一ツ木延命地蔵菩薩(ひとつぎえんめいじぞうぼさつ)は、福岡県朝倉市の一ツ木地区に位置する宝満宮(一ツ木神社)に建立された地蔵菩薩像です。太平洋戦争末期に犠牲になったかたがた、特に幼い児童たちの犠牲を記憶し、恒久の平和を願う象徴として祀られている地蔵菩薩です。
場所:福岡県朝倉市一木
座標値:33.407094,130.660286
古くから北に大平山を望む静かで豊かな平和な里であった朝倉の地が、太平洋戦争の勃発によって大きく変貌したことに始まります。近くに大刀洗飛行場が建設され、航空廠、大刀洗航空機製作所、高射砲隊、陸軍病院などが設置されたことで、この一帯は一大軍都と化していました参照:案内板。
昭和20年(1945年)3月27日、午前10時過ぎ、大刀洗を標的とした米軍のB29爆撃機の大編隊による初めての空襲が発生しました。この空襲による犠牲者は1000人を超えると言われています参照。この日、立石国民学校(現在の朝倉市立立石小学校)では、ちょうど修了式が行われている最中でした。空襲警報が鳴り響くと、児童たちは指示に従い、地域別に急いで家路につきました参照:案内板。
しかし、一ツ木地方の児童たちが生徒隊付近に差し掛かった頃、大刀洗への爆撃が既に始まっており、このまま一ツ木へ帰るのは危険な状況でした。引率の訓導(教師)の指示により、児童たちは学校近くの「頓田の森」へと退避することになりました。ところが、不幸にも退避し終えたそのとき、投下された爆弾の一つがこの頓田の森に直撃し、大きなシイの木の周りに避難していた小学生たちの尊い命が多数奪われました参照。
この悲劇により、即死した児童は24名、重軽傷者は十数名に上り、その後亡くなった児童を含めると合計で32名という大惨事となりました参照:案内板。
一瞬にして我が子を失った親たちの深い悲しみと切なさは、やがて平和を願う心と、亡き子らの冥福を祈る行動へと昇華されました。遺族一同は話し合い、同年11月20日に、この悲劇を二度と繰り返さないという強い決意と、恒久の平和への願いを込めて、一ツ木延命地蔵菩薩を建立しました参照:案内板。
この地蔵は、国家の非常時とはいえ、幼い児童たちの命が爆死という最も悲惨な形で奪われたことに対する親たちの憤り、そして平和への叫びを銘記すべきであるとされています参照:案内板。
この悲劇と地蔵菩薩の存在は、今日まで平和教育の重要な一部として語り継がれています。立石小学校では、頓田の森の悲劇を忘れないために、毎年修了式の日に平和集会を開催しています参照。この集会では、全校児童で「平和への誓い」を唱和し、先輩たちから受け継がれてきた「平和を守る」という強い意志を次の世代に伝えています。また、一ツ木延命地蔵菩薩が鎮座する一ツ木神社では、現在も毎年3月27日に慰霊祭が執り行われ、亡くなった子どもたちの冥福を祈るとともに、戦争の悲惨さと平和の尊さを現代に伝える場となっています参照。
地蔵菩薩は、仏教において衆生を救済する慈悲深い菩薩として信仰されています。特に「延命」の名を冠する地蔵菩薩は、生命を延ばし、苦しみから人々を救うご利益があるとされます。日本で成立したとされる「延命地蔵菩薩経」では、地蔵菩薩が「延命地蔵菩薩」「延命菩薩」とも呼ばれ、三悪道に堕ちた者をも天や浄土に生まれさせ、現世では十種の幸福(例えば女性の安産、健康、長寿、財産など)をもたらし、八種の恐怖(例えば戦争、飢饉、疫病など)を取り除くと説かれています。
また、地蔵菩薩は輪廻の世界を迷う全ての衆生を救済するまで成仏しないという誓願を立てており、衆生の苦しみを自らが背負うという深い慈悲の心が強調されています。この信仰的側面は、頓田の森で幼くして命を奪われた子どもたちの魂の安寧を願い、生き残った親たちが戦争の悲劇から立ち直り、将来の世代が平和に生きることを願う思いと強く結びついています。特に「女人泰産」(女性の安産)の項目が「延命地蔵菩薩経」に加えられたことは、命の尊さや次世代への願いと関連が深いと言えます(参照PDF:日・中地蔵信仰比較研究試論)。つまり女性の存在が、命の継続と次世代の誕生に不可欠な要素として重要視されていると読み取ることができます。また、地蔵菩薩が一ツ木延命地蔵菩薩として選ばれたのは、爆撃で我が子を失った親たちが、その我が子を痛み、その魂が無事に輪廻転生に入り、次の輪廻でも安穏に生きていけることを、強く願った現れだと考えます。
平和は、あたりまえのものではなく、現在も世界各地で戦争や紛争が続き、多くの命が失われています。朝倉地区も戦争の甚大な被害を経験した地域として、「戦争」を最大の人権侵害であると認識し、二度と悲劇を繰り返さないために何を学び、何を語り継ぐべきかを問い続けています参照。一ツ木延命地蔵菩薩は、その問いかけの象徴として、現在も、大切に祀られ続けています。
【案内板(書き起こし)】
一ツ木延命地蔵菩薩の由来
古来当地は、北に大平山を仰ぐ静かで豊かな平和郷てあったが、太平洋戦争勃発により、近くの大刀洗飛行場を中心に航空廠、大刀洗航空機製作所、高射砲隊、陸軍病院等が設置され一大軍都と化していた。かくて昭和二十年三月二十七日、午前十時過ぎより大刀洗を目標とする米軍のB29爆撃機の大編隊による初の空襲に見舞われたのである。終業式の最中であった立石国民学校児童は、警報と共に地方別に急ぎ帰途についたが一ツ木地方の児童が生徒隊付近にいたるころは、大刀洗の爆撃が始まりこのまま一ツ木に帰ることが危ぶまれ引率訓導の指示により学校近くの頓田の森へ待避したものの、不運にも待避し終わった刹那、投下された爆弾により大多数の児童の命を奪ったのである。即死児童二十四名、重軽傷十数名の犠牲を出し後刻死亡児童と合わせて三十二名という大惨事になったのである。一瞬にしてわが子を失った親の悲しみと切なさは、やがて平和を願い亡き子の冥福を祈る心の現れとして、遺族一同相はかり同年十一月二十日この命地蔵菩薩の建立となったのである。この地蔵は、たとえ国家非常の時とはいえ、無垢て明るく天使のようないたいけな児童達の命を爆死という最も悲惨な姿で奪われた親心の二度とくりかえしてはならない戦争への憤りであり、恒久の平和を願って止まない叫びであることを銘記すべきである。