日々の”楽しい”をみつけるブログ

福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

断片を操作する

梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』を読み返すと、情報の扱い方について、これまでの常識をひっくり返すような大切なポイントに気づかされます。なかでも「京大型カード」を使ったシステムの真髄は、知識をたくさん貯め込むことではありません。むしろ、「情報をバラバラの部品にすること」と、「あえて忘れること」にこそ、本当の価値があると考えます。

 

この古典的な知恵を、現代のデジタル環境や身体感覚とどう接続させるか。私なりの実践を整理してみます。

 

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1.「忘れる」ための外部デバイス

梅棹氏は、「カードに書くのは、そのことを忘れるためだ」と言っています*1。これは、脳の「一時的な記憶スペース(ワーキングメモリ)」をパンクさせないための考えかたです。一般的な「ノート」という形式は、書いた順に積み重なっていくため、後から動かせない「固定された記録」になりがちです。一方で「カード」は、情報を一つの最小単位に切り分けます。バラバラの「部品」に分解するからこそ、トランプのように手の中で混ぜたり、並べ替えたりといった「自由な操作」ができるようになるのです*2

 

この「情報を動かすこと(操作)」こそが、新しい価値を生み出す一番の鍵です。バラバラになったカードを机に広げ、シャッフルしたり組み合わせたりする過程で、それまで縛られていた「古いルール」が壊されます。すると、一見関係なさそうだった情報同士が突然つながり、新しい意味や構造が見えてきます。

 

情報を、形が決まった「ガチガチの知識」として崇めるのではなく、いつでも組み替えられる「動かせる部品」として扱うことが、自分の頭で新しい何かを創り出すための、いちばんはじめの段階となります。

 

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2.環境をデータとして身体に取り込む

この「断片化」の考え方は、フィールドレコーディングのおもしろさと、一致していると感じます。レコーダーを手に街へ出て、環境音や水音、鳥の声を拾い上げるのは、ただ漫然と音を記録しているわけではありません。柳沢英輔氏が提唱する「聴察」のように、世界という混沌とした全体の中から、自分の耳で「これだ」と思う音を選び出す能動的な行為です*3

 

レコーダーで録音された一つひとつの音ファイルは、「過去の記録」ではありません。それは、「音のカード」だと考えます。本来、音はその場所、その瞬間にしか存在できない「場所に縛られたもの」でした。しかし、録音してファイルに書き出した瞬間、それは時間や場所という束縛から離されて、どこへでも持ち運べる「自由な素材」へと変わります。

 

この「音のカード」が手元にあれば、きのう録った川のせせらぎと、数年前に録った街角の音を、机の上(あるいは編集画面上)で隣り合わせに並べることができます。この「出会うはずのなかったもの同士を再会させる自由」こそが、断片化がもたらす最大の効用なのだと感じます。

 

ヘッドフォンを通じて、生身の耳では捉えきれないほど増幅された音を聴くとき、「自分」と「外の世界」を隔てていた壁が消えていくのを感じます。外の音が自分の中に染み込んできて、自分の呼吸や鼓動が、周囲の環境と一つのリズムで重なり合っていくような感覚。それは、自分というシステムが、環境という大きなシステムの中に組み込まれ、「私」という個体が風景の一部として溶け出していくような感覚です。

 

自分を「情報を処理する独立した機械」と考えるのではなく、世界という巨大なネットワークに接続された一部として捉えなおしてみます。この行為が、能動的に聴く「聴察」の先にある、「同期状態」だと考えられます*4

 

フィールドレコーディングで取り込んだ音のデータは、単なる趣味の記録ではありません。それは梅棹氏の「カード」と同じように、バラバラにすることで扱いやすくした「世界のカケラ」です。それらを聴き、整理し、向き合うことで、あなたは世界の仕組みをあぶり出し、自分自身のバランスを取り戻す。つまり、録音という行為は、「仕事で熱を持った頭を、世界の静かなリズムに浸してクールダウンさせ、再び思考を組み上げるための準備」なのだと考えます。

 

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3.合成された美術体験と脳内演奏

録音された「音のカード」は、編集という工程を通ることで、この世界のどこにも存在しない「第3の風景」へと生まれ変わります。例えば、森のなかの「鳥の声」と、静まり返った「美術館の静寂」を重ね合わせる。現実の物理法則ではありえないこの組み合わせを、自分の感性というフィルターを通して一つの作品として「演奏」する。ヘッドフォンの中で音の位置を動かし、響き(残響)を調整する作業は、「情報の組み替え」による知的生産です。

 

