場所は、大分県の国東半島。養老2年(718年)に仁聞菩薩によって開かれたと伝わる天台宗の寺院である「霊仙寺」。この霊仙寺、竹田川をはさんで対岸に「霊仙寺旧墓地」があります。旧墓地には約200基の五輪塔など中世の石造物が群集しています。
旧墓地の入口ふきんには、目印となる兄弟割石がそびえます。
兄弟割石
場所:大分県豊後高田市夷
座標値:33.617339,131.556899


この兄弟割石から西側へ数mすすんだ場所から、山の斜面方向へと、藪にはいってゆきます。すると、「霊仙寺旧墓地石塔群」がみえてきます。
場所:大分県豊後高田市夷
座標値:33.617209,131.556681

道路から斜面地を20mほど登った崖面に沿うようにして、上下数段にわたって広範に石造物群が立ち並んでおり、地元では「霊仙寺古墓」として語り継がれてきました*1。位置関係から、かつて夷岩屋の中枢部分であった「坊中」にかかわる重要な墓地であったと考えられています*2。


約200基のさまざまな石造物群がまつられる
この旧墓地の特徴は、その規模と石造物の多様性にあります。一帯にはおよそ200基もの石造物が群集しています。中心となるのは五輪塔ですが、それだけでなく、国東半島特有の「国東塔」や宝塔、板碑、さらには宝篋印塔など、中世に見られるあらゆる塔型の石造物が同じ場所に併存しています*3。また、これらの中世石造物に交じって近世代の墓碑も数基混在しており、最奥部となる最上段の崖面には、岩を彫りくぼめた3ヶ所の仏龕が設けられ、そこには磨崖五輪塔や磨崖碑が刻まれています*4。

旧墓地の形成と年代的推移
残された石造物の形式や年代銘をたどることで、この墓地がどのように形成されてきたのかを推測することができます。石造物の推移を見る限り、この旧墓地は、室町時代にあたる西暦1400年代前半頃から墓地としての機能を果たし始めたことがわかっています
。*5。その後、戦国時代である1500年代に造立のピークを迎え、1500年代末までにはほぼ現在見られるような密集した墓地景観が形成されたと考えられます*6。さらに、最上段に刻まれた慶長8年・9年(1603・1604年)銘の磨崖碑や、元禄8年(1695年)銘の権律師澄慶の墓碑が存在することから、江戸時代に入ってからも一定の時期までは継続して霊園として使用されていたことがわかります*7。

多く残っている「五輪塔群」の形式と特徴
旧墓地内にひしめく約200基の石造物のうち、最も多くを占めるのが約160基(うち一石五輪塔32基)にのぼる五輪塔群です。これらの五輪塔は、鎌倉〜南北朝時代によく見られるような大型で梵字が深く刻まれたものとは異なり、全体的に小型化しています。一番下の「地輪」が極端に低いなど形式的な退化が見られる一方で、「火輪」と呼ばれる笠の部分の隅が反り返るような、誇張された造形を持つものも存在します。梵字についても、墨書で簡略に表されたものが数基見られるのみです。これらは主に1400年代前半に造立が始まり、1500年代にピークを迎えました*8。

墓塔としての役割と納骨の痕跡
これら多数の五輪塔は、単なる供養塔ではなく、明確に「お墓(墓塔)」として機能していました。その証拠として、五輪塔の「水輪」と呼ばれる球状の石の上面にくぼみが彫られ、そこに火葬された遺骨が納められている事例が数例確認されています。遺骨のすべてを五輪塔に納めるわけではなく、死後、荼毘に付されたのち、遺骨の一部を五輪塔に納入し、残りは土中に埋めたり散骨したりしていたと推測されています*9。


