五来重氏の著書『石の宗教』を拝読して…。『石の宗教』では、日本人が古来より抱いてきた石に対する信仰、いわゆる「石の宗教」について、考古学、民俗学、宗教学などの視点から多角的に考察したことが紹介されています。五来重氏は、各地に残る石造物、例えば、磐座(いわくら)、石塔、道祖神、庚申塔などを丹念に観察し、その背景にある信仰や儀礼、そして庶民の生活との関わりを考察しています。特に興味深いことは、仏教伝来以前の自然崇拝やアニミズムといった原始宗教的な信仰が、現代の日本人の深層心理にまで影響を及ぼしているという指摘です。石造物は、単なる物質ではなく、日本人の精神文化を理解するための重要な鍵であることが示唆されています。この示唆に私自身も共感を覚えます。古代の人々が石に託した祈りの心、自然への畏敬の念、祖先への感謝の気持ち…そうした心の在り方は、現代を生きる私自身にも、応用できるのではないかと考えます。
石に対する信仰 - 古代から続く日本人の精神性
日本人の自然観と石に対するアニミズム的信仰について
日本人は古来より、自然の中に神々の存在を感じ、畏敬の念を抱いてきました。山、川、海、そして石など、自然のあらゆるものに霊魂が宿ると考え、それらを崇拝の対象としてきました。これは、アニミズムと呼ばれる万物に霊魂が宿るという考え方であり、日本人の自然観と深く結びついています。特に石は、その硬さ、永続性 、不思議な形状から、神聖な力や神秘性を感じさせる存在として、古代の人々の信仰を集めてきました。巨大な岩や奇岩は、神が降臨する場所、あるいは神そのものとして崇められ、磐座(いわくら)と呼ばれました。また、石は、祖先の霊魂が宿る場所、あるいは祖先と繋がるための依り代(よりしろ)*1としても考えられてきました。縄文時代には、石棒と呼ばれる男性器を模した石造物が作られ、子孫繁栄や豊穣を祈願する祭祀に用いられました。弥生時代以降は、古墳に石棺や石室が作られるようになり、石は死者を葬るための神聖な空間を構成する材料となりました。このように、石は、古代から日本人の生活や信仰と密接に関わってきました。そして、石に対するアニミズム的信仰は、仏教伝来以降も、形を変えながら現代まで受け継がれています。神社の境内にあるご神体や、道祖神や庚申塔として祀られている石、墓石としての五輪塔や宝篋印塔など、様々な石造物が、日本各地で大切にされています。これらの石造物は、日本人の自然観、宗教観、死生観などを理解する上で、重要な手がかりとなると考えられます。
石の宗教 - 多様な形態と変遷
磐座(いわくら):神が降臨する石 - 自然崇拝の原点
古代の日本人は、自然の中に神々の存在を感じ、畏敬の念を抱いていました。特に、巨岩や奇岩といった、人知を超えた造形を持つ岩は、神聖な場所、あるいは神そのものとして崇拝の対象となっていました。こうした岩は、磐座(いわくら)と呼ばれ、神が降臨する場所、あるいは神が鎮座する場所と考えられていました。磐座は、自然崇拝の原点とも言える存在であり、古代の人々の自然観や宗教観を理解する上で重要な手がかりとなります。例えば、神社の境内にあるご神体の中には、磐座として祀られているものも少なくありません。また、山岳信仰においても、山頂や山腹にある巨岩が磐座として崇拝されることがあります。磐座は、自然の力強さ、雄大さ、そして神秘性を体現する存在であり、古代の人々は、そこに神々の存在を感じ、祈りを捧げてきたのでしょう。現代社会においても、磐座は、私たちに、自然への畏敬の念、そして自然と共存することの大切さを思い出させてくれる、貴重な存在だと考えられます。
宗像大社の磐座
宗像大社(むなかたたいしゃ)は、福岡県宗像市にある神社で、沖ノ島(沖津宮)、中津宮、辺津宮(へつみや)の三宮からなります。このうち、沖ノ島は島全体が神域とされ、古代から祭祀が行われてきた場所です。島内には、多くの磐座(いわくら)が存在し、古代の人々が神様を祀っていた痕跡を見ることができます*2。宗像大社の磐座は、古代の自然崇拝と、その後の神道との繋がりを示す遺跡であると考えられます。沖ノ島では、古代祭祀は島のいろいろな場所にある巨岩群を中心に、一貫して露天で行なわれてきました。現在、沖ノ島には沖津宮という社殿が建てられていますが、それは後世のものであり、古代、沖ノ島の祭祀において、重要な役割を果たしたのが巨岩や磐座です*3。宗像大社は、沖ノ島だけでなく、大島の中津宮、九州本土の辺津宮にも磐座が存在します。これらの磐座は、古代の人々が自然に神聖さを感じ、信仰の対象としてきたことを示すものであり、日本での神道祭祀の起源を辿る史跡であると考えます。
石棒:男根崇拝と祖先崇拝の象徴
石棒は、縄文時代中期から晩期にかけて、主に東日本で見られるようになった石造物です。棒状の形をしており、長さは数10cm~2mを超えるものまで様々です。形状は男性器を模しており、このことから、石棒は男性の生殖力や生命力を象徴し、子孫繁栄や豊穣を祈願する祭祀に用いられたと考えられています。石棒の用途については、様々な説がありますが、有力な説としては、祖先崇拝の象徴として、集落の中や墓地に立てられた、豊穣を祈願する儀礼に用いられた、男性の権威や力の象徴として、指導者が所有した…などが挙げられます。石棒は、縄文時代の人々の精神世界を理解する上で重要な手がかりとなるとともに、後の時代の日本文化にも影響を与えていると考えられています。例えば、神社の境内にあるご神木の中には、石棒を起源とするものもあると言われています。また、道祖神の中には、男根を模した石棒を祀っているものもあり、石棒の信仰が現代まで形を変えながら受け継がれていると考えられます。
石棒や 鍬形石や御物石器のような宗教用具も造られた。石棒はもと木製の男根形の棒(コケシの原形) を立てて祖先をまつったのが石製化されたらしいが、大型の武具としての石棒もあったことはもちろんである。石棒は明治維新の「淫祠邪教の禁」で、お堅い役人が撤去しなければ、今でもたくさん見られたにちがいない。しかし、これは中世から石地蔵に置き換えられて、村境や広場に塞の神の代わりに立っている*4。
洞窟・石窟
窟(くつ)や石窟(せっくつ)は、大昔より人間の心に恐怖感や神秘の感情を抱かせる場所でした。奥深く、光が届かない暗闇は、人間の心にこのような感情を抱かせる存在であったことが想像できます。窟は、異界への入り口、あるいは死と再生を司る場所として、様々な信仰を生み出してきました。例えば、沖縄では、石灰岩でできた自然洞窟を「ガマ」と呼び、祖先の霊が宿る場所として崇拝してきました。ガマの中には、拝所や祠が設けられ、神聖な空間として大切に守られているものもあります*5。また、富士山の麓にある「人穴」と呼ばれる洞窟は、地獄の入り口とされ、かつては死者を葬る場所としても利用されていました*6。これらの洞窟にまつわる信仰は、人々が自然の神秘的な力に畏敬の念を抱き、死生観や霊魂観といった根源的な問いと向き合ってきたことを示していると考えられます。洞窟や石窟は、単なる自然の造形物ではなく、人間の精神世界を映し出す、文化的な意味を持つ場所と位置づけられると考えられます。
賽の河原
賽の河原*7は、日本の民間信仰において、死生観*8を強く反映した場所です。親より先に亡くなった子どもが、三途の川の河原で、父母の供養のために小石を積み上げて塔を作ろうとするが鬼に壊されてしまう、という伝説が伝わっています。賽の河原の石積み*9は、子どもの 「親への強い思い」 を象徴していると考えられます。意味もわからず、ただひたすらに石を積む行為は、 言葉にならない悲しみや愛情の表現 であり、 現世に残してきた親への贖罪 の気持ちも込められているのかもしれません。また、石を積み上げては壊されるという行為の繰り返しは、 「輪廻転生」 の思想とも関連付けられます。生と死の循環、そして、そこから解脱して極楽浄土へ行くことを願う気持ちが込められていと考えられます。現代においても、賽の河原は、子どもの霊を慰める場として、あるいは、 死者を悼み供養する場として、大切にされています。
地域差から見る石造信仰の多様性‐道祖神と庚申塔
庶民の生活に根ざした石造物は、地域共同体の安全を守り、人々の願いや祈りを具現化した存在として、日本各地に数多く見られます。
例えば、道祖神…小正月*10に行われる道祖神の火祭りは、子供たちが火を扱うことを許される特別な日で、集落ごとに様々な形で道祖神を祀り、火を焚きます。道祖神は、村境や道の辻に置かれ、悪霊や疫病を防ぐ神であり、諏訪民族*11が信奉した道の神と考えられます。その起源は、朝鮮の将軍標*12や中国の道祖神に遡る可能性があり、石像道祖神は江戸中期以降に石工によって作られたと考えられます。道祖神の密分布地帯は、神奈川県境川から群馬・栃木県境の渡良瀬川、新潟県信濃川南岸、天竜川と南アルプスの東側にかけてであり、鳥取県大山山麓のものは明治時代以降のものです。道祖神の形式は、石祠、奇石、男根女陰、双神像、双僧像、単神像、単僧像など様々で、特に双神像には、女神が子供を抱いているものや、結婚式を表現したもの、性的な表現を含むものなど、興味深いものが長野県から群馬県にかけて多く見られます*13。
そして庚申塔…庚申塔は、日本各地でその姿を見ることができる庶民信仰の証だと考えられます。その地域差、時代差は、石の文化を語る上でも非常に興味深いものと考えます。特に大分県の国東半島(くにさきはんとう)は、独特の庚申塔文化を育んできた地域と言えます。国東半島の庚申塔研究の第一人者である小林幸弘*14氏は、長年にわたり庚申塔の調査を行い、その成果を多数の著書で発表しています。小林幸弘氏によると、国東半島の庚申塔は、表現様式の違いから「文字塔」と「刻像塔」に大別できるといいます。また、庚申塔に刻まれた主尊の種類から、「青面金剛塔」と「猿田彦塔」に分類することもできます。青面金剛は『庚申縁起』に説かれる庚申信仰の本尊ですが、国東半島では、比叡山の地主神であり道案内の神でもある猿田彦を主尊とした庚申塔も存在します。これは、外敵や疫病を防ぐという共通の機能を持つ青面金剛と猿田彦が習合し、猿田彦が神道系の庚申主尊として祀られるようになったためと考えられます。国東半島の庚申塔は、それぞれに地域性や時代背景を反映した多様な相違が見られる点が大きな特徴だと考えられます。小林幸弘氏の調査は、国東半島の庚申塔を、その背景にある信仰や社会構造、歴史的文脈を総合的に理解することの重要性を示していると考えます。
石の宗教が映し出す日本人の精神文化
石の宗教は、日本人の精神文化を理解する上で、重要な手がかりを与えてくれます。自然への畏敬の念、祖先崇拝、アニミズムといった、日本人の根源的な精神性が、石造物を通して、色濃く反映されているからです。まず、自然への畏敬の念について考えてみましょう。古代の日本人は、自然の力を畏れ、同時にその恵みに感謝しながら生きてきました。巨大な岩や奇岩、あるいは神秘的な洞窟などは、自然の力の象徴として崇拝の対象となり、磐座や神籬(ひもろぎ)として祭祀に用いられてきました。また、農耕や漁撈など、自然の恵みによって生活していた人々は、田の神、山の神、海の神など、色々な自然神を信仰し、豊作や豊漁を祈願しました。こうした自然への畏敬の念は、現代の日本人の自然観にも影響を与えていると考えます。自然災害の多い日本では、自然の脅威を常に意識し、自然と共存していくことの大切さを、認識する必要があると考えます。
日本人は、祖先の霊を敬い、その加護を祈るという伝統的な価値観を持っています。石造物の中にも、祖先崇拝と関連付けられるものが多く存在します。例えば、縄文時代の石棒は、祖先の霊を象徴し、子孫繁栄を祈願する祭祀に用いられたと考えられています。また、古墳時代の石室は、祖先の霊を祀るための神聖な空間として、石で構築されました。現代においても、墓石は、故人を偲び、その霊を慰めるための存在です。このように、祖先崇拝は、日本人の死生観や家族観、そして社会の形成に深く関わっていると考えられます。
アニミズムとは、万物に霊魂が宿るという考え方です。日本人は、古来より、自然だけでなく、人工物や抽象的な概念にも、霊魂の存在を感じ取ってきました*15。石造物は、アニミズム的思考から生じてきたと考えられます。石に神や霊魂が宿ると信じ、それを崇拝の対象としてきた日本人の感性は、石の宗教を通して、現代にまで受け継がれています。アニミズムは、日本人の宗教観や自然観、そして芸術観にも大きな影響を与えてきたと考えられます*16。例えば、日本の伝統芸能である能や歌舞伎には、神や精霊、あるいは動物の霊などが登場し、人間と自然、あるいは現象界と精神世界との交流が描かれることが多いです。また、日本の伝統的な美術工芸品には、自然の風景や動植物をモチーフにしたものが多く*17、そこには、自然への畏敬の念や、万物に宿る生命への慈しみが表現されていると考えられます。石の宗教は、自然への畏敬の念、祖先崇拝、アニミズムといった、日本人の根源的な精神性を理解する上で、貴重な手がかりを与えてくれます。そして、これらの精神性は、現代社会においても、人間が自然と共存し、祖先を敬い、万物に感謝の気持ちを持って生きていくことの大切さを教えてくれると考えます。
*1:神霊が寄りつくもの、または神霊の代りとして祭られるもの。樹木、岩石、人形、動物、御幣、鏡、剣、旗、のぼり、 位牌など。
*3:沖ノ島と古代祭祀 | 知る | 世界遺産「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群
*4:『石の宗教』Kindle位置176
*7:「賽の河原」は日本全国様々な場所に存在しているもので、 まさにこの世とあの世との境界に位置する指標ということになる
*8:生きることと死ぬことについて、判断や行為の基盤となる考え方や、生と死に対する見方。
*9:賽の河原(さいのかわら)の石積みとは?三途の川の手前で塔を作る理由
*10:旧暦の1月15日で、その年の最初の満月の日を祝う日です。現在では新暦の1月15日に祝う地域が多く、1月14~16日の3日間を指す場合もあります。
*11:古代に長野県の諏訪湖周辺に居住していたと考えられる人々で、独自の文化や信仰を持ち、狩猟や漁撈(ぎょろう)を中心とした生活を送っていたと推測されています。
*12:朝鮮半島の村落に見られる魔除けのための境界標。
*13:『宿なし百神』P.196‐198
*14:小林幸弘氏のプロフィール。1954年生まれで、1973年から国東半島に通い始め、1974年から庚申塔に関心を持ち始めました。長年にわたり国東半島の庚申塔を調査し、その成果を書籍やホームページで発表しています。1981年 『国東半島のコウシンさま』出版、2001年 ホームページ「国東半島の庚申塔」開設、2017年 ホームページを大幅リニューアル、書籍『国東半島の庚申塔』出版、2021年 『国東半島の庚申塔総覧』出版。また、大分県石造美術研究会や日本石仏協会などで、国東半島の庚申塔に関する講演も行っています。
*15:『文学の研究(Ⅴ) 文学と自然・外国(英米)文学と日本文学における自然観(1)』栃原知雄
*16:『日本におけるアニミズム研究史概観』馬場裕美
*17:例えば九谷焼では花鳥風月や動植物、古典的な文様などの複雑で豪華な装飾が施されることが多い。石川県伝統の九谷焼(くたにやき)とは?主な特徴と魅力から起源となる歴史まで解説 | Kogei Japonica 工芸ジャポニカ