余計なものを削ぎ落とし、最小限の要素だけで構成されたその空間は、ブルーナの絵や「禅」の世界のような、余白を持っています。音が引き金となって、脳内に「見えない光」や「空気の質感」までが描き出される。この「頭のなかでの新しい秩序の誕生」こそが、情報を操作した先に得られる生産物です。

 

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4.不協和音を「負荷」として摂取する

知的生産のレベルをさらに引き上げるためには、心地よいものだけに囲まれていては不十分です。あえて、自分が「嫌だな」「理解できないな」と感じる絵画や音楽を自分に流し込むことを、負荷トレーニングとして行なう必要があります。頭には、物事を「いつも通り」と予測して安心したがる性質があります。しかし、あえて不快感や違和感という「予測ハズレ(エラー)」を突きつけることで、精神は強く揺さぶられ、新しい思考の回路を作り始めます。

 

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私にとって、「環境の音を自分に浸透させること」と、「それらを組み合わせて未知の風景を創り出すこと」は、地続きの一つの活動です。知的生産とは、単に過去の記録をきれいに並べ直す作業ではありません。バラバラになった情報の断片を、ときどき「違和感」も材料にしながら、自分の中に新しい世界の秩序を組み立て続けること。

 

心地よい調和に安心しないで、情報を「操作」し、組み替え続ける。その作業の先にこそ、見慣れたはずの日常が全く違った姿で立ち上がる「新しい視点」が生まれるのだと考えます。

 

 

*1:カードについてよくある誤解は、カードは記憶のための道具だ、というかんがえである。英語学習の単語カードなどからの連想だろうが、これはじつは、完全に逆なのである。頭のなかに記憶するのなら、カードにかく必要はない。カードにかくのは、そのことをわすれるためである。 — 『知的生産の技術』location: [818]

*2:カードの操作のなかで、いちばん重要なことは、組みかえ操作である。知識と知識とを、いろいろに組みかえてみる。あるいはならべかえてみる。そうするとしばしば、一見なんの関係もないようにみえるカードとカードのあいだに、おもいもかけない関連が存在することに気がつくのである。 — 『知的生産の技術』location: [867]

*3:しばしば誤解されるのだが、フィールド・レコーディングは録音者の主観が介在しない客観的、中立的、匿名的な音の記録などではない。録音者は無色透明な存在ではありえず、録音対象にさまざまな形で影響を及ぼしうる存在である。あらゆる録音物は、録音プロセスにおける録音者のさまざまな「選択」、「操作」を通して産み出される。そうした選択を通して、たとえ意図せずとも、録音者の視点や思想、価値観、嗜好、録音者と対象との関係性などが録音内容に反映されるのである。つまり、フィールド・レコーディングは、録音というプロセスを通して録音者の身体と対象との関係性が不断に再構築されていくような相互的、関係的な実践である。それはマイクロフォンを通して「世界」をまなざし、物語り、再発見していく実験的、創造的な行為であり、その録音を聴く者もまた、記録された音を通して「世界」に対する新たな視座が得られるような、可能性と発見に満ちた実践なのである。 — 『フィールド・レコーディング入門』location: [126]

*4:一〇分、二〇分と集中して現場で録音のモニターをしていると、外部にあるはずの環境音が自分の内部に入りこんで、自分の身体が外部の環境音と一体化しているような感覚に陥ることがあるのだ。例えば、川の音を録音していると、川と私の身体の関係性が裏返しになり、川の内側から音を聴いているかのように感じられることがある。あるいは、森のなかでじっと録音をモニターしていると、鳥や虫などの声の響きが自分の身体に浸透し、私自身が森の一部になったかのような感覚を覚えることもある。モニター音を聴いているときは、マイクロフォンが拾っている音だけでなく、ヘッドフォンの外部から漏れ聞こえる生音も同時に耳には届いており、その二つの音が合わさった独特の生々しさがこのような感覚を生じさせているのかもしれない。また、それは聴覚だけでなく、視覚、嗅覚、触覚などさまざまな感覚を協働させながら、その場所で「聴く」という行為をおこなっているからこそ感じられる生々しさなのかもしれない。これは録音した音をパソコンに取り込んで聴くときには感じられない、その時、その場でしか聞こえない生々しさである。耳に聞こえる音とマイクが拾う音が根本的に異なるということを前提として、モニター音と生音という二つの異なる音をリアルタイムにミックスして聴くことでその場の響きを「身体化」することが、私にとってのフィールド・レコーディングにおける「観察」あるいは「 聴察」と言えるだろう。それは、知識や記憶を参照して一つひとつの音を意味づけながら聴くことではなく、身体に音を浸透させ、響きと一体になることである。 — 『フィールド・レコーディング入門』location: [905