆器や木地にはめ込む「螺鈿(らでん)」の材料としてである。正倉院御物の螺鈿製品をはじめ、宇治の平等院鳳凰堂、そして岩手県の中尊寺金色堂の豪華絢爛な装飾にも、ヤコウガイが厖大な量使われている*7


岩手県の中尊寺金色堂にまでヤコウガイが運ばれた背景には、本土の権力者たちからの絶大な需要を満たす「南海貿易」の大規模な流通ネットワークがあった。実際、奄美大島北部や沖縄の久米島などでは、7世紀から10世紀頃のヤコウガイが多量に出土する遺跡(小湊フワガネク遺跡群など)が次々と発掘されている。子供の頭ほどもあるヤコウガイが密集して出土する光景は、螺鈿原材を組織的・計画的に集積し本土へ供給していた巨大な交易活動の証である*8

 

まとめ
  • 社殿を持たず森を聖地とする信仰は、南方の貝が運ばれた「貝の道」に沿うように九州西岸などにも存在する。
  • 貝の交易で移動した人々が、自然の森を神聖視する信仰も共に運んだことが沖縄の御嶽のルーツと考えられる。
  • 呪術性を持つイモガイの馬具は、新羅の王族からステータスとして流行し、古代の権力者たちを強く魅了した。
  • 8世紀以降に広まったヤコウガイは美しい光沢を持ち、螺鈿の材料として中尊寺金色堂などの装飾に使われた。
  • 膨大なヤコウガイの需要を満たすため、南の島々で原材を計画的に集積する大規模な南海貿易が行われていた。

 

 

 

*1:P110:御嶽に似た森だけの聖地は、本土の方にも、とくに西日本に多く存在する。北からあげてゆくならば、対馬の天道山、壱岐から佐賀地方、そして不知火海の沿岸にまでひろがるヤボサ、薩摩・大隅のモイドン、種子島のガロー山、トカラ列島の女神山、奄美諸島の神山……。これらは、九州の西岸、例の「貝の道」に沿って点在するのであり、(中略)これらの神の森は、大小も、ありようもさまざまだけれども、一つ共通しているのは、御嶽同様、社殿がないということである。

 

P112:しかし一九六九年、九州大学医学部教授永井昌文によって、これらの貝が琉球以南の珊瑚礁海域でしかとれないゴホウラ、イモガイであることが確認された。これらの貝は、北九州の海商たちを仲立ちにして、沖縄から運び込まれたらしいことが分かり、こうしてその海路が「貝の道」と名づけられるに至ったのである。

*2:太平洋の熱帯・亜熱帯海域、日本では奄美大島以南の、水深10m程度の珊瑚礁に生息する巻貝の一種。

*3:P110:御嶽に似た森だけの聖地は、本土の方にも、とくに西日本に多く存在する。北からあげてゆくならば、対馬の天道山、壱岐から佐賀地方、そして不知火海の沿岸にまでひろがるヤボサ、薩摩・大隅のモイドン、種子島のガロー山、トカラ列島の女神山、奄美諸島の神山……。これらは、九州の西岸、例の「貝の道」に沿って点在するのであり、九州東岸、大分や宮崎にこのような聖地が、まとまった形では見られないことからして、これは偶然の事実とは思われず、御嶽の起源を探ってゆく時、一考に値する。

*4:P118:貝の道では、人や物だけでなく、神の森まで動いたのではないか、と思われる。本章の冒頭に列挙した神の森が、いずれも貝の道に沿う九州の西岸から奄美諸島にかけて点在し、九州東岸にこのようなまとまった神の森がないこととあわせて、これらの森を奉ずる人々が南下して、それぞれの地に住み着いたのではないかという可能性へと人の心を誘ってやまないのだ。

*5:P117:一方、かつての新羅の都慶州の有名な古墳からイモガイ製の馬具が次々と発見された。二、三例をあげるならば、皇南大塚南墳(五世紀半ば〜後半、飾金具七点)、金冠塚(五世紀末〜六世紀初頭、飾金具六点)、天馬塚(六世紀初頭、辻金具六点、雲珠四点)、金鈴塚(六世紀初頭、辻金具七点、雲珠一点)といった風だ。 このような事実をふまえて、木下尚子は次のように言う。 『イモガイを馬具に使用する習俗は新羅王族に始まり、その後新羅領域に拡散したといえる』

*6:P117

*7:P112:貝の道を運ばれる南島の貝には、八世紀以降、さらにヤコウガイが加わる。やはり奄美以南の海域に棲む大型の巻貝で、貝殻が真珠母層なので、研磨すると美しい光沢を放ち、杯や匙などさまざまな工芸品に用いられ、奈良・平安時代の貴族層に喜ばれた。『枕草子』(十一世紀)の中には、「公卿、殿上人、かはりがはり盃とりて、はてには屋久貝といふ物して飲みてたつ」の一節があり、屋久貝はヤコウガイとされている。

*8:P114-115:近年(一九九〇年代)、奄美大島の北部からヤコウガイの貝殻が多量に出土する遺跡が次々と発掘された。……小湊フワガネク遺跡群(七〜一〇世紀)である

 

こどもの頭ほどの大きさがあるヤコウガイが密集して出土する様子は、一種異様な光景』であった」「『螺鈿原材に関係する集積遺跡』である。

 

このようなヤコウガイ貝殻出土の遺跡は、沖縄でも、たとえば久米島において発見されている。ところで南海貿易とも言うべき交易活動の中心となったのは、ヤコウガイをはじめとする南海産の貝殻だった。