福岡県の北部に位置する福津市は、玄界灘に面した自然豊かな地域であり、その沿岸部にある勝浦は、古くから海とともに生きてきた人々の歴史と文化が息づいています。この勝浦の地には、海岸の丘陵地に六社宮(ろくしぐう)と、その近くに義民六士の巨石がひっそりと鎮座しています。
六社宮(ろくしぐう)
座標値:33.821291,130.475708
義民六士の巨石
座標値:33.821468,130.475459
勝浦の六社宮は、寛永十七年(1640年)に漁場を巡る争いの末に処刑された津屋崎浦の義民六士を祀る神社です。
浦庄屋佐兵衛ら六名は、黒田藩に対して漁場の境界確定を直訴した罪により処刑されました参照。約200年後の天保五年(1834年)頃、彼らはその功績が認められ、地域の神として祀られるようになりました参照。
以下の写真は、六社宮と義民六士の巨石への道のりを写したものです。
入口の座標値:33.820762,130.475812
六社宮の鳥居が丘陵地にぽつんとみられます。
六社宮は地元において、漁場争いにおいて津屋崎浦の願いが叶ったことから、「勝負の神」として信仰されているとされています。これは、義民六士の犠牲がもたらした結果が、神社の信仰に直接的に結びついていることを示唆しています参照。
↓六社宮から北東約30m地点に、義民六士の巨石がまつられています。
義民六士の物語の歴史的背景には、江戸時代における津屋崎浦と勝浦浜の間の長年にわたる激しい漁場争いがあり、その決着となる出来事が寛永十七年(1640年)頃に起こりました参照。
義民六士として知られるようになった六人の男たちは、津屋崎浦の代表者たちでした。その名前は、浦庄屋佐兵衛、組頭七郎兵衛、長兵衛、甚兵衛、作右エ門、弥右エ門です。彼らの行動の背景には、勝浦浜(約50戸)と比較して漁師の数が大幅に多かった津屋崎浦(約300戸)の漁民たちのために、より有利な漁場を確保する必要性がありました。
網を引くことが難しい岩場が多い津屋崎浦の漁民たちは、より開けた勝浦浜へのアクセスを求めていました。彼らが黒田藩の浦奉行に直接訴え(直訴)るという決断は、通常は禁じられており、死罪に処される可能性のある危険な行為でした参照。
直接訴えに対して、黒田藩の浦奉行は新たな漁場の境界を定めるために、独特で過酷な試練を課しました。彼は津屋崎浦の六人の代表者に対し、約300貫(約1.125トンから1.2トン)もの非常に重い巨石を白石浜から勝浦浜の方向へ運ぶように命じました。そして、彼らがその巨大な重さに耐えきれず石を置いた地点を、新たな境界線とするとしました参照。
自分たちのコミュニティのために広大な漁場を確保することに成功したにもかかわらず、六人の男たちは、許可されていない直接訴えを行った罪で逮捕され、翌日には悲劇的なことに処刑されました。しかし、彼らの犠牲は無駄ではなく、長年の争いに終止符が打たれることになりました参照。
津屋崎漁業協同組合は、昭和五十五年(1980年)に砂浜に埋まっていたこの石を掘り起こし、コンクリートの台座に乗せて保存することで、歴史的な目印としてのその存在を維持する役割を果たしました。