古文書から読み解く、中世の追善供養の作法
当時の人々がどのように供養を行っていたのかは、地元に残る古文書(余瀬文書の永享9年・1437年付「請諷誦善根目録事」)から知ることができます*10。ある女性(円舜祐心禅尼)の死後49日の法要記録によれば、忌明けのタイミングで五輪塔1基や卒塔婆49本を造立し、同時に法華経の書写や読誦を行っていたことが記されています。当時の思想では、法華経の教えに基づき、五輪塔を建立することが故人の成仏と極楽往生に直結すると信じられていました。霊仙寺旧墓地に累々と並ぶ五輪塔群は、このような中世の人々の切実な祈りと、供養の作法があらわされていると考えられます*11。
独自の発展を遂げた国東塔と宝塔
旧墓地内には、国東半島特有の「国東塔」や宝塔とみなされる石造物も数基確認できます。これらは本来の荘厳な姿からはやや簡略化されており、退化形式が顕著に現れているのが特徴です*12。

相輪(塔の頂上部の飾り)や蓮台のいずれかを欠くものや、基本は五輪塔の形でありながら風輪に蓮弁の装飾を施したものなど、独自のバリエーションが見られます。これらは、おおむね室町時代にあたる西暦1400年代後半から1500年代にかけて造立されたものですが、中には江戸時代初頭である1600年代初めに作られたとみられるものも存在します。

貴重な板碑と宝篋印塔
さらに墓地内には、板碑*13や宝篋印塔も残されています。板碑については、元禄8年(1695年)の銘を持つ近世初頭の板碑型墓碑のほか、15世紀後半のものとみられる二連板碑が1基確認されています。また、墓地に向かって左手の巨石の上には宝篋印塔が1基置かれています。この宝篋印塔は相輪部を欠損していますが、浅彫りでありながらシャープな段型の刻みを見せています。その形式は、山一つ隔てた真玉町にある小河内山神社の永正13年(1516年)銘のものと同型であり、それに先行する15世紀後半頃の造立と考えられています*14。

最上段の崖面に残る仏龕と磨崖碑
旧墓地の最も奥、斜面を登りきった最上段の岩壁には、岩を彫りくぼめた「仏龕」が3ヶ所にわたって設けられています。左右の2ヶ所の仏龕にはそれぞれ3基ずつの五輪塔が浮き彫りにされており(磨崖五輪塔)、中央の仏龕は4つの区画に分けられ、そこに被供養者の法名が刻まれています。区画の間の柱部分には「慶長八癸卯九月」や「慶長九」といった紀年銘が読み取れることから、これらは江戸時代初期の1603年から1604年頃に刻まれたものであることがわかります*15。



まとめ
現在の霊仙寺や六所神社の対岸にあたる崖下に位置し、およそ200基もの中世石造物が密集して立ち並んでいる。
全体の多数を占める小型の五輪塔をはじめ、国東塔、宝塔、板碑、宝篋印塔など、中世のいろいろな塔型が同じ場所に併存している。
西暦1400年代前半頃(15世紀前半)から機能し始め、戦国時代の1500年代(16世紀)にピークを迎えたのち、江戸時代まで継続して使用された。
五輪塔の石の上面にくぼみを彫って火葬した遺骨を納めた痕跡が残っており、中世の人々の追善供養の作法を伝えている。
墓地の最も高い位置にある岩壁には、岩を彫りくぼめた「仏龕」が設けられ、江戸時代初期の磨崖五輪塔や磨崖碑が刻まれている。
*1:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P34
*2:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36
*3:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P34
*4:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36
*5:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf
*6:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf:墓地は、道路から斜面地を20m程登った 崖面の下に立地しており、その崖面に沿って多量の五輪塔を主体とした石造物群が存在している。五輪塔 は、15世紀前半を上限とし、16世紀にピークがある。
*7:https://www.city.bungotakada.oita.jp/uploaded/attachment/4418.pdf:霊仙寺旧墓地の最上段の岩肌に磨崖碑・磨崖五輪塔が彫られる。磨崖碑は四つの方形区画に分けられ被供養者の法名を刻む。時期については、慶長八年(1603)銘が残る。磨崖五輪塔は、3基が彫られる。(中略)霊仙寺旧墓地の2段目に位置する。元禄八年(1695)銘の権律 師澄慶の墓碑を中心として、その背後に石殿や五輪塔が展開する。
*8:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35
*9:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35
*10:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35
*11:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35
*12:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35
*13:板状の石塔
*14:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P35‐36
*15:『豊後国香々地荘2 国東半島荘園村落遺跡細分布調査概報 大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館 1995』P36