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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

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山のなかに祀られる「豊川稲荷」 福岡県北九州市門司区田野浦

場所:福岡県北九州市門司区田野浦たのうら

座標値:33.951889,130.9926453

 

門司区の山のなかに、”ひっそり”と稲荷の祠がまつられています。もう現在はだれも訪れていないようにみえます。『北九州市誌(民俗)』P567に、この稲荷神社のことが記されています。

 

田野浦原田(田野浦一丁目6)には、稲荷社があった。病人や水商売の人の信仰が厚く、以前は、特に門司(港)の花柳界かりゅうかいからの参拝が多かった。この稲荷社には、特別の祭り行事は無かったが、立石という人がお守りしていた。開発などで現在は田野浦一丁目11の生目八幡参道わき(山中峠道)の砂防堰堤えんていのところに豊川稲荷としてまつられている。

 

この情報をもとに、田ノ浦1丁目あたりの地形図を参照します。たしかに堰堤のマークがある場所があります。この地点を目指して足をはこんでみました。

民家の脇を通り、山道へと入ります。雑草が繁茂しており山道も荒れています。以前は生目八幡への参道であったそうですが、もう今ではだれも使用していないようにみえるほど荒れていました。

 

堰堤が地形図通り見えてきたため、稲荷社が周辺にないか見回してみます。

堰堤の10mほど南側に、豊川稲荷の祠がみえました。

以前は、おそらく朱色に塗られていたと考えられる鳥居は朽ち果てています。

北九州市門司区は、かつて国際貿易港として栄華を極めていました。明治から昭和初期にかけて、門司港は石炭輸出や大陸貿易の拠点として急激な経済成長を遂げました。巨大な資本が動く場所には、商談や接待のための社会的インフラが必要となります。その機能を担ったのが、高級料亭や芸妓置屋が立ち並ぶ花柳かりゅう界(花街:かがい・はなまち)でした。

 

花柳界で生きる人々にとって、人気や運勢、あるいは日々の体調は、収益に直結するものでした。流動的で予測不可能な環境下で、彼らは「現世利益」を強力に担う「信仰」を必要としていたものと考えられます。田野浦の稲荷社は、そうした特定業界のニーズを最適に満たす「受け皿」として機能していたと推測されます。

 

どうして「豊川稲荷」なのか?

愛知県の豊川稲荷は、神社ではなく「妙嚴寺」という曹洞宗の寺院です。ここでお祀りされている鎮守「豐川吒枳尼眞天とよかわだきにしんてん」が、稲穂を背負い、白い狐に跨っているお姿であることから、いつしか「豊川稲荷」という通称が広まりました*1*2

 

仏教におけるダキニ天(吒枳尼天)は、本来は人間の心を食む「夜叉」ですが、中世の教理においては、衆生の煩悩を舐め尽くして清らかな悟り(即身成仏)へと導く深秘の存在と解釈されていました*3。また、仏教の教えを融合させる役割を持ち、天皇の身体を仏と一体化させる即位儀礼にも深く結びつくなど、単なる現世的な欲望にとどまらない、国家や儀礼を支える重層的な存在でした。

 

一方で、豊川稲荷(妙嚴寺)における信仰としては、開創時に現れた不思議な老翁(平八郎)が「どんな願いも叶う」と語ったという伝説が残されているように、願望成就や現世利益を求める層に強く支持されてきたことも事実です。その顕著な霊験は、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった著名な戦国武将から一般の庶民に至るまで幅広い帰依を集め、現在へと続く信仰の基盤となっています。

吒枳尼天

花街で豊川稲荷が信仰された背景には、人々の切実な「需要」と、豊川稲荷がもつ「機能」の完全な合致があったと考えられます。花街(遊郭や花柳界)は、人気が収入や生活に直結する厳しい客商売の世界です。そこで働く遊女や芸妓たちは、借金返済や良客との出会い、苦しい境遇からの解放といった、今すぐ解決したい切実な「現世の願い」を抱えていました。そこで必要とされていたのは、遠い未来の悟りではなく、目の前の願いや商売繁盛を即座に叶えてくれる強力な神仏でした。


一方、豊川稲荷(曹洞宗・妙嚴寺)でお祀りされている鎮守「豐川吒枳尼眞天」には、寺の開創時に不思議な老翁(平八郎)が現れ、「どんな願いも叶う」と語ったという伝説が残されています。この伝説が示す通り、豊川稲荷は強力な霊験によって願望成就をもたらす存在として広く信仰されていました*4


このように、即効性のある実利を求める花街の切実な需要と、あらゆる現世の願いを叶える豊川稲荷の強力な霊験がぴったりと合致したことが、花街の人々から熱烈な信仰を集めた理由だと考えられます。

 

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場所の変遷確認

『北九州市史』によると、豊川稲荷は田野浦一丁目6にあったとされています。地形図を確認すると、現在の場所よりも北北西400mほどの地点にまつられていたものと推察されます。

 

まとめ

・門司区田野浦の山中に、ひっそりと荒廃した稲荷祠が残る。

 

・元は田野浦一丁目6にあり、開発により現在地へ移転した。

 

・かつては病人や門司港花柳界の人々の厚い信仰を集めた。

 

・花街の不安定な環境が、即効性ある現世利益を求めた。

 

・あらゆる願いを叶える豊川稲荷の霊験が、その需要に合致。

*1:「いなり」とは豊年を意味する「イナノリ」に由来します

*2:当山の歴史 | 豊川稲荷 | 愛知県豊川市にある曹洞宗の寺院 豊川稲荷略縁起

*3:枳尼天と『法華経』をめぐる儀礼の言説』

*4:東海義易禅師が妙嚴寺開創の時、一人の老翁があらわれ、「お手伝いをいたします」と禅師の左右に侍してよく働き、自ら平八郎と称していました。老翁は一つの小さな釜を持っているだけで、ある時は飯を炊き、ある時は菜を煮、又ある時は湯茶を沸かし、しかも幾十人幾百人を展待するのにもこの不思議な釜一つで間に合いましたので、その神通に驚かないものはありませんでした。そこである人が一体どのような術を使っているのかと尋ねると、平八郎はにっこりと笑って「私には三百一の眷属がありますので、どんな事でもできないということはありません。又どんな願いも叶うのです。」と申しました。この不思議な老翁は、開山禅師が遷化されてから忽然と姿を消してしまいましたが、あとには翁が使っていた釜だけが残されていました。この因縁により世に平八郎稲荷と称えられるようになりました。