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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

巨岩を神とする岩屋神社 福岡県朝倉郡東峰村宝珠山

福岡県東峰村にある岩屋神社は、巨大な礫岩(れきがん)の洞窟内に社殿が収まるように建てられた、めずらしい神社です。本殿は国の重要文化財で、断崖に柱を立てて支える「懸造り(かけづくり)」という建築様式が特徴です。むかしは、英彦山修験道の修行場として栄え、自然の巨岩を神格化する原始信仰の形がのこっています。

場所:福岡県朝倉郡東峰村宝珠山

駐車場:Google map

建立年代: 元禄11年(1698年)*1

建立者: 筑前福岡藩の第4代藩主、黒田綱政(くろだ つなまさ)

 

岩屋神社の歴史は1698年の本殿建立よりもはるかに古く、6世紀(古墳時代)まで遡ると伝えられています。社伝によれば、継体天皇26年(532年)に、中国(北魏)からの渡来僧である善正(ぜんしょう)が、英彦山(ひこさん)を開いた翌年にこの地を訪れ、「宝珠山宝泉寺大宝院」として開いたのが始まりとされています*2

 

つまり、1698年(元禄11年)に行われた黒田綱政による本殿の建立は、神社の「創建」ではなく、戦国時代の荒廃などを経て行われた「再興(再建)」にあたります。

 

欽明天皇8年(547年)、空から光り輝くものが岩屋の岩上に降ってきたという伝承があります。これは「宝珠石(ほうしゅせき)」や「星の玉」と名付けられ、ご神体として祀られるようになりました。この空からふってきた岩は、隕石であるとも言われています*3

 

鎌倉時代の記録(『彦山流記』)にはすでに「宝珠山窟」としての記述があり、英彦山修験道の重要な修行場(行場)として機能していました。一辺約12メートルの大日堂があり、多くの山伏が修行を行っていたと記録されています*4

 

どうして、岸壁に神社の本殿がはりつくようにつくられているのか?


岩屋神社は、独特な建築様式もっています。本殿は巨大な岩の岸壁に、埋め込まれるように、建てられています*5。神社の名前である「岩屋」は、「岩」と「家」や「店」を意味する「屋」の文字で構成されており、その名前自体がこの場所の性質をあらわしています。この社が背後にある巨大な岩の塊そのものを神聖な対象として祀るために建立されていることが想像されます。つまり、岩壁は単なる背景ではなく、信仰の中心そのものであるととらえられます。


山岳修行の伝統である「修験の場」であったことが、この建築様式がとられているとも考えられます。宝珠山周辺に存在する奇岩(陽)は神が降りる目印で、岩窟(陰)は他界への入り口や母胎内と考えられていました*6。この「奇岩」と「窟」が一体となった場所こそが神仏が降臨する神聖な場所とされ、山伏たちが籠もって修行をするために、このような地形を利用した施設が必要とされました。

 

このような急峻な地形に建物を造る手法として、「懸造(かけづくり)」という建築様式が採用されています。岩屋神社の境内社である熊野神社本殿は、岩壁の中程に「懸造」で造られています。これは、京都の清水寺などに代表されるように、山岳や岩場の険しい環境に建物を建てるための工夫です*7

 

境内にある熊野神社ではどのような神様が祀られているのか?

岩屋神社全体としては、英彦山権現(ひこさんごんげん)と同体とされる以下の三柱が祀られています*8

 

・伊弉冉尊(いざなみのみこと)

観世音菩薩の化身


・伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

釈迦如来の化身


・天忍穂耳尊(あめのおしほみのみこと)

阿弥陀如来の化身

 

いっぽうで、境内社に「熊野神社」があります。険しい参道を登り、杉林の奥深くへと進むと、現実離れした場所に鎮座する熊野神社がみえてきます。「熊野神社」に具体的にどの神様が祀られているか、祭神名を明記した資料はありませんでしたが、おそらく、熊野権現がまつられていると考えられます。修験道では、「熊野権現」は中心的な信仰対象であり、英彦山修験においても重要な位置を占めていました。資料には「今熊野窟」には熊野十二所権現・若王子が祀られているという記述(英彦山内の別の場所に関する記述)も見られます*9。岩屋神社の熊野神社も、こうした修験道の文脈の中で熊野権現を祀るために建立されたものと考えられます。

 

岩屋神社の境内にまつられている仏像群がまつられた経緯は?

岩屋神社の境内には羅漢像群(五百羅漢)がまつられています。これらの羅漢像群は、江戸時代中期の宝暦9年(1759年)にまつられました。当時の岩屋神社の神職であった岩屋坊良海(いわやぼうりょうかい)の祖父、良弁(りょうべん)の発案によるものとされています*10

当時は「千躰仏(せんたいぶつ)」や「千躰地蔵」とも呼ばれ、五百羅漢だけでなく、三十三観音、十六羅漢、閻魔大王、奪衣婆(だつえば)、賽の河原の子供、その他寄進者からの石仏など、数多くの仏像が安置されていました*11

現在、これらの像の多くが「首なし」の状態であったり、補修されていたりするのは、明治維新期の動乱が原因です。慶応4年(1868年)の神仏分離令に伴う廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動により、これらの石仏は徹底的に破壊され、谷底へ投げ捨てられました。その後、村人たちが谷川から仏像や石塔を拾い集め、安置し直しました。しかし、回収された仏像のほとんどは首が欠損していたため、「首なし地蔵」とも呼ばれるようになりました。村人によって拾い上げられた約153体の石仏は、現在、境内にある巨大な一枚岩「馬の首根岩(こうねいわ)」の斜面や、中宮の脇などに安置されています。

岩屋神社はもともと英彦山修験道の重要な修行場(彦山四十九窟の第三窟)であり、巨岩や奇岩をご神体や修行の場とする山岳信仰の聖地でした*12。羅漢像の安置は、こうした修験道的な空間において、自然の岩壁を仏の世界に見立て、供養や修行の証として行われたものと考えられます*13