2025年5月26日の記事『枝光の豊前坊 福岡県北九州市八幡東区高見』関連で、福岡県北九州市八幡東区の豊町という地区にある、豊日別神社を訪問しました。
八幡東区の枝光の大蔵の境の丘の一番高い所を、昔は「豊前坊」と呼んでいた。そこには大正の末ごろまで「豊日別神社」という小さな神社があった(現在は枝光八幡宮境内に移されている)。彦山の豊前坊を勧請したもので、明治の初めごろまでは、枝光村の牛馬の守護神として、例祭日は大変にぎわったと伝えられている。(『北九州市史』P.593、「枝光の豊前坊」)
『「枝光の豊前坊」を探す③ 福岡県北九州市八幡東区諏訪』では、枝光八幡宮を訪れましたが、境内には豊日別神社らしきものは確認することができませんでした。しかし、せっかくなので、おなじ八幡東区に鎮座する、豊町の豊日別神社を訪問することにしました。
場所:福岡県北九州市八幡東区豊町
座標値:33.847906,130.812192
豊町の豊日別神社は、河内貯水池の北北東側、貯水池から流れる板櫃川の上流部に沿った谷あいの集落の中に鎮座しています。
豊日別神社の鎮座する場所は、豊町の集落の中ではやや西寄りの、民家が点在するエリアにあります。福岡県道62号線からは、西へ少し入った山の斜面にあたります。国土地理院地図上では、神社マークは記されていません。
豊町の豊日別神社が鎮座する周辺は、細い生活道のみがあり、駐車するスペースもすくないために、徒歩にて移動しました。いちおう、神社の前には、駐車場があるのですが、これが神社の駐車場なのか、付近の民家のかたの駐車場なのかわからないために、駐車するのは控えました。
そのため、河内貯水池のほとりにある堰堤駐車場に車を停め、徒歩で北上し豊日別神社へと参拝しました。
福岡県道62号線から集落入口へと続く道▼ ゆるやかな坂道が集落内へとのびています。
坂道を登りきると、徐々に道幅が狭まり、木々に囲まれた舗装路となります。路面には落ち葉があり轍がみられます。
苔むした石垣の奥に民家がみえますが、この民家の手前で、左手方向(東側)へと登る階段があらわれます。
この階段を登っていきます。道は折れ曲がったり、急な坂になったりしながら、木々の間を縫うように続いています。右手には高めのフェンスや壁がある場所もあれば、左手には廃屋が見える場所もあります。庭がきれいに手入れされている家もあります。
坂と階段をのぼりつめた場所は、やや開けており、民家・畑、そしてその奥に目指す豊日別神社を見ることができます。
豊日別神社の入口です▼ 白く塗られた鉄製の鳥居が立ち、「豊日別神社」と書かれた扁額が掲げられています。鳥居の手前左側には、手水舎のような洗い場が設けられています。
豊日別神社 御由緒
鎮座地 八幡東区豊町21番15号(大字大蔵字山野田)
御祭神
天照大神(日の神)大権現さま
大山祇神(山の神)豊前坊さま
地主神(大地の神)地主さま
高龗神(雨の神)龍神さま
闇龗神(雨の神)貴船さま
大国主神(穀物の神)金比羅さま
御由緒
江戸・天明四年(一七八五)創祀である。当初は豊前坊様と称し、神仏習合思想に依って祀られていられているが明治初期、豊日別神社 鎮守名に改む。御祭神から解るように、農耕主宰の神々であり特に大山祇神は、春に山から降り田の稲となって稲の生育を見守り、秋の収穫が終わると山に帰って山の神となり、この地の祖先と合体し、この地域の万物を生み出す母神的な神様である。
祭礼日
祈年祭 四月 初日
供日祭 十月 末日
比較のために、以下に、北九州市史に書かれている枝光の豊日別神社の解説を示します。
八幡東区の枝光の大蔵の境の丘の一番高い所を、昔は「豊前坊」と呼んでいた。そこには大正の末ごろまで「豊日別神社」という小さな神社があった(現在は枝光八幡宮境内に移されている)。彦山の豊前坊を勧請したもので、明治の初めごろまでは、枝光村の牛馬の守護神として、例祭日は大変にぎわったと伝えられている。(『北九州市史』P.593)
北九州市史では「彦山の豊前坊を勧請したもの」とあります。豊町の豊日別神社の案内板には、”「当初は豊前坊様と称し」と明確に記されており、さらに御祭神として「大山祇神(山の神)豊前坊さま」”と書かれています。「豊前坊」という名称が両方の記述に登場することは、両者が同じ彦山系の豊前坊信仰をルーツとしていることが考えられます。
豊日別神社(豊町)の案内板には「明治初期、豊日別神社 鎮守名に改む」とあり、当初は「豊前坊様」と呼ばれていたものが、「豊日別神社」に改称された経緯が示されています。これは、明治時代の神仏分離令によって、これまで神と仏が一緒になった呼び名だった『豊前坊様』という名前が、神道らしい『豊日別神社』という名前に変わったということがわかります。
案内板の御祭神には「農耕主宰の神々であり特に大山祇神は、春に山から降り田の稲となって稲の生育を見守り、秋の収穫が終わると山に帰って山の神となり」とあり、山の神が農業を見守る神であることが示されています。いっぽう、『北九州市史』の記述では「枝光村の牛馬の守護神」と示されていることも、農耕、ひいては産業の守護という点で共通の役割を持つ可能性があります。
彦山系の豊前坊信仰が広がる中で、枝光と豊町という別の場所に、それぞれ「豊前坊」を勧請した神社が創建されたけど、その中でも豊町の神社が現在も独立して残っているという可能性が考えられます。枝光の豊日別神社と、豊町の豊日別神社は、少なくとも「豊前坊」という共通の信仰的ルーツを持つ、密接に関連する神社であると考えます。
鳥居をくぐった先には、コンクリート製の石段が境内へと続いています。
階段は写真に写っている程度の短いものです。
境内の中心には、小さな石祠が祀られています。屋根はコンクリート製で、その下には白い幣束が三つ供えられています。供物台には、常緑の植物が活けられ、左右に対になって置かれています。祠の右には、お賽銭箱も設置されています。
この祠の右隣には、磐座のような大きな自然石が、幹の太い木に寄り添うように鎮座しています。この石にも注連縄が巻かれ、白い幣束が吊るされており、神が宿る依代として崇められていることがわかります。この石の根元にも、小さな供物台が設けられ、榊が供えられています。
さらに右側を見ると、木製の小さな社が、石製の基壇の上に建てられています。この社にも注連縄と幣束が飾られており、大切にされている様子がうかがえます。
中央の石祠の奥には、立派な樹が立っています。注連縄と紙垂がかけられているために、この樹が依り代であると考えられます。カシの樹でしょうか。