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福岡県在住。九州北部を中心に史跡を巡っています。巡った場所は、各記事に座標値として載せています。座標値をGoogle MapやWEB版地理院地図の検索窓にコピペして検索すると、ピンポイントで場所が表示されます。参考にされてください。

大里の「瀧の観音」 福岡県北九州市門司区大里

場所:福岡県北九州市門司区大里

座標値:33.896313,130.943512

 

『北九州市史』P.585に”大里だいりの 滝の観音”という史跡が紹介されています。瀧の観音は、Google mapでは「滝の観音寺」と表記されている場所にまつられています。

 

”創立年代は不明であるが、藩政時代、戸上満隆寺(戸上神社境内にあった。現在地蔵堂がある)の修験者の行場であったと伝えられている。ここでは月の十七日(観音様)、二十八日(不動様)には大数珠くりがあり、正月、五月、九月に護摩焚き供養があって、今も多くの参拝者でにぎわう。(『北九州市史』P.585)”

瀧の観音寺

瀧の観音寺は、北九州市門司区大里の戸ノ上山中腹に位置する天台宗の寺院です。その起源は古く、伝説によれば1200年以上前に遡るとされます。麓にあった満隆寺の奥之院としての機能があるようです。瀧の観音寺が位置する戸ノ上山は、古来より霊山として認識されてきたと考えられます。実際に、戸ノ上神社の社記には、宇多天皇の寛平年間(約1130余年前)に戸上山上に三柱の大神(天御中主神、伊邪那岐神、伊邪那美神)を奉祀したことが記されており、これが戸上神社の起源とされています 。

戸上神社境内の様子

この奉祀の際、御霊代を枝折戸しとりどに奉載して山上に奉安したことから、山を「戸上とのえ」と号し、神社を戸上神社と称するようになったと伝えられています 。

 

このような背景を持つ戸ノ上山は、自然崇拝と山岳信仰の対象となりやすく、後に仏教が伝来すると、修行の場として、また神仏習合の舞台として発展していく素地を有していました。

 

瀧の観音寺の直接的な起源は、約1200年以上前、後の天台宗開祖である最澄が唐へ渡る際に戸ノ上山に立ち寄り、この地を神仏の棲む霊山として一宇を建立したことに始まるとされています参照

 

その後、この地は僧侶の修行の場として知られるようになり、特に鎌倉時代後期には、山麓に修験道(天台宗系)の僧侶によって「戸の上山 満隆寺」が建立されました 。この満隆寺の「奥之院」として、滝修行の場として機能したのが、現在の瀧の観音寺の境内地であったとされています参照

瀧の観音寺へとつづく参道

満隆寺の創建については、平城天皇の大同元年(806年)に、遣唐使からの帰朝途上にあった空海参照が戸ノ上山に霊感を感じて上陸し、密法を修行して山麓に一宇を建立し「満隆寺」と号したという伝承もあります参照。満隆寺はその後、戦国時代に大友氏の兵火によって焼失しましたが、江戸時代に復興しました 。特に江戸時代には、名僧「蘭山」が入山し、満隆寺は北豊第一の禅林として名を馳せ、全国から多くの修行僧が集まったと記録されています 。

満隆寺の痕跡である戸上神社境内の地蔵堂

しかし、隆盛を誇った満隆寺も江戸末期から明治初期にかけて徐々に荒廃し、境内地も失われました。地名として「寺内」という名が残っているのは、かつての満隆寺の広大な寺域を偲ばせます参照。明治時代の神仏分離令により廃寺となったという記録もあります参照。その結果、麓にある戸上神社にわずかにその面影を残すのみとなりました。戸上神社境内には、昭和五十年に大里地区の信仰者によって再建された大師堂があり、空海(弘法大師)ゆかりの満隆寺との関連を今に伝えています 。

忘れ去られていた満隆寺の奥之院、すなわち滝修行の場であった場所に、現在の瀧の観音寺が再興されたのは、大正十二年(1923年)のことです 。天台宗の高僧「晟尚法印じょうしょうほういん」によって再興されました参照PDF

 

このように、瀧の観音寺の歴史は、最澄の開創伝承に始まり、満隆寺(空海開基伝承も持つ)の奥之院としての繁栄、その後の満隆寺の衰退と廃仏毀釈の波、そして大正時代の再興という複雑な経緯をたどっています。戸上神社との関係も含め、これらの寺社は戸ノ上山という共通の聖地を舞台に、時代ごとの宗教政策や信仰のあり方の変化を色濃く反映しながら、その歴史を刻んできました。

 

瀧の観音寺は、北九州西国三十三ヶ所霊場の第四番札所としても知られています 。これは、地域における観音信仰の拠点の一つとして位置づけられていることを示しています。また、境内には観音菩薩だけでなく、不動明王や地蔵菩薩、さらには稲荷大明神、淡島大明神、猿田彦大神、八大龍王といった神仏が共に祀られており 、神仏混淆の姿を色濃く残しています。これは、地域住民の多様な願い事(病気平癒、家内安全、商売繁盛、縁結びなど)に応えることができる包括的な信仰の場として機能してきたことを示唆します参照PDF

瀧の観音寺は、豊国学園の脇から急な坂道を15分ほど登った森の中に位置し、滝と沢に囲まれた場所にあります。

瀧の観音寺における信仰は、天台宗を基盤としつつも、神仏習合の顕著な特徴を示し、さらには天台宗玄清法流という特異な法流の影響を受けていると考えられます。瀧の観音寺の本尊は如意輪観世音菩薩とされていますが、その他にも阿弥陀如来、不動明王などが祀られています。

 

これらは仏教における代表的な諸尊であり、如意輪観音は福徳や智慧、安産などあらゆる願いを叶えるとされ、阿弥陀如来は極楽往生、不動明王は煩悩破砕や厄除け、地蔵菩薩は子供の守護や苦難からの救済といったご利益が期待されます。

 

境内に稲荷大明神(五穀豊穣、商売繁盛)、淡島大明神(婦人病平癒、安産、裁縫守護)、猿田彦大神(道開き、方位除け)、八大龍王(水難守護、雨乞い)といった神道の神々も祀られている点が特徴的です 。これは、神仏分離令を経てもなお、地域の人々の多様な信仰的要求に応える形で神仏混淆の形態が維持されていることを示しています。

年間行事としては、17日の護摩供養大祭が重要であり、多くの参拝者で賑わったとされています 。この定期的な祭礼は、地域社会との結びつきを維持し、信仰を伝承していく上で中心的な役割を果たしていると考えられます。具体的なご利益としては、「お乳水」の伝承のように、子育てや健康に関するものが地域で語り継がれてきた可能性があります。

瀧の観音寺の信仰は、天台宗の教義を基盤としながらも、修験道的な修行の要素、神仏習合による多様な神々の受容、そして玄清法流という特異な儀礼的伝統が融合した、複合的で地域に根差したものであると言えます。

滝の行場

境内の一番奥、「如意輪観世音菩薩にょいりんかんぜのんぼさつ」がまつられるお堂へと続く参道。

この如意輪観世音菩薩が、「瀧の観音」と称されていると考えられます。