場所:沖縄県国頭郡宜野座村漢那
座標値:26.477171,127.960075
国頭郡(くにがみぐん)
宜野座村(ぎのざそん)
漢那(かんな)
沖縄本島北部、宜野座村の漢那集落に「漢那祝女殿内(かんなのろどぅんち)」があります。そこは、むかし村の繁栄を祈願した神聖な場所であり、琉球王朝時代から続く信仰文化を今に伝える貴重な遺産です。
祝女殿内とは、琉球の言葉で「ノロドゥンチ」と読み、祝女火の神(のろひぬかん)を祀った祠のことです。祝女(のろ)とは、琉球王朝時代から続く女性司祭で、地域の祭祀を取り仕切り、御嶽と呼ばれる聖域の管理などを行っていました。祝女たちは、王家の安泰と地域の豊作・豊年を祈願する、いわば村の精神的な支柱でした。
漢那祝女殿内は、漢那集落だけでなく、隣接する惣慶集落(そけいしゅうらく)の祭祀も司っていました。そのため、祭祀には両集落の神職者が参加し、神酒を献上するなど、盛大に行われていたようです。
祝女は世襲制で、王府から任命された家系からしか就任することができませんでした。漢那祝女殿内も代々受け継がれてきましたが、疫病や移民、戦争など、様々な理由で祝女が出家*1し、消滅の危機に瀕したこともあったといいます。しかし、地域の人々の尽力により、現在では祝女や神職者が再興されてきました。
漢那祝女殿内には、興味深い伝承も残されています。その一つが、「神アシャギ」と呼ばれる村の守護神を招いて行われていた祭祀です。祝女殿内の南西側に隣接するこの場所で、祝女は村の安寧*2を祈願しました。
また、神アシャギの東側に広がる漢那農村公園には、「馬川(マーガー)」と呼ばれる池跡があります。これは、むかし祝女が権威の象徴として馬を連れて祭祀を行っていた際、その愛馬を水浴びさせた井泉の池でした。「漢那のろくみの乗りみせる馬や 爪は綾爪に真黒立髪」という歌が残されているように、祝女の馬は特別な存在だったのでしょう。
参照:https://plaza.rakuten.co.jp/gomachanoklnawa/diary/202402220000/
祝女殿内は、沖縄の信仰文化を理解する上で欠かせない存在です。しかし、時代の流れとともに、祝女の風習はしだいに薄れていきました。那覇市首里末吉町で発掘された末吉ノロ殿内跡のように、記録保存され、撤去されることもあります。
漢那祝女殿内は、今も地域の人々によって大切に守られています。その存在は、私たちに琉球王朝時代からの歴史と文化、人々の信仰心の深さを教えてくれます。
案内板▼
漢那祝女殿内(かんなのろどぅんち)
祝女殿内(のろどぅんち)とは、「祝女火の神(のろひのかん)」を祀った祠の事で、琉球(首里) 王府から神職(神役)を任命された祝女(のろ)が王の安泰を祈願した場所です。また、祝女火(のろひ)の神(かん)は、村の台所を表す「カマ ド」であり、村が豊かになるように豊作・豊年を祈願する場所でもありました。
宜野座(ぎのざ)村地域には、漢那祝女(かんなのろ)と宜野座祝女(ぎのざのろ)が居り、漢那祝女は漢那村(現・漢那区)と惣慶村(すーきむら)(現・惣慶区(そけいく))の祭祀(さいし)を司っ ていた為、漢那祝女火(かんなのろひ)の神(かん)の祭祀は、漢那村だけでなく惣慶村の神職者も参加し、神酒(みき)を献上しました。 かつて 、漢那祝女殿内(かんなのろどぅんち)で行われた村の祭祀は、様々な理由 (疫病・移民・戦争など諸説あり)により、何度か祝女出自家(のろしゅつじけ)の消滅の危機がありましたが、現在、祝女などの神職者は再興(さいこう)されています。 漢那祝女殿内は、漢那の祭祀や儀礼を考える上で大切な場 (文化財)です。
参照:https://ghusuku.ti-da.net/e2756550.html
参照:https://www.jalan.net/yad346040/blog/entry0000997594.html