山を歩いていると、ときどき、物理的な理屈だけでは説明のつかない「音」に遭遇することがあります。それは、怪異の話ではなく、むしろ、あまりにも日常的で、それでいて「そこに誰もいない」という事実によって、私の感情を、すこしだけ揺さぶる体験です。私が福岡県の福智山(ふくちやま)、そして宗像(むなかた)市の石鎚神社を擁する山で聞こえた「話し声」について、調べてみました。
女性の話し声が山のなかで聞こえてくる
この現象は、二度あり、どちらも同じような状況でおきました。一度目は、北九州市と直方市にまたがる福智山(ふくちやま)。時刻は午前10時頃、曇天で、森の中はわずかに薄暗い状態で、弱いけど、木々をゆらす程度の風が吹いていたと記憶しています。二度目は、宗像市多禮(たれ)にある石鎚神社。昨日のことです。時刻は13時頃。こちらは強い風が木々を揺らしていました。
どちらの登山でも、聞こえてきたのは「声」でした。それも、誰かが叫んでいるような切迫した声ではありません。60代とおぼしき数人の女性たちが語らう「井戸端会議」のような声です。距離にして約100メートル。谷側から、こちら側の登山道へと、風に乗って流れてきていました。びっくりするほど、リアリティを持っていました。
「ああ、先を歩いている登山者がいるのか」 「並走する別の登山道があるのかもしれない」と思ったので、私は反射的に「挨拶の準備」を意識しました。山のぼりで、私にとっては、他の登山するかたと会うのは、少なからず「社会的な義務」を伴います。「こんにちは」という一言を交わす身構えがでてきます。
しかし、歩いても歩いても、人影は見えません。地形図を確認しても、声が響く谷側に道などない。3分から4分の間、その「女性たちの声」は私と並走し続け、そして、いつの間にか消えていきました。
聴覚的パレイドリア(Auditory Pareidolia)という脳のバグ
この現象の正体を、科学的には「聴覚的パレイドリア(Auditory Pareidolia)」と呼びます。パレイドリア現象とは、視覚でいえば「雲の形が動物に見える」「壁のシミが人の顔に見える」といった、ランダムなデータの中に意味のあるパターンを見出してしまう脳の心理現象です。それが聴覚において発生したのが、今回のケースだと考えられます*1。
なぜ「声」として認識されるのか?科学的な視点で分析すると、今回のケースでは以下の3つの要素が揃っていると考えられます。
・ホワイトノイズの存在
風が葉を揺らす音、谷を抜ける風の唸り。これらは幅広い周波数を含む「ホワイトノイズ」に近い性質を持っています*2。
・パターンの抽出
人間の脳は、生存戦略上、意味のないノイズの中から「意味のある情報(特に他人の声や危険信号)」を抽出するように高度にチューニングされています。
・期待とバイアス
「山には人がいるかもしれない」という潜在的な意識が、ノイズを特定の音声パターン(会話)へと変換するトリガーとなります。「井戸端会議」と認識したのは、私が、日本の社会環境で育ってきたために、私の脳が持つ「音のカタログ」から、最も状況に合致するパターンが選ばれた結果であると考えられます。
特に今回、私が耳にしたのが「年配の女性の声」であった点には、物理的な整合性があります。広葉樹の葉が擦れる高周波成分は、比較的高いトーンを持つ女性の談笑の声の周波数帯域と重なりやすいのです*3。私の脳は、谷から吹き上げる不規則な風の音をサンプリングし、自らの記憶の中にある「最も平和で、かつ注意を払うべき社会的音声」…すなわち、近所で見かける井戸端会議の音…に変換して出力したのだと考えられます。
一般的に、山での不思議な体験は「寂しいから安心した」あるいは「幽霊のようで怖かった」という二極化された感情で語られがちですが、私の場合はそのどちらでもなく、「挨拶しなきゃ」という感情が先に立ちました。
私は、山に自分だけの時間をもとめに行っていますが、外部からの「社会性」が入り込んでくるとき、じゃっかんの抵抗感が感じられます。ただ、山のなかでもっとも挨拶をしやすい人というのが、にぎやかな年配の女性グループです。あいさつをすれば、ほぼ必ずかえってくるし、おしゃべりに夢中なので、こちらのこともあまり気にしていない。だから心理的ハードルがもっとも低いのが、年配の女性グループです。だから、人の声のなかでも、一番安心できる、その声をサンプリングしたのかもしれません。
この一連のプロセスは、聴覚的パレイドリアが単なる物理現象ではなく、個人のパーソナリティや社会観を色濃く反映する「鏡」であるのではないかという推論が立てられます。

80%の科学と、20%の余白
この現象に対する解釈の比率は「科学的理解が80%」「未知の領域が20%」です。以前、福智山で初めてこの声を耳にした時、パレイドリアという言葉を知らなかった私の恐怖心はおおきなものでした。「心霊現象ではないか」という疑いが、下山をし終わるまでつきまとっていました。しかし、この現象のことがわかると、「脳の処理ミス」として切り分けることができます。
しかし、残りの20%の余白は残しておきたいと感じています。3~4分もの間、聞き耳を立ててもなお「会話」として成立し続け、自分の移動に合わせて谷からついてくる声。それをすべて「脳のバグ」と片付けてしまうのは、味気ない気がします。「20%の余白」は残しておいて、未知の領域がある…という認識があると、人生を豊かにする要素になるのではないかとおもいます。科学的には「風の音」であるけれども、「別のもの」かもしれない。「挨拶しなくて済んだ」という現代的な安心感を感じつつも、心のどこかで「山のなかには、非日常が存在しているのではないか」と空想すること。この「科学的に理解できないことが、まだあるかもしれない」と、想像することが、個人の傲慢さを抑えてくれるとも考えられます。
*1:https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/acp.3068
*2:杉森絵里子・浅井智久・丹野義彦 (2009). 健常者用幻聴様体験尺度(AHES)の作成および信頼性・妥当性の検討 心理学研究, 80(5), 389-396. https://doi.org/10.4992/jjpsy.80.389
*3:Vaught, S. (2012). Perceptions of the Aging Voice [Undergraduate Honors Thesis, University of Arkansas, Fayetteville].