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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

北九州水道発祥の地 福岡県北九州市門司区羽山

北九州市門司区羽山2丁目付近に、「北九州水道発祥の地」と書かれた看板があります。この看板の向こう側には金網で囲まれた広場がみえます。

場所:福岡県北九州市門司区羽山

座標値:33.918523,130.946729

 

北九州市の水道は、明治44年(1911年)に旧門司市で給水が開始されたことに始まります。これが北九州市の水道の発祥とされています。具体的には、明治44年(1911年)11月4日に小森江浄水場から旧門司市の一部への給水が開始されました。


この水道創設の背景には、当時の旧門司市が特別開港場として国際港都として繁栄していたものの、地勢的に用水に乏しく、毎年のようにコレラなどの伝染病が流行していたことがあります。これらの伝染病予防と、急激な人口増加による水不足を解消するために、上水道の布設が必要とされました。


北九州市の水道は、九州では長崎、佐世保に次いで3番目、日本国内では22番目の近代水道でした参照。近代水道とは、川などから取り入れた水を濾過し、鉄管などを用いて有圧で給水する仕組みのことです参照。旧門司市では、明治42年(1909年)に福智貯水池の建設が開始され、導水、浄水、配水施設などが整備されました参照。その後、市勢の発展に伴い、頂吉や松ヶ江の貯水池なども建設されています。


小森江貯水池と小森江浄水場は、現在ではその使命を終え廃止されています。

旧五市時代の発展と水道の役割

若松、小倉、八幡、戸畑の旧各市においても、それぞれ都市の発展に伴い水道事業を創設し、独自経営で市民の水需要に対応しました。官営八幡製鉄所の操業開始(明治34年)やその後の拡張に伴い工業用水の確保が重要となり、八幡製鉄所への工業用水供給だけでなく、当時の若松町や八幡市、戸畑市への上水道供給も行われ、都市衛生基盤の向上に大きな役割を果たしました。

 

合併後の統合と拡張

昭和38年に北九州市が誕生し、翌昭和39年1月1日には門司水道部と北九州水道組合が合併して北九州市水道局が発足しました。北九州市は産業貿易都市として発展を図るべく臨海部に工業団地を造成するなど、工業の集積を図りました。この基盤整備として工業用水の確保が急務となり、工業用水道事業も進められました。また、都市化に伴う水需要への対応と、繰り返す大規模な渇水への対応のため、5度にわたる水源確保・配水強化の拡張工事を実施しました。

 

渇水克服と安定供給体制の確立

北九州市の水道は「渇水との闘いの歴史」でもありました。水不足解消のため市域外に水資源を求め、力丸、油木貯水池を完成させましたが、その後も度重なる渇水に見舞われ、昭和53年には170日間の給水制限を行いました。水源開発や拡張事業の結果、日量供給能力は5市合併当時の32万1,000m³から76万9,000m³へと2倍以上となり、安定度が大幅に向上し、現在では「渇水に強い北九州市」を誇れるようになりました。現在では水源の8割を市外に求めています。

 

下水道事業による都市環境の改善

北九州市の下水道事業は、1918年に石炭の積出港として栄えた旧若松市で始まりました。下水道は、汚水処理、浸水防止、環境保全といった重要な役割を果たし、都市の衛生環境と快適性の向上に不可欠なものとなりました。かつて工場排水や生活排水により汚染され「どぶ川」とよばれていた紫川も、下水道管やポンプ場、浄化センターの整備によりきれいな水質を取り戻し、人々が集う場所に生まれ変わっています参照

 

現代の課題と新たな展開

現在、北九州市では少子化による人口減少や節水型機器の普及などにより水需要は減少傾向にあります。また、高度経済成長期に整備した上下水道施設が大量に更新時期を迎えており、老朽化対策が課題となっています。こうした状況に対し、将来の水需要に見合った施設規模にするための再構築の検討や、老朽化施設の更新が進められています。 さらに、水道事業の安定的な運営のため、近隣の市や町への水の供給(広域連携)を行っています。また、公害克服で培った技術やノウハウを活かし、30年以上にわたって世界の水環境の改善に貢献する国際技術協力や海外水ビジネスを推進しています。特にカンボジアの首都プノンペンでの実績は「プノンペンの奇跡」と呼ばれ参照、国際貢献に加えて、若手職員の技術力向上や地元企業の海外展開にもつながっています